ビッグが開催されると同じ年度には記念競輪が開催されないというのはよくあること。このために4年ぶりとなった前橋記念の決勝。並びは菅田ー佐藤-小橋の北日本,天田ー矢口の群馬,脇本-浅井-北野の近畿中部で松田は単騎。
牽制状態となりましたが浅井がスタートを取って脇本の前受け。3番手に天田,6番手に松田,7番手に菅田で周回。残り3周半のバックで早くも菅田が上昇。ホームで脇本を抑え込むと誘導を斬って先頭に。脇本はインを進出しようとし,浅井がつけられずにラインが切れましたが,最終的には脇本が下げたのでまたドッキング。そのまま菅田があまりスピードを緩めなかったので,形の上では3周の先行に。打鐘で松田が小橋をどかして3番手に入り,天田は5番手を確保。脇本はホームから巻き返しにいきましたが見せ場すら作れず。バックから天田が発進し,矢口の後ろに浅井がスイッチ。松田の発進や牽制があったため,矢口はコーナーで外に大きく浮いてしまい,開いたコースに突っ込んだのが浅井。直線は番手から抜け出した佐藤を浅井が差して優勝。半車輪差で佐藤が2着。1車身差の3着に外を伸びた天田。
優勝した三重の浅井康太選手は5月の宇都宮記念以来となる記念競輪8勝目。前橋記念は初優勝。思いもよらなかった激しいレースになって,マークした脇本は不発に終わりましたが,その後の立ち回り方が見事でした。ここでは脚力は最上位で,結果的には展開不問の力差を示しての優勝だったといえるでしょう。
まとめると以下のようになります。
もしも延長の属性の間接無限様態である全自然に関するある観念を,その全自然の十全な観念,いい換えればその全自然の本性ならびに発生を含むような観念であると考えるなら,その観念は第一部定理二二の様式で,その観念によって一部を組織される知性のうちに,あたかも自動機械のように生起します。そしてこの場合,その全自然あるいは全自然の観念は,res particularisではあり得ないということになります。
しかしもしも,全自然がその本性から離れた一特質から理解されるなら,部分的には第二部自然学②補助定理七備考でスピノザが示した様式で,その観念によって一部を組織される知性のうちに,やはり主体の排除がされているようなあり方において生起するということはあり得ます。この場合には知性は全自然を,無限にまで拡大されたres singularisであると認識し,したがってそれはres particularisであるというように認識することになるでしょう。
そしてこのふたつの事柄は何も矛盾しないと僕は考えます。なぜなら,全自然の本性の認識は,神の延長の属性の絶対的本性を契機としてある知性のうちに生起します。しかしその本性から切り離された特質の認識は,res singularisの認識ですから,第一部定理二八の様式で知性のうちに生起します。この場合には,一定の仕方で変状した神の延長の属性がこの認識の契機となっていると考えなければなりません。そしてこの関係がちょうど,絶対的と一定が対義語的関係を構成することと,本性と特質が対義語的関係を構成することに,この場合にはという限定は必要になるのですが,リンクしているのです。
したがって,もしも全自然をその本性から切断し,ある一特質だけに着目する限り,確かに間接無限様態はres particularisであるという認識が結論として生じ得るでしょう。しかし,その特質を必然的に帰結させる本性に注目すれば,やはり間接無限様態はres particularisではあり得ないということになると思います。
牽制状態となりましたが浅井がスタートを取って脇本の前受け。3番手に天田,6番手に松田,7番手に菅田で周回。残り3周半のバックで早くも菅田が上昇。ホームで脇本を抑え込むと誘導を斬って先頭に。脇本はインを進出しようとし,浅井がつけられずにラインが切れましたが,最終的には脇本が下げたのでまたドッキング。そのまま菅田があまりスピードを緩めなかったので,形の上では3周の先行に。打鐘で松田が小橋をどかして3番手に入り,天田は5番手を確保。脇本はホームから巻き返しにいきましたが見せ場すら作れず。バックから天田が発進し,矢口の後ろに浅井がスイッチ。松田の発進や牽制があったため,矢口はコーナーで外に大きく浮いてしまい,開いたコースに突っ込んだのが浅井。直線は番手から抜け出した佐藤を浅井が差して優勝。半車輪差で佐藤が2着。1車身差の3着に外を伸びた天田。
優勝した三重の浅井康太選手は5月の宇都宮記念以来となる記念競輪8勝目。前橋記念は初優勝。思いもよらなかった激しいレースになって,マークした脇本は不発に終わりましたが,その後の立ち回り方が見事でした。ここでは脚力は最上位で,結果的には展開不問の力差を示しての優勝だったといえるでしょう。
まとめると以下のようになります。
もしも延長の属性の間接無限様態である全自然に関するある観念を,その全自然の十全な観念,いい換えればその全自然の本性ならびに発生を含むような観念であると考えるなら,その観念は第一部定理二二の様式で,その観念によって一部を組織される知性のうちに,あたかも自動機械のように生起します。そしてこの場合,その全自然あるいは全自然の観念は,res particularisではあり得ないということになります。
しかしもしも,全自然がその本性から離れた一特質から理解されるなら,部分的には第二部自然学②補助定理七備考でスピノザが示した様式で,その観念によって一部を組織される知性のうちに,やはり主体の排除がされているようなあり方において生起するということはあり得ます。この場合には知性は全自然を,無限にまで拡大されたres singularisであると認識し,したがってそれはres particularisであるというように認識することになるでしょう。
そしてこのふたつの事柄は何も矛盾しないと僕は考えます。なぜなら,全自然の本性の認識は,神の延長の属性の絶対的本性を契機としてある知性のうちに生起します。しかしその本性から切り離された特質の認識は,res singularisの認識ですから,第一部定理二八の様式で知性のうちに生起します。この場合には,一定の仕方で変状した神の延長の属性がこの認識の契機となっていると考えなければなりません。そしてこの関係がちょうど,絶対的と一定が対義語的関係を構成することと,本性と特質が対義語的関係を構成することに,この場合にはという限定は必要になるのですが,リンクしているのです。
したがって,もしも全自然をその本性から切断し,ある一特質だけに着目する限り,確かに間接無限様態はres particularisであるという認識が結論として生じ得るでしょう。しかし,その特質を必然的に帰結させる本性に注目すれば,やはり間接無限様態はres particularisではあり得ないということになると思います。