第三部定理四〇系二では,何の感情affectusも抱いていない人から憎しみodiumのゆえに害悪を加えられた場合,その人に対して復讐心vindictaを有するという主旨のことがいわれています。これは第三部定理四〇からの帰結事項のひとつですが,この定理Propositioから帰結するのはこれだけではありません。第三部定理四〇系一で示されていることも同様です。
「自分の愛する人が自分に対して憎しみを感じていると表象する者は,同時に憎しみと愛とに捉われるであろう」。
第三部定理四〇は,もしある人から憎まれていると表象するimaginari場合,もし自分がその人に憎まれる原因を与えていないと思うなら,その人のことを憎み返すといっています。実際には人は,自分が憎まれる原因を与えたと思うことの方が稀なので,この種の憎み返しは,憎まれていると表象する場合にはほとんどの場合で生じるといってもいいでしょう。そしてこれは一般的な真理veritasです。つまり自分を憎んでいると表象する人がだれであるのかということとは無関係に成立します。したがって,自分が愛する人が自分に対して憎しみを感じていると表象する場合にも成立します。よってその人は愛する人のことを憎むでしょう。しかし一方で,その人のことを愛しているということが仮定となっていますから,この人はその人に対して,愛amorと憎しみという両方の感情に捉われるということになるのです。
愛と憎しみは反対感情です。同時に,同じものに対する愛と憎しみは,必然的にnecessario相反する感情です。したがって,愛している人から憎まれている表象するとき,人は必然的に心情の動揺animi fluctuatioを感じることになります。
実際には心情の動揺というのは,相反する感情を有するという意味なので,すぐに解消されます。この場合には量的に決定されます。つまり,愛という感情の方がより強力であれば,憎み返しの感情は消滅するでしょう。逆に憎み返しが強力なら,愛が消滅します。ただしこれはそのときによるのであり,あるときは愛の方が強力で,あるときは憎しみの方が強力ということが往々にしてあります。ですから愛と憎しみに交互に捉われるということがあるのであり,心情の動揺とは,そうした状態のことをいっていると解しておくのが適切かもしれません。
さらにもう一点つけくわえておきましょう。
僕たちは現に悲しみtristitiaを感じている場合には,現に起きていないことについて楽観的に評価しがちであるというのは,一般的な事実です。すなわちこれは,自分の精神mensの自由決意によって悲しみが生じたと信じるか信じないかということとは関係ありません。そう信じている場合には後悔という感情affectusが発生するのですが,そう信じていない場合には後悔は発生しませんが,別の感情を抱いてしまう場合があります。
もし,他人の精神の自由な決意と信じるところによって自身に悲しみが齎された,『エチカ』でよくいわれるいい方に倣えば,害悪が齎されたと表象しているとしましょう。このとき,この人は起きていないことについては楽観的に表象しがちであるので,その他人が別の決意をしていれば自分は害悪を被ることはなかったと簡単に信じてしまうのです。ですがこれが妄信であるということは,自身の精神の自由な決意と信じることによって齎された害悪で示した場合と同様なのです。すなわち,もしその他人が別の決意をしていたら,この人は現に被ったのより以上の大きな害悪を被ることになっていたかもしれないからです。ところがこの場合にも人は,あの人が現にした決意をしたからこの程度の被害で済んでいるのであるというようにはほとんど表象せず,あの人が別の決意をしていればこれほどの被害を被ることはなかったと,よく精査することもなしに単純に判断してしまうのです。
他人の精神の自由な決意になされたと信じることによって悲しみを感じた場合には,この人の悲しみにはその他人の観念ideaが伴っていますから,その人を憎んでいることになります。これは第三部諸感情の定義七から明白でしょう。これに加えて,この自由な決意と信じるところが別のものであれば,その悲しみは感じなかったとも表象するのですから,この場合は憎しみodiumの度合はとても強いものになります。すると,その他人に対する欲望cupiditasの度合もそれだけ強くなります。それを示すのが第三部定理三七です。
「悲しみや喜び,憎しみや愛から生ずる欲望は,それらの感情がより大であるに従ってそれだけ大である」。
「自分の愛する人が自分に対して憎しみを感じていると表象する者は,同時に憎しみと愛とに捉われるであろう」。
第三部定理四〇は,もしある人から憎まれていると表象するimaginari場合,もし自分がその人に憎まれる原因を与えていないと思うなら,その人のことを憎み返すといっています。実際には人は,自分が憎まれる原因を与えたと思うことの方が稀なので,この種の憎み返しは,憎まれていると表象する場合にはほとんどの場合で生じるといってもいいでしょう。そしてこれは一般的な真理veritasです。つまり自分を憎んでいると表象する人がだれであるのかということとは無関係に成立します。したがって,自分が愛する人が自分に対して憎しみを感じていると表象する場合にも成立します。よってその人は愛する人のことを憎むでしょう。しかし一方で,その人のことを愛しているということが仮定となっていますから,この人はその人に対して,愛amorと憎しみという両方の感情に捉われるということになるのです。
愛と憎しみは反対感情です。同時に,同じものに対する愛と憎しみは,必然的にnecessario相反する感情です。したがって,愛している人から憎まれている表象するとき,人は必然的に心情の動揺animi fluctuatioを感じることになります。
実際には心情の動揺というのは,相反する感情を有するという意味なので,すぐに解消されます。この場合には量的に決定されます。つまり,愛という感情の方がより強力であれば,憎み返しの感情は消滅するでしょう。逆に憎み返しが強力なら,愛が消滅します。ただしこれはそのときによるのであり,あるときは愛の方が強力で,あるときは憎しみの方が強力ということが往々にしてあります。ですから愛と憎しみに交互に捉われるということがあるのであり,心情の動揺とは,そうした状態のことをいっていると解しておくのが適切かもしれません。
さらにもう一点つけくわえておきましょう。
僕たちは現に悲しみtristitiaを感じている場合には,現に起きていないことについて楽観的に評価しがちであるというのは,一般的な事実です。すなわちこれは,自分の精神mensの自由決意によって悲しみが生じたと信じるか信じないかということとは関係ありません。そう信じている場合には後悔という感情affectusが発生するのですが,そう信じていない場合には後悔は発生しませんが,別の感情を抱いてしまう場合があります。
もし,他人の精神の自由な決意と信じるところによって自身に悲しみが齎された,『エチカ』でよくいわれるいい方に倣えば,害悪が齎されたと表象しているとしましょう。このとき,この人は起きていないことについては楽観的に表象しがちであるので,その他人が別の決意をしていれば自分は害悪を被ることはなかったと簡単に信じてしまうのです。ですがこれが妄信であるということは,自身の精神の自由な決意と信じることによって齎された害悪で示した場合と同様なのです。すなわち,もしその他人が別の決意をしていたら,この人は現に被ったのより以上の大きな害悪を被ることになっていたかもしれないからです。ところがこの場合にも人は,あの人が現にした決意をしたからこの程度の被害で済んでいるのであるというようにはほとんど表象せず,あの人が別の決意をしていればこれほどの被害を被ることはなかったと,よく精査することもなしに単純に判断してしまうのです。
他人の精神の自由な決意になされたと信じることによって悲しみを感じた場合には,この人の悲しみにはその他人の観念ideaが伴っていますから,その人を憎んでいることになります。これは第三部諸感情の定義七から明白でしょう。これに加えて,この自由な決意と信じるところが別のものであれば,その悲しみは感じなかったとも表象するのですから,この場合は憎しみodiumの度合はとても強いものになります。すると,その他人に対する欲望cupiditasの度合もそれだけ強くなります。それを示すのが第三部定理三七です。
「悲しみや喜び,憎しみや愛から生ずる欲望は,それらの感情がより大であるに従ってそれだけ大である」。