先生の忠告が私にとって現実化したのか。これを考えるためには,『こころ』の構造を把握しておかなければなりません。
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『こころ』は作者である漱石が書いたということにはなっていません。登場人物のひとりで,忠告を受けた当の私が書いたという体裁になっています。小説の技法としては珍しいものではなく,『悪霊』はこれと同じ手法を採用しています。ただこのために,テクストで語られる出来事のすべては,語り手である登場人物によって事後に再構成されていることになります。
先生は乃木希典の自殺に触発され自殺を決意します。それを仄めかす手紙を,私は大学卒業後,父親の病気のために帰った故郷で受け取ります。当時の大学は秋入学。乃木の自殺は1912年9月。手紙を受け取ったのは同年の9月か10月でしょう。
『こころ』が朝日新聞に掲載されたのは1914年。普通に考えると,私はこのとき書いたと想定されます。ところが『こころ』のテクストには,そう考えるのには無理があるのではないかと思える箇所があります。上の八の終り近くです。
奥さんが,先生との間に子どもがあるといいという主旨のことを言ったとき,私は生返事をします。その理由を私は,当時の私は子どもをもったことがなく,ただうるさいものと思っていたからだという主旨で説明します。
この説明からすれば,書いているときの私には子どもがいると判断するべきでしょう。1912年の9月,私は独身。卒業はしたものの職は決まっていません。そう考えると,1年半後の時点ですでに子どもがいるとは考えにくいのです。職を決めて安定した収入を確保してから,相手を見つけて結婚し,さらに子どもを設けるという順序になるのが常識的でしょうから,それに1年半程度の月日では足りないと思われるからです。
つまり『こころ』のテクストが暗示しているのは,新聞に連載が始まった時点では,実はまだこのテクストは書かれていなかったということです。矛盾めいていますが,実際の執筆の時期は,もっと後だと想定する方が自然であると僕は考えます。
運動と静止から無限に多くの物体が生起するということを,スピノザが認めていたということは,第一部定理三二系二から明らかであるといえましょう。ただ,このテクストからは,運動および静止と物体との間に,第一部公理三に準じるような因果関係をスピノザが認めていたかどうかは不明だといえます。Aが存在するならBは生起するということと,AはBの原因でありBはAの結果であるということは,それ自体で同一のことであると考えることはできないからです。
運動と静止が存在するなら,なぜ物体が生起することになるのか,スピノザは『エチカ』では示していませんし,『エチカ』以外のテクストでも明解には説明していません。これはおそらくスピノザの関心の中心にはなかったためであると考えられ,仕方のないところです。ただ,このことは単に延長の属性においてのみ説明されていないというわけではなく,あらゆる属性を通じて同様なのです。
運動と静止が延長の属性の直接無限様態で,物体は延長の属性の有限様態すなわち個物res singularisです。第一部定理三二系二のテクストは,おそらくあらゆる属性に適用されると考えられます。第一部定義四により属性によって本性を構成される実体は,実在的には第一部定理一四系一により神が唯一です。平行論が成立するのは,各属性が単一の実体の本性を協同して構成するからだと考えられます。つまり延長の属性の直接無限様態とres singularisとの間に一定の関係が存在するのだとすれば,それと同じ関係がどんな属性のうちにも成立すると考えるのが妥当です。よって一般的に,ある属性の直接無限様態からは,無限に多くのその属性のres singularisが生起するということを,スピノザは認めていただろうと僕は思うのです。実際に,思惟の属性の直接無限様態は神の無限知性ですが,この無限知性から無限に多くのres singularisの観念が生起するということも,スピノザは認めていたというように,このテクストは解釈できると思います。
しかし一般にある属性の直接無限様態とその属性のres singularisの間に,因果関係といえるような関係があるかどうか,このことをもスピノザは明解には説明していないように僕は思います。
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『こころ』は作者である漱石が書いたということにはなっていません。登場人物のひとりで,忠告を受けた当の私が書いたという体裁になっています。小説の技法としては珍しいものではなく,『悪霊』はこれと同じ手法を採用しています。ただこのために,テクストで語られる出来事のすべては,語り手である登場人物によって事後に再構成されていることになります。
先生は乃木希典の自殺に触発され自殺を決意します。それを仄めかす手紙を,私は大学卒業後,父親の病気のために帰った故郷で受け取ります。当時の大学は秋入学。乃木の自殺は1912年9月。手紙を受け取ったのは同年の9月か10月でしょう。
『こころ』が朝日新聞に掲載されたのは1914年。普通に考えると,私はこのとき書いたと想定されます。ところが『こころ』のテクストには,そう考えるのには無理があるのではないかと思える箇所があります。上の八の終り近くです。
奥さんが,先生との間に子どもがあるといいという主旨のことを言ったとき,私は生返事をします。その理由を私は,当時の私は子どもをもったことがなく,ただうるさいものと思っていたからだという主旨で説明します。
この説明からすれば,書いているときの私には子どもがいると判断するべきでしょう。1912年の9月,私は独身。卒業はしたものの職は決まっていません。そう考えると,1年半後の時点ですでに子どもがいるとは考えにくいのです。職を決めて安定した収入を確保してから,相手を見つけて結婚し,さらに子どもを設けるという順序になるのが常識的でしょうから,それに1年半程度の月日では足りないと思われるからです。
つまり『こころ』のテクストが暗示しているのは,新聞に連載が始まった時点では,実はまだこのテクストは書かれていなかったということです。矛盾めいていますが,実際の執筆の時期は,もっと後だと想定する方が自然であると僕は考えます。
運動と静止から無限に多くの物体が生起するということを,スピノザが認めていたということは,第一部定理三二系二から明らかであるといえましょう。ただ,このテクストからは,運動および静止と物体との間に,第一部公理三に準じるような因果関係をスピノザが認めていたかどうかは不明だといえます。Aが存在するならBは生起するということと,AはBの原因でありBはAの結果であるということは,それ自体で同一のことであると考えることはできないからです。
運動と静止が存在するなら,なぜ物体が生起することになるのか,スピノザは『エチカ』では示していませんし,『エチカ』以外のテクストでも明解には説明していません。これはおそらくスピノザの関心の中心にはなかったためであると考えられ,仕方のないところです。ただ,このことは単に延長の属性においてのみ説明されていないというわけではなく,あらゆる属性を通じて同様なのです。
運動と静止が延長の属性の直接無限様態で,物体は延長の属性の有限様態すなわち個物res singularisです。第一部定理三二系二のテクストは,おそらくあらゆる属性に適用されると考えられます。第一部定義四により属性によって本性を構成される実体は,実在的には第一部定理一四系一により神が唯一です。平行論が成立するのは,各属性が単一の実体の本性を協同して構成するからだと考えられます。つまり延長の属性の直接無限様態とres singularisとの間に一定の関係が存在するのだとすれば,それと同じ関係がどんな属性のうちにも成立すると考えるのが妥当です。よって一般的に,ある属性の直接無限様態からは,無限に多くのその属性のres singularisが生起するということを,スピノザは認めていただろうと僕は思うのです。実際に,思惟の属性の直接無限様態は神の無限知性ですが,この無限知性から無限に多くのres singularisの観念が生起するということも,スピノザは認めていたというように,このテクストは解釈できると思います。
しかし一般にある属性の直接無限様態とその属性のres singularisの間に,因果関係といえるような関係があるかどうか,このことをもスピノザは明解には説明していないように僕は思います。