昨日の第62期王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は丸山忠久九段が1勝,豊島将之七段が3勝。
振駒で豊島七段の先手。丸山九段の一手損角換り4で始まり,後手の腰掛銀に先手が棒銀で立ち向かう図式になりました。

2七にいた銀が不成で3六に引いたのに対し,歩を打った局面。先手は,☖2五銀と逃げられ,☗4四歩☖同銀と進むのが嫌だったと感想を残しています。ただ,この局面で2筋に銀を引くというのは相当に指し辛い手で,それなら☖3六銀不成とはしなかったように思われます。後手は2五に引く変化は,無限に時間があれば考えるという主旨のことをいっていますので,ほとんど読まなかったと考えていいでしょう。人間が指す以上,それは自然なことであるように僕は思います。
2七へ戻るのでは何をやっているのか分からないですから,☖2五銀以外であり得る手は☖4五銀。先手はそれに対しては☗8三銀が用意の手で,☖6二飛☗4五角☖同歩☗7一銀となりました。

これで飛車を捕獲できることになり,先手が優位に立ちました。第1図で☖4五銀と指すと後手に変化の余地はありません。☖2五銀が指しにくい手なので,第1図に至ると後手はよろしくないのではないでしょうか。つまりそれ以前に変化の必要があったと思われます。
第2図以降,先手の攻め間違いがあり,後手が猛烈に追い込みました。ただ最後に見落としがあって頓死。将棋は先手の勝ちになっています。
豊島七段が挑戦者に。第60期王将戦以来,2度目のタイトル戦登場。第一局は9月4日です。
スピノザの哲学のうちにある定義と実在性の関係から理解できるのは,第三部定義三で,能動的な感情affectusと受動的な感情について,「私は解する」という形式でスピノザが言及するとき,それを狭い意味で把握しようと広い意味で把握しようと,同じようにスピノザは,それらの感情が実在性realitasを有するということ,いい換えれば現実的に存在するということを前提としているということです。
このことを前提すること自体は誤りではありません。現実的に存在する人間に能動的な感情が必然的にnecessario存在するということは第二部定理三八系を,受動的な感情が必然的に存在するということは岩波文庫版117ページの第二部自然学②要請三を援用すれば,第三部定義二と第三部定義三の主文から帰結させられるからです。各々の訴訟過程はここでの観点とは無関係ですから割愛します。
僕がここで考えたいのは,このような種類の前提が,第二部定義七で,複数の個物res singularisによって組織される単一の個体に関して,それを個物と私はみなすとスピノザがいう場合にも存在しているということです。「私はみなす」というのは「私は解する」というのと同一の形式の定義命題であるからです。
これについてなぜスピノザはそのように前提することが可能であるのかを問うとすれば,同じく岩波文庫版117ページの,第二部自然学②要請一がひとつの答えになるだろうとは思います。第三部定義三の場合は,それ以前に帰結している事柄が前提とされているという点で問題はないのに対し,第二部定義七の前提に,その後に表明されている事柄を使用してよいのかという疑問は,配置の意図ということを重視するなら出てくるだろうとは思います。ただし,要請Postulatumというのは公理Axiomaと同一です。つまりそれはそれ自体で知られる事柄です。実際に人間の身体humanum corpusがきわめて多くの個物によって組織される単一の個物であるということが,それ自体で知られることであるかどうか問うことも可能ではあると僕は認めますが,『エチカ』の公理系ではそうなっているので,これは僕は問題にはしません。
振駒で豊島七段の先手。丸山九段の一手損角換り4で始まり,後手の腰掛銀に先手が棒銀で立ち向かう図式になりました。

2七にいた銀が不成で3六に引いたのに対し,歩を打った局面。先手は,☖2五銀と逃げられ,☗4四歩☖同銀と進むのが嫌だったと感想を残しています。ただ,この局面で2筋に銀を引くというのは相当に指し辛い手で,それなら☖3六銀不成とはしなかったように思われます。後手は2五に引く変化は,無限に時間があれば考えるという主旨のことをいっていますので,ほとんど読まなかったと考えていいでしょう。人間が指す以上,それは自然なことであるように僕は思います。
2七へ戻るのでは何をやっているのか分からないですから,☖2五銀以外であり得る手は☖4五銀。先手はそれに対しては☗8三銀が用意の手で,☖6二飛☗4五角☖同歩☗7一銀となりました。

これで飛車を捕獲できることになり,先手が優位に立ちました。第1図で☖4五銀と指すと後手に変化の余地はありません。☖2五銀が指しにくい手なので,第1図に至ると後手はよろしくないのではないでしょうか。つまりそれ以前に変化の必要があったと思われます。
第2図以降,先手の攻め間違いがあり,後手が猛烈に追い込みました。ただ最後に見落としがあって頓死。将棋は先手の勝ちになっています。
豊島七段が挑戦者に。第60期王将戦以来,2度目のタイトル戦登場。第一局は9月4日です。
スピノザの哲学のうちにある定義と実在性の関係から理解できるのは,第三部定義三で,能動的な感情affectusと受動的な感情について,「私は解する」という形式でスピノザが言及するとき,それを狭い意味で把握しようと広い意味で把握しようと,同じようにスピノザは,それらの感情が実在性realitasを有するということ,いい換えれば現実的に存在するということを前提としているということです。
このことを前提すること自体は誤りではありません。現実的に存在する人間に能動的な感情が必然的にnecessario存在するということは第二部定理三八系を,受動的な感情が必然的に存在するということは岩波文庫版117ページの第二部自然学②要請三を援用すれば,第三部定義二と第三部定義三の主文から帰結させられるからです。各々の訴訟過程はここでの観点とは無関係ですから割愛します。
僕がここで考えたいのは,このような種類の前提が,第二部定義七で,複数の個物res singularisによって組織される単一の個体に関して,それを個物と私はみなすとスピノザがいう場合にも存在しているということです。「私はみなす」というのは「私は解する」というのと同一の形式の定義命題であるからです。
これについてなぜスピノザはそのように前提することが可能であるのかを問うとすれば,同じく岩波文庫版117ページの,第二部自然学②要請一がひとつの答えになるだろうとは思います。第三部定義三の場合は,それ以前に帰結している事柄が前提とされているという点で問題はないのに対し,第二部定義七の前提に,その後に表明されている事柄を使用してよいのかという疑問は,配置の意図ということを重視するなら出てくるだろうとは思います。ただし,要請Postulatumというのは公理Axiomaと同一です。つまりそれはそれ自体で知られる事柄です。実際に人間の身体humanum corpusがきわめて多くの個物によって組織される単一の個物であるということが,それ自体で知られることであるかどうか問うことも可能ではあると僕は認めますが,『エチカ』の公理系ではそうなっているので,これは僕は問題にはしません。