スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&私はいう

2014-07-24 19:53:36 | 将棋
 徳島市で指された第55期王位戦七番勝負第二局。
 木村一基八段の先手。作戦の選択権は羽生善治王位にあり,相矢倉に進めました。数多く指されている戦型で,研究も行き届いているのでよくあるように前例を踏襲しての進展。88手目に後手が新手を放ちました。
                         
 これがその局面。ここは銀で取ると△6五香が厳しいので▲同歩の一手のようです。そこから△8七歩。僕は▲同王△8五歩が後手の読み筋だったのではないかと思うのですが,先手は▲同金と応じました。そこで△3三王。
                         
 形を乱したのに満足して歩を払ったとみるべきか,こう手を戻さなければならないのでは新手があまり効果的ではなかったとみるべきか難しいところで,今後の研究課題になるのではないでしょうか。
 第2図から先手は▲7五歩と攻め合いにいったので,△2六歩▲2八飛という交換の後,△6五香▲7六金右△6七香成と進み,一応は新手の狙い筋のひとつが実現した形にはなりました。
                         
 以下は激戦が続き,最後は後手が制しました。先手有望という見解の局面もありましたが,極端に後手が悪くなったというようには,僕には感じられませんでした。第3図以下,102手目に△9四飛と逃げた手や,104手目に△6六歩と成香を守った手が,先手玉の寄せに役立ったのは,とても印象的です。
 羽生王位が勝って1勝1敗。第三局は来月5日と6日です。

 『エチカ』には私はいうという形式の定義命題もあります。たとえば第二部定義二にみられるような命題です。
 その前に,単にいうと記述されるならどうでしょうか。第一部定義二はいわれるとなっていますが,広くいえばこのタイプの定義命題であるといえます。そしてこれが定義命題として成立するのは,当然だと僕は考えます。定義命題として最適なのは,おそらくAはBであるというタイプのものでしょう。実は『エチカ』にはこのタイプは意外に少なく,第二部定義五が最初に現れるこの形式です。ただ,AはBであるというのは,BをAというと換言することができます。つまり単にいうといわれるなら,それは最適な命題を別の仕方に置換しているだけです。BであるものがAといわれるという形式の第一部定義二をみてもそれは分かると思います。なのでこのタイプは事物の定義命題として,何の問題も孕んでいません。
 ここから,私はいうというのがどう把握されるべきかが出てきます。これは私はBをAであるというという意味です。『エチカ』でそう記述されたなら,スピノザは,本性がBであるものをAというという意味です。
 そうであるなら,僕はこれもまた一般的に定義命題として成立すると考えます。これは公理系の作者が,ある約束事を記述していると解釈できるからです。たとえば僕はこのブログでは身体の刺激状態の観念のことを身体の変状といいます。これは身体の変状の定義であるとはいえませんが,僕はただこのブログでの用語の使用法を説明しているのであり,そのことについて正しいとか誤っているとか主張するような要素はまったく含まれません。公理系において私はいうというタイプの命題は,すべてこの規則に準じます。ですからそれが定義であるかどうかを具体的に問うことはできても,一般的に命題として問題を抱えることはありません。
 とりわけスピノザの哲学は,ことばと観念は異なることが強調されます。そのゆえに唯名論的傾向が色濃くなります。したがってBが観念対象ideatumとなったらそれをAということばで表現するという命題は,公理系の理解を深めるために有益だといえます。
コメント
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