スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

新人王戦&社会契約の優劣

2017-10-08 19:31:48 | 将棋
 6日に指された第48回新人王戦決勝三番勝負第一局。対戦成績は増田康宏四段が0勝,佐々木大地四段が1勝。
 振駒で増田四段の先手。相居飛車の相雁木でしたが,後手の佐々木四段は中住いに構える趣向をみせました。
                                     
 先手が後手の端角に狙いをつけたところ。これはやって来いという手ですが後手は☖8七飛成☗同金☖3六歩☗1五歩に☖3五角と打って☗1六飛に☖3七歩成☗1四歩☖4八と☗同金と進めました。先手は狙い通りの対応で,並べたときには後手の攻めは無理ではないかと感じました。ですが飛車を切った後で☖8八歩と打っておくべきだったという感想があり,確かにそれならこの攻めも有力であったかもしれません。
 実戦は☖5六桂に☗同銀☖同歩。そこで☗7八王と上がった先手玉に耐久力があり,後手の攻めが繋がらなくなりました。
                                     
 もし飛車を切った後で☖8八歩と打ち,先手が☗同金と応じて同じように進めば,第2図では先手の金の位置が8八ですからたとえば☖7九銀と打つ手があります。同じようには進まないでしょうが,後手としてはチャンスを逸したという将棋であったかもしれません。
 増田四段が先勝。第二局は16日です。

 自然と理性ratioの対立が社会契約と絡めて論じられるとき,僕はさらなる疑問を感じます。理性は自然の一部と解さなければならないので,理性を原因とした社会契約とヒュームDavid Humeがいう意味での自然を原因とした社会契約は,スピノザの思想にあっては必ずしも対立的とは限らないという点からして疑問ですが,スピノザが社会契約というのをどう解しているかということに目を向けると,別の疑問が僕には生じてくるのです。
 スピノザは社会契約の実在性についてそれをほとんど認めていません。社会契約というのはいわば理性の有entia rationisであって,それは社会あるいは国家Imperium,Civitasの成り立ちを説明するのには有用であるけれども,思惟の様態cogitandi modiを離れたところに社会契約があるというようにはスピノザは考えていないと思われます。それは社会契約と契約は同じシステムでなければならないけれど,実際の社会契約が一般的な契約と同じように成立しているわけではないからです。この観点からスピノザは社会契約の絶対性を否定しますが,ヒュームはそれが絶対的なものであると主張しているわけではないように矢島の論文は読解できるので,この点ではヒュームの社会契約論の方がホッブズThomas Hobbesの社会契約論よりスピノザの考え方に近いかもしれないと僕は解します。
 社会契約が理性の有である以上,その原因によって社会契約の優劣を判断することは無意味です。確かに第四部定理三五が示すように,理性に従うとすべての人間の本性humana natura,natura humanaは一致するので,理性によって社会契約が締結されるということがあるなら,それは最善の社会契約であるということは帰結します。ですが社会契約は理性の有なので,実際にそういう契約が知性intellectusを離れたところに存在し得るとスピノザは考えていないと僕は解します。したがって,理性によって締結されるか理性と対立的な意味で締結されるかということでは,この場合にはその優劣は決定し得ないのです。むしろ,仮に理性によって締結される社会契約なるものがあり得るとすれば,その社会契約に近ければ近いほど優れていて,遠ければ遠いほど劣っているという形でしか,スピノザの思想においては社会契約の優劣は判断できないのではないでしょうか。
コメント
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