スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

書簡七十②&スケッチ

2017-10-20 20:08:04 | 哲学
 書簡七十の内容をもう少し詳しく説明しておきます。これはシュラーGeorg Hermann Schullerからスピノザに宛てられたもので,やはり遺稿集Opera Posthumaには掲載されませんでした。ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対するシュラーの配慮から生じたものだと思われます。
                                     
 この書簡はまずチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの近況報告から始まっています。このときチルンハウスはイギリスからフランスに移動し,ホイヘンスChristiaan Huygensに会いました。ホイヘンスは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』をスピノザから送ってもらったと言ったそうで,それが本当ならこの時点でもホイヘンスとスピノザの間にやり取りがあったことになります。ホイヘンスはそれからほかにスピノザの著書はないかと尋ね,チルンハウスは『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』だけだと答えたそうです。チルンハウスは『エチカ』の草稿は持っていた筈ですが,ホイヘンスに対しては秘匿したことになります。僕が思うにホイヘンスがそのように尋ねたのは,哲学的関心よりも自然学,とくにレンズに対する関心からであったからでしょう。
 その後にチルンハウスからの哲学的質問がありますが,これは意味が不明です。おそらくチルンハウスがここに示されているようなとんちんかんな質問をするとは思えないので,シュラーが伝える際に何らかの間違いを犯したものと思われます。
 最後に,チルンハウスがパリでライプニッツに会ったことが伝えられています。チルンハウスはライプニッツは『エチカ』を読むのに相応しい人だから,その許可をスピノザに求めました。つまりチルンハウスはライプニッツをホイヘンスより高く評価したことになります。ただ,シュラーはライプニッツとも書簡のやり取りを交わしていたので,シュラーに対して直接的にライプニッツの希望が伝えられていた可能性も排除はできないと思われます。
 この中に,ライプニッツは『神学・政治論』を高く評価していて,それに対してスピノザに書簡を送ったことがあると書かれています。したがって書簡四十五は光学に関することだけが書かれているのですから,これ以外にもライプニッツとスピノザの間で書簡のやり取りがあったことは確実でしょう。とくにこの部分が,シュラーがこの書簡を遺稿集に掲載できないと判断した理由だったと思われます。

 厳密にいうなら,第三種の認識cognitio tertii generisによって個々の植物を認識し,それらの認識の共通部分から植物一般の認識をする思惟作用は,ある分析を伴っているという見方ができます。よってそれは本来的な意味では第三種の認識には属さないということも可能でしょう。ただ,第三種の認識が論証Demonstratioを必要としない認識である以上,このような分析というのはことば以上の価値をもつものではなく,思惟作用には含まれないと解することも可能で,僕はこのような仕方での植物一般の本性essentiaの認識というのも,第三種の認識に属すると解することも許されるであろうと考えます。とくに第五部定理二四の意味というのは,第三種の認識はある個物res singularisという様態的変状modificatioに様態化した神Deusを認識するということでした。それを様態的変状に様態化した神とみなす認識のあり方自体は,個々の植物が第三種の認識で認識されようと,植物一般が第三種の認識で認識されようと同じことであると僕は考えます。
 したがって,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheが第三種の認識によって植物の本性を認識したということは,あり得ないことではないと僕は考えます。そしてそのように認識された事柄について,ゲーテが「象徴的植物」と命名したという可能性も排除はしません。ただし,これは実際にゲーテがそう認識したということを意味するわけではありません。
 実際にゲーテがどんなスケッチをしたのかということは僕には分かりません。ただ,ゲーテが植物の本性なるものを形として表現することが絶対にできなかったとまでは僕には断定できないです。僕は第三種の認識で認識された事柄をスケッチするということについては懐疑的ではありますが,実際に植物なるものが存在している以上は,その本性というものが認識され,その本性だけを表現するようなスケッチが存在したとしても,僕にはそれがそうであるといわれても単にそうであるのかどうかは分からないというだけであり,完全に否定することはできないからです。
 このように,『ゲーテとスピノザ主義』のこの部分は,明らかにスピノザの哲学と無関係ではありません。ただ,実際にゲーテがスピノザの哲学と関係していたかは分からないというだけです。
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