ドストエフスキーがルーレットに興じた史実については,『ドストエフスキー 父殺しの文学』を参考にしました。この本を詳しく紹介しておきましょう。
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上下二巻で全12章。これは時間経過の順に構成されています。さらに各章は四部分から成立。まずその時代の歴史的事件,次がその時代のドストエフスキーの伝記,そしてその時代に書かれたドストエフスキーのテクスト,最後がそのテクストの解読です。この説明からお分かりいただけるかと思いますが,非常に丁寧な構成になっています。ドストエフスキーという教科があったとして,その教科書はこのように構成されるべきでしょう。つまりこの本は,ドストエフスキーを研究するにあたり,最良の教科書であるといってもいいのではないかと思います。
ただし,四部分のうち,最初の三部分までは,だれが筆を取ったとしてもそうも変わらない内容となる筈です。しかしテクストの解読となれば,それは人によって相違が生じます。ですからこの部分に関しては,亀山郁夫の個性が十分に反映されたものであるといえるでしょう。
亀山は,ドストエフスキーのテクストの解読に際して,強調する観点をいくつかもっています。これは亀山のドストエフスキー関連の著書をいくらか読んだことがあるなら理解できる筈です。父殺しというのはそのうちのひとつ。そして題名から分かるように,この本はその観点に特化したテクスト読解になっています。つまりこれは亀山のテクスト読解のすべてが表現されたものではありません。これ以外にも亀山が強調する観点はあるのであって,その別の観点に特化して書いたとしても,おそらくこれと同じだけの分量を有するものが完成したであろうと思われます。
亀山の読解以外の部分だけであったとしても,この本はかなり有益だと思います。ドストエフスキーのファンであれば,持っていて損はないでしょうし,むしろ持っておくべきだくらいに思います。
一般的標準が二者択一を迫るのであれば,どうやら間接無限様態は,定まった存在を有する有限な様態的変状であると解さなくてはならないようです。
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『概念と個別性』に示されているような,間接無限様態を個物res singularisとみなすような主張は,概ねこのような論理構成から帰結させられるといえるでしょう。この場合,有限であるものは無限であるというテーゼを,真の命題と解することは困難になります。とはいえ,二種類の因果性の問題についていえば,ここから引き出されるのは朝倉の結論になります。つまり因果性は唯一であるということです。これは僕が帰結させたい結論と同一ですから,この件に関しては僕はこれ以上は何も言及しません。
ただ,僕が思うのは,間接無限様態が定まった存在を有する有限な様態的変状であるからといって,直ちに間接無限様態をres singularisとみなさなければならないというわけではないということです。第一部定理二八証明でスピノザがこの語句を用いるとき,それがres singularisとみなされなければならないということはすでに説明した通りです。つまり定まった存在を有する有限な様態的変状というのは,間接無限様態がそれでなければならないものであると同時に,『エチカ』の文脈においてres singularisと解さなければならないものです。だから間接無限様態はres singularisなのであると主張する権利があるということは,僕も認めます。しかし同時にこのことからは,res singularisとは間接無限様態であると主張することにも,同じだけの権利が与えられていると解するべきではないでしょうか。一般にXがAでもありBでもあるのでならない場合に,AはBであると主張することが許容されるのであれば,BはAであると主張することも同様に許容されるべきだといえるからです。そして僕はこちらの権利の方を行使することにします。そしてこの場合,res singularisが間接無限様態なのですから,第一部定理二二により,res singularisすなわち有限なものは無限であるというテーゼが,十分に成立することになるでしょう。
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上下二巻で全12章。これは時間経過の順に構成されています。さらに各章は四部分から成立。まずその時代の歴史的事件,次がその時代のドストエフスキーの伝記,そしてその時代に書かれたドストエフスキーのテクスト,最後がそのテクストの解読です。この説明からお分かりいただけるかと思いますが,非常に丁寧な構成になっています。ドストエフスキーという教科があったとして,その教科書はこのように構成されるべきでしょう。つまりこの本は,ドストエフスキーを研究するにあたり,最良の教科書であるといってもいいのではないかと思います。
ただし,四部分のうち,最初の三部分までは,だれが筆を取ったとしてもそうも変わらない内容となる筈です。しかしテクストの解読となれば,それは人によって相違が生じます。ですからこの部分に関しては,亀山郁夫の個性が十分に反映されたものであるといえるでしょう。
亀山は,ドストエフスキーのテクストの解読に際して,強調する観点をいくつかもっています。これは亀山のドストエフスキー関連の著書をいくらか読んだことがあるなら理解できる筈です。父殺しというのはそのうちのひとつ。そして題名から分かるように,この本はその観点に特化したテクスト読解になっています。つまりこれは亀山のテクスト読解のすべてが表現されたものではありません。これ以外にも亀山が強調する観点はあるのであって,その別の観点に特化して書いたとしても,おそらくこれと同じだけの分量を有するものが完成したであろうと思われます。
亀山の読解以外の部分だけであったとしても,この本はかなり有益だと思います。ドストエフスキーのファンであれば,持っていて損はないでしょうし,むしろ持っておくべきだくらいに思います。
一般的標準が二者択一を迫るのであれば,どうやら間接無限様態は,定まった存在を有する有限な様態的変状であると解さなくてはならないようです。
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『概念と個別性』に示されているような,間接無限様態を個物res singularisとみなすような主張は,概ねこのような論理構成から帰結させられるといえるでしょう。この場合,有限であるものは無限であるというテーゼを,真の命題と解することは困難になります。とはいえ,二種類の因果性の問題についていえば,ここから引き出されるのは朝倉の結論になります。つまり因果性は唯一であるということです。これは僕が帰結させたい結論と同一ですから,この件に関しては僕はこれ以上は何も言及しません。
ただ,僕が思うのは,間接無限様態が定まった存在を有する有限な様態的変状であるからといって,直ちに間接無限様態をres singularisとみなさなければならないというわけではないということです。第一部定理二八証明でスピノザがこの語句を用いるとき,それがres singularisとみなされなければならないということはすでに説明した通りです。つまり定まった存在を有する有限な様態的変状というのは,間接無限様態がそれでなければならないものであると同時に,『エチカ』の文脈においてres singularisと解さなければならないものです。だから間接無限様態はres singularisなのであると主張する権利があるということは,僕も認めます。しかし同時にこのことからは,res singularisとは間接無限様態であると主張することにも,同じだけの権利が与えられていると解するべきではないでしょうか。一般にXがAでもありBでもあるのでならない場合に,AはBであると主張することが許容されるのであれば,BはAであると主張することも同様に許容されるべきだといえるからです。そして僕はこちらの権利の方を行使することにします。そしてこの場合,res singularisが間接無限様態なのですから,第一部定理二二により,res singularisすなわち有限なものは無限であるというテーゼが,十分に成立することになるでしょう。