昨日の青森記念の決勝。並びは守沢‐大槻‐斉藤の北日本,吉田‐岡の関東,渡辺雄太‐渡辺晴智‐山賀の南関東で月森は単騎。
長めの牽制から吉田がスタートを取って前受け。3番手に守沢,6番手に渡辺雄太,最後尾に月森という隊列から月森が動いて斉藤の後ろの6番手に入り,7番手に渡辺雄太という隊列に変化しての周回。残り2周のバックの出口から渡辺雄太が上昇すると,月森は山賀の後ろにつけ直しました。ホームで早々に吉田は引き,渡辺雄太が前に。4番手に月森,5番手に守沢,8番手に吉田の一列棒状になってバックに。ここから吉田が発進していきましたが,渡辺雄太も打鐘から発進。先行争いになったものの吉田はバックまで渡辺と並ぶところまでいかれず一杯。月森が外を追い上げたので山賀の後ろは守沢に。直線は番手の渡辺晴智が伸びあぐねるところ,3番手の山賀が外から突き抜けて優勝。渡辺晴智と山賀の中を割った守沢と逃げ粘った渡辺雄太の2着争いは大接戦。写真判定の結果,4分の3車輪差の2着は守沢で渡辺雄太はタイヤ差で3着。
優勝した千葉の山賀雅仁選手は2102年12月の広島記念以来となる記念競輪3勝目。青森記念は初優勝。この開催は優勝候補が次々に脱落していき,残った中では吉田と渡辺雄太の脚力が上位。吉田は前を取らされるという形になり,8番手まで引いてからの巻き返しになってしまったので,渡辺雄太を容易に捲ることはできなくなりました。渡辺雄太も逃げ残るにはやや早い段階から駆けていったため,本来的に有利だったのは渡辺晴智。ただ現状の渡辺晴智は,渡辺雄太を抜くだけの差し脚はないようです。そのために自力がある3番手の山賀が突き抜けるという結果になったのでしょう。
一般的に,入手できていない喜びlaetitiaを希求する感情affectusのことは,憧憬といわれます。これが欲望cupiditasの一種であることはいうまでもありません。この憧憬している喜びが現実化されたと仮定しましょう。これ自体は喜びが現実化されたという意味ですから,第四部定理八によってその人間にとっての善bonumであるのは間違いありません。もし僕たちが憧憬している喜びを現実化するために,何ものをも失うことはないと仮定できるならば,この喜びは絶対的な意味で善なのです。ところが現実はそううまくいくものではありません。単純にいって,まだ入手できていないものを入手するために,すでに入手している何かを失わなければならないというケースは往々にしてある,というかそういうケースの方が圧倒的に多いのです。これは何かを購入するために金銭を失わなければならないというような場合もそうですし,母のように,入院するという憧憬を現実化するために家庭での生活を失わなければならないという場合にも該当します。

失われたものは非現実的なものと化します。したがって今度はそのものに対して憧憬するということが人間には容易に起こり得るのです。つまり現実的であったがために憧憬の対象にならなかったものが,失われることによって憧憬の対象になるという場合があるのです。憧憬の対象であった入院することによって失われた家での生活に,病院で憧憬を抱くようになるというのは,まさにこのケースだといえるでしょう。しかも入院中はその生活が現実化されているわけですから,その生活はもはやかつて家で生活していたときのようには憧憬の対象とはならないのです。
第三部定理三六は,かつて喜びを感じたことにそのときと同じ条件で,ここでいう憧憬を抱くといっています。僕がここでいっているのはその幅を広げたようなことです。つまり,かつて喜びを感じた事柄をそのときと同じ条件の下に憧憬する人は,その憧憬をしている条件と同じ条件の下にその憧憬が満たされるのでなければ,今度はその憧憬をしている条件の方を憧憬するようになるのです。これは一般的な人間の現実的本性actualis essentiaから起こるので,多かれ少なかれ,万人に妥当します。
長めの牽制から吉田がスタートを取って前受け。3番手に守沢,6番手に渡辺雄太,最後尾に月森という隊列から月森が動いて斉藤の後ろの6番手に入り,7番手に渡辺雄太という隊列に変化しての周回。残り2周のバックの出口から渡辺雄太が上昇すると,月森は山賀の後ろにつけ直しました。ホームで早々に吉田は引き,渡辺雄太が前に。4番手に月森,5番手に守沢,8番手に吉田の一列棒状になってバックに。ここから吉田が発進していきましたが,渡辺雄太も打鐘から発進。先行争いになったものの吉田はバックまで渡辺と並ぶところまでいかれず一杯。月森が外を追い上げたので山賀の後ろは守沢に。直線は番手の渡辺晴智が伸びあぐねるところ,3番手の山賀が外から突き抜けて優勝。渡辺晴智と山賀の中を割った守沢と逃げ粘った渡辺雄太の2着争いは大接戦。写真判定の結果,4分の3車輪差の2着は守沢で渡辺雄太はタイヤ差で3着。
優勝した千葉の山賀雅仁選手は2102年12月の広島記念以来となる記念競輪3勝目。青森記念は初優勝。この開催は優勝候補が次々に脱落していき,残った中では吉田と渡辺雄太の脚力が上位。吉田は前を取らされるという形になり,8番手まで引いてからの巻き返しになってしまったので,渡辺雄太を容易に捲ることはできなくなりました。渡辺雄太も逃げ残るにはやや早い段階から駆けていったため,本来的に有利だったのは渡辺晴智。ただ現状の渡辺晴智は,渡辺雄太を抜くだけの差し脚はないようです。そのために自力がある3番手の山賀が突き抜けるという結果になったのでしょう。
一般的に,入手できていない喜びlaetitiaを希求する感情affectusのことは,憧憬といわれます。これが欲望cupiditasの一種であることはいうまでもありません。この憧憬している喜びが現実化されたと仮定しましょう。これ自体は喜びが現実化されたという意味ですから,第四部定理八によってその人間にとっての善bonumであるのは間違いありません。もし僕たちが憧憬している喜びを現実化するために,何ものをも失うことはないと仮定できるならば,この喜びは絶対的な意味で善なのです。ところが現実はそううまくいくものではありません。単純にいって,まだ入手できていないものを入手するために,すでに入手している何かを失わなければならないというケースは往々にしてある,というかそういうケースの方が圧倒的に多いのです。これは何かを購入するために金銭を失わなければならないというような場合もそうですし,母のように,入院するという憧憬を現実化するために家庭での生活を失わなければならないという場合にも該当します。

失われたものは非現実的なものと化します。したがって今度はそのものに対して憧憬するということが人間には容易に起こり得るのです。つまり現実的であったがために憧憬の対象にならなかったものが,失われることによって憧憬の対象になるという場合があるのです。憧憬の対象であった入院することによって失われた家での生活に,病院で憧憬を抱くようになるというのは,まさにこのケースだといえるでしょう。しかも入院中はその生活が現実化されているわけですから,その生活はもはやかつて家で生活していたときのようには憧憬の対象とはならないのです。
第三部定理三六は,かつて喜びを感じたことにそのときと同じ条件で,ここでいう憧憬を抱くといっています。僕がここでいっているのはその幅を広げたようなことです。つまり,かつて喜びを感じた事柄をそのときと同じ条件の下に憧憬する人は,その憧憬をしている条件と同じ条件の下にその憧憬が満たされるのでなければ,今度はその憧憬をしている条件の方を憧憬するようになるのです。これは一般的な人間の現実的本性actualis essentiaから起こるので,多かれ少なかれ,万人に妥当します。