レイスと樋口の関係のうち,美獣が樋口の後任としてGHCのタイトル管理委員長に就任したのは,樋口が前任者であったからです。つまり樋口がNOAHにいたからこその出来事です。NOAHに入った経緯は,樋口自身がインタビューで明かしています。
1999年1月31日の馬場の死後,樋口はプロレス業界に終止符を打ってもいいと思い,全日本を退社。悠々自適の生活を送っていました。その後,NOAHの旗揚げに際して三沢から連絡があり,協力を求められたとのこと。『心に残るプロレス名勝負』でもひとつ書かれていましたが,樋口はプロレス業界ではそれだけでなく多くの裏切りに遭遇していました。しかし三沢の人間性は以前から信頼していて,その人間性は,樋口の退社後も変化していなかったので,自分にできることがあれば援助すると,その申し出を受け入れたとのことです。樋口はこの部分はごく簡単に述べているだけですが,ここから察するとそれ相当のやり取りはあったものと思われます。
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樋口と三沢では年齢が大きく違いますが,三沢の人間性には以前から感心していました。口数は多くなく,当事者に何かを伝えるということは少なかったものの,その当事者が考えた事柄をバックアップする面があり,それを樋口は三沢の器量の大きさと表現しています。そのゆえに樋口自身だけでなく,多くの人から人望があったと樋口はみています。ですからNOAHという団体は,三沢がほかの選手を誘うことによってできた団体なのではなく,人望のゆえについてきた選手が多くなってできた団体だと樋口は考えています。僕は三沢に対する評価の理由のひとつに,ついてきた選手の多さというのを挙げましたが,樋口のことばはその推測の確かさを裏付けるものであるといえるでしょう。
途中,空白の期間もあるにはありましたが,樋口は結果的に半世紀以上もプロレス業界で生きたことになります。そのために,同僚や一緒に苦労した人間たちの裏切りをも体験することになったけれども,最後の最後に三沢に声を掛けてもらったのは,業界からの最高のご褒美であったと樋口は結んでいます。
僕は様態と様態的変状との間にあるニュアンスの相違を,理性的区別であると考えています。そしてそれと同じように,実体が様態に変状するといわれる場合と,実体が様態的変状に様態化するといわれる場合も,理性的には区別されなければならないと考えます。
この理性的区別を実在的に説明します。神のある属性,たとえば思惟の属性が何らかの思惟の様態に変状するという事態を知性が十全に認識すると仮定します。同じように思惟の属性が思惟の様態的変状に様態化するという事態を,それと同じ知性がやはり十全に認識すると仮定します。これらふたつの事態の観念を抽出し,その観念を形相的に把握することが可能であるなら,このふたつの観念は同一の観念であると僕は考えます。いい換えればこれらふたつの観念対象ideatumが,これらふたつの観念を十全に認識すると仮定した知性を離れるような仕方で考えられ得るとすれば,これらふたつのideatumは同一です。一般的にいうなら,属性が様態に変状するという事態と,同じ属性が様態的変状に様態化するという事態は,それを認識する知性という観点を削除する限り,同一の事態であると考えます。
では知性が,純粋に形相的な観点からは同一であるふたつの事態を,いかにして理性的に区別して認識するのかということを僕がどう考えているのかといえば,それはその事態を,どういった観点から認識するのかということに帰着させられます。もしも知性が,ある様態を主要な観点としてこの事態を認識するとき,知性はこの事態を属性が様態に変状するという事態として認識します。しかし知性が属性の方を主要な観点として認識するならば,知性はこの事態を,属性が様態的変状に様態化すると認識することになります。属性が様態に変状したものは様態です。属性が様態的変状に様態化したものについては,僕は様態であるとは考えずに,様態のようになった属性であると解するのです。
このことから,僕が様態と様態的変状の理性的区別がいかなるものと考えているのかも明らかでしょう。前者は属性が変状した様態そのものです。後者は様態に変状した属性のことです。
1999年1月31日の馬場の死後,樋口はプロレス業界に終止符を打ってもいいと思い,全日本を退社。悠々自適の生活を送っていました。その後,NOAHの旗揚げに際して三沢から連絡があり,協力を求められたとのこと。『心に残るプロレス名勝負』でもひとつ書かれていましたが,樋口はプロレス業界ではそれだけでなく多くの裏切りに遭遇していました。しかし三沢の人間性は以前から信頼していて,その人間性は,樋口の退社後も変化していなかったので,自分にできることがあれば援助すると,その申し出を受け入れたとのことです。樋口はこの部分はごく簡単に述べているだけですが,ここから察するとそれ相当のやり取りはあったものと思われます。
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樋口と三沢では年齢が大きく違いますが,三沢の人間性には以前から感心していました。口数は多くなく,当事者に何かを伝えるということは少なかったものの,その当事者が考えた事柄をバックアップする面があり,それを樋口は三沢の器量の大きさと表現しています。そのゆえに樋口自身だけでなく,多くの人から人望があったと樋口はみています。ですからNOAHという団体は,三沢がほかの選手を誘うことによってできた団体なのではなく,人望のゆえについてきた選手が多くなってできた団体だと樋口は考えています。僕は三沢に対する評価の理由のひとつに,ついてきた選手の多さというのを挙げましたが,樋口のことばはその推測の確かさを裏付けるものであるといえるでしょう。
途中,空白の期間もあるにはありましたが,樋口は結果的に半世紀以上もプロレス業界で生きたことになります。そのために,同僚や一緒に苦労した人間たちの裏切りをも体験することになったけれども,最後の最後に三沢に声を掛けてもらったのは,業界からの最高のご褒美であったと樋口は結んでいます。
僕は様態と様態的変状との間にあるニュアンスの相違を,理性的区別であると考えています。そしてそれと同じように,実体が様態に変状するといわれる場合と,実体が様態的変状に様態化するといわれる場合も,理性的には区別されなければならないと考えます。
この理性的区別を実在的に説明します。神のある属性,たとえば思惟の属性が何らかの思惟の様態に変状するという事態を知性が十全に認識すると仮定します。同じように思惟の属性が思惟の様態的変状に様態化するという事態を,それと同じ知性がやはり十全に認識すると仮定します。これらふたつの事態の観念を抽出し,その観念を形相的に把握することが可能であるなら,このふたつの観念は同一の観念であると僕は考えます。いい換えればこれらふたつの観念対象ideatumが,これらふたつの観念を十全に認識すると仮定した知性を離れるような仕方で考えられ得るとすれば,これらふたつのideatumは同一です。一般的にいうなら,属性が様態に変状するという事態と,同じ属性が様態的変状に様態化するという事態は,それを認識する知性という観点を削除する限り,同一の事態であると考えます。
では知性が,純粋に形相的な観点からは同一であるふたつの事態を,いかにして理性的に区別して認識するのかということを僕がどう考えているのかといえば,それはその事態を,どういった観点から認識するのかということに帰着させられます。もしも知性が,ある様態を主要な観点としてこの事態を認識するとき,知性はこの事態を属性が様態に変状するという事態として認識します。しかし知性が属性の方を主要な観点として認識するならば,知性はこの事態を,属性が様態的変状に様態化すると認識することになります。属性が様態に変状したものは様態です。属性が様態的変状に様態化したものについては,僕は様態であるとは考えずに,様態のようになった属性であると解するのです。
このことから,僕が様態と様態的変状の理性的区別がいかなるものと考えているのかも明らかでしょう。前者は属性が変状した様態そのものです。後者は様態に変状した属性のことです。