3日に六日町温泉で指された第65期王座戦五番勝負第三局。
中村太地六段の先手で角換り相腰掛銀の将棋。互いに腰掛けたところで後手の羽生善治王座から先攻する展開になりました。途中は後手が苦しくしたという感想が残っていますが,先手が香車の打ち場所を間違えたということで,いい勝負のまま終盤を迎えました。

後手が金を打って受けたところ。ここから☗1五桂☖同歩☗同龍で龍を助けました。そこで後手が☖7五馬と金取りに出ると先手は☗6八玉とは逃げられないということで☗8七玉。これは馬取りですから☖5七馬と進みました。ただしこれは疑問で,☗2六龍と王手をして☗3七龍と受けるのが最善であったようです。
手番は先手に。まず☗1四銀☖3二王として☗7二飛成で王手で飛車の侵入に成功。ここは☖6二桂と受けるところでしょう。
☗7五桂は単なる攻めではなく逆に後手から打たれるのを防いでもいる手。ただそこで☖1三歩と打ったのが好手であったようです。先手もここで銀を逃げてはいられないので☗6三桂成から攻め合いにいきました。よって☖1四歩☗6二龍までは必然。そこで☖4二銀と引いて受ければ分かりやすく後手が勝っていたそうですが☖4二桂と駒を使って受けました。
ただこれで後手が悪くしたわけではありませんでした。先手は☗2六龍と龍を使う一手が必要。そこで☖6七馬と近寄り☗7一龍の攻防手に☖2四歩と打った局面は,後手が受け切ることには成功していました。

第2図から☗5三成桂でしたが,☗3七龍☖8五馬☗7六金のように受けるのでは☖6三馬と取られて駄目という判断だったそうです。確かにその局面は先手が勝つのはとても大変そうですが,手数は間違いなく伸びるので,まだ一波乱という可能性が0ではなかったようにも思われます。
羽生王座が勝って1勝2敗。第四局は11日です。
第四部定理四は,人間が自然の一部でないということが不可能であるがゆえに,その人間自身の本性naturaだけで理解される変化だけをなすということは不可能であるとされています。ある人間がその人間の本性だけで変化するとは,その人間が十全な原因causa adaequataとなった場合の変化です。第三部定義二ではこうした変化が能動actioといわれています。つまり第四部定理四は,現実的に存在する人間は受動passioから免れることは不可能だといっているのです。ところで理性ratioは精神の能動actio Mentisのことですから,人間が常に理性的であることは不可能だという意味がここには含まれています。そしてその原因として,人間が自然の一部ではないことが不可能であること,いい換えれば人間は自然の一部であるということが示されているわけです。
これでみればあたかも理性と自然が対立的であると主張しているようです。そして矢島の論文は,スピノザが理性の側に立ち,ヒュームは自然の側に立っているといっているかのようです。しかしこの解釈は端的に誤りです。なぜならここでは人間は自然の一部であるということは肯定されているからです。したがって人間の理性もまた自然の一部なのです。つまりスピノザは自然と理性が対立的であるとは考えていません。まずこのことを踏まえておかなければならないでしょう。
ただしこのことは,スピノザの哲学では次の点とも関係します。理性が自然の一部であるというのは,第四部序言にあるように,神Deusと自然が同一視された上で,第二部定理一一系にあるように人間の精神mens humanaは神の無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusの一部であるということを意味し得ます。そこでもしもヒュームが,あるいは矢島がといってもいいのですが,このことについて否定する立場に回るなら,あくまでも自然と理性は対立的なものとして自身の思想を進めていくでしょう。矢島は分かりませんが,少なくとも矢島の論文の全体を読む限り,ここでは詳しく扱いませんが、ヒュームはたとえばライプニッツGottfried Wilhelm LeibnizやヤコービFriedrich Heinrich Jaobiと同じような意味で神学的観点から考えていることを窺わせます。なのでこの意味で自然と理性が対立的ではないということについて,たぶんヒュームは否定するだろうと僕は解しています。
中村太地六段の先手で角換り相腰掛銀の将棋。互いに腰掛けたところで後手の羽生善治王座から先攻する展開になりました。途中は後手が苦しくしたという感想が残っていますが,先手が香車の打ち場所を間違えたということで,いい勝負のまま終盤を迎えました。

後手が金を打って受けたところ。ここから☗1五桂☖同歩☗同龍で龍を助けました。そこで後手が☖7五馬と金取りに出ると先手は☗6八玉とは逃げられないということで☗8七玉。これは馬取りですから☖5七馬と進みました。ただしこれは疑問で,☗2六龍と王手をして☗3七龍と受けるのが最善であったようです。
手番は先手に。まず☗1四銀☖3二王として☗7二飛成で王手で飛車の侵入に成功。ここは☖6二桂と受けるところでしょう。
☗7五桂は単なる攻めではなく逆に後手から打たれるのを防いでもいる手。ただそこで☖1三歩と打ったのが好手であったようです。先手もここで銀を逃げてはいられないので☗6三桂成から攻め合いにいきました。よって☖1四歩☗6二龍までは必然。そこで☖4二銀と引いて受ければ分かりやすく後手が勝っていたそうですが☖4二桂と駒を使って受けました。
ただこれで後手が悪くしたわけではありませんでした。先手は☗2六龍と龍を使う一手が必要。そこで☖6七馬と近寄り☗7一龍の攻防手に☖2四歩と打った局面は,後手が受け切ることには成功していました。

第2図から☗5三成桂でしたが,☗3七龍☖8五馬☗7六金のように受けるのでは☖6三馬と取られて駄目という判断だったそうです。確かにその局面は先手が勝つのはとても大変そうですが,手数は間違いなく伸びるので,まだ一波乱という可能性が0ではなかったようにも思われます。
羽生王座が勝って1勝2敗。第四局は11日です。
第四部定理四は,人間が自然の一部でないということが不可能であるがゆえに,その人間自身の本性naturaだけで理解される変化だけをなすということは不可能であるとされています。ある人間がその人間の本性だけで変化するとは,その人間が十全な原因causa adaequataとなった場合の変化です。第三部定義二ではこうした変化が能動actioといわれています。つまり第四部定理四は,現実的に存在する人間は受動passioから免れることは不可能だといっているのです。ところで理性ratioは精神の能動actio Mentisのことですから,人間が常に理性的であることは不可能だという意味がここには含まれています。そしてその原因として,人間が自然の一部ではないことが不可能であること,いい換えれば人間は自然の一部であるということが示されているわけです。
これでみればあたかも理性と自然が対立的であると主張しているようです。そして矢島の論文は,スピノザが理性の側に立ち,ヒュームは自然の側に立っているといっているかのようです。しかしこの解釈は端的に誤りです。なぜならここでは人間は自然の一部であるということは肯定されているからです。したがって人間の理性もまた自然の一部なのです。つまりスピノザは自然と理性が対立的であるとは考えていません。まずこのことを踏まえておかなければならないでしょう。
ただしこのことは,スピノザの哲学では次の点とも関係します。理性が自然の一部であるというのは,第四部序言にあるように,神Deusと自然が同一視された上で,第二部定理一一系にあるように人間の精神mens humanaは神の無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusの一部であるということを意味し得ます。そこでもしもヒュームが,あるいは矢島がといってもいいのですが,このことについて否定する立場に回るなら,あくまでも自然と理性は対立的なものとして自身の思想を進めていくでしょう。矢島は分かりませんが,少なくとも矢島の論文の全体を読む限り,ここでは詳しく扱いませんが、ヒュームはたとえばライプニッツGottfried Wilhelm LeibnizやヤコービFriedrich Heinrich Jaobiと同じような意味で神学的観点から考えていることを窺わせます。なのでこの意味で自然と理性が対立的ではないということについて,たぶんヒュームは否定するだろうと僕は解しています。