スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

夢のカード&物の表現と因果関係

2013-07-29 18:54:16 | NOAH
 馬場の長男が三沢であるということは,少なくとも最良の時代が始まり,鶴田がセミリタイアした後となっては,ファンもよく分かっていたと思います。ただそれはあくまでも類推にすぎないのであって,馬場自身がはっきりと示していたかといえば,そうとはいえない面もあったように思います。しかし全日本プロレスという会社の経営はともかく,リング上に残したかったものを継ぐのが三沢であるということは,僕は馬場は生前に内外に示したのだと考えています。それは1994年3月5日のことです。
                         
 この日は日本武道館大会。メーンは馬場が不沈艦とタッグを結成し,三沢,小橋組と戦う,夢のカードが行われました。試合は35分11秒,三沢が馬場からスリーカウントを奪って終焉しました。馬場がスリーカウントを許したという事実が,リング上の自分の後継者は三沢であるということを,馬場が明らかにしたということだと僕は考えています。たぶんプロレスラーの表現というのは,そういうものだと思うからです。フィニッシュとなった技は,馬場が得意にしていたジャンピングネックブリーカードロップを,三沢流にアレンジしたもの。それはまた,後継に指名された三沢の,その地位を背負っていくということを明示するための流儀であったのだろうと思います。三沢はこの試合の後は,何度かこの技を使用していますが,これ以前に使ったことはなく,このときが初めてであったということも,その証明でしょう。
 僕は数多くのプロレス興行を生観戦しています。その中でどの試合がベストマッチであったかと問われれば,迷わずにこの試合をあげます。試合後の余韻も強烈で,なかなか席を立ち上がることができないほどでした。友人と合わせて3人で観戦していたのですが,3人が3人ともそうだったのです。
 三沢がタイガーマスクの覆面を脱いで三沢光晴に戻った東京都体育館の試合と,この試合。これらふたつの試合をライブで観戦していたということは,僕のプロレスファンとしての財産であり,また誇りなのです。

 この因果関係と神の本性との間にある関係というのは,スピノザが第一部定理二五備考で主張していることのうちに含まれると考えることができるのではないでしょうか。なぜなら,スピノザはそこで,神Deusが自己原因causa suiであるということと,神が万物の原因であるということは同一の意味であると主張していますが,このとき,神が自己原因であるということは神の本性essentiaに該当し,神が万物の原因であるということの方は個々の因果関係に該当していると理解することが,明らかに可能であると思えるからです。
 すると,僕は個々の因果関係は神の本性の法則が具現化したものであり,その各々の原因と結果との間に横たわらなければならない必然性necessitasを,神の本性が背後から支えるのだといいましたが,実際にはそのようにすら考える必要はなく,神の本性の必然性と個々の因果関係の必然性は同一のものであると理解して構わないということになります。
 このように理解すると,今度は次のような事柄が帰結してきます。自然のうちに何らかの物,ここで物というとき,僕は第一部定理二六でいわれている物というのをまず念頭に置いていますが,そうした物Xが実在すると仮定します。第一部定理三六から,このXは必ず原因として何らかの結果,たとえばYを産出することになります。このとき,XからYが生じる関係のうちにはある必然性が存在しています。これが第一部公理三が示していることです。ところがこの必然性というのは,神の本性の必然性と同一の意味であると解釈して構わないのです。ということは,Xは神の本性の必然性に則ってYを産出しているということになります。もちろんXが産出する物はYだけではなく,ほかにも存在すると考えられますが,その場合にもXが,神の本性の法則に従ってそうした物を産出する点では何ら変わるところがありません。いい換えれば,Xは神の本性の必然性に則するならば,必然的にnecessario何らかの結果を産出することになるでしょう。逆に神の本性の必然性に反する仕方では,何の結果も産出するということはないでしょう。
 これはちょうど,物の表現について考察したときの結論を,個々の因果関係にも適用したということです。
コメント
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