スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

プロレスか女子プロレスか&アドバイス

2018-10-07 19:03:16 | NOAH
 『1993年の女子プロレス』の中で,インタビューの基軸になっている事柄がいくつかあります。そのうちのひとつが,女子プロレスはプロレスなのか女子プロレスなのかという観点です。奇妙な問い掛けに聞こえるかもしれませんが,女子プロレスには確かにこのふたつの路線が存在するのであり,女子プロレスの歴史というのはその路線の対立の歴史という側面もあったようなのです。
                                     
 女子プロレスがプロレスであるというのは,女子プロレスはプロレスの一部であり,プロレスという競技性においては男子も女子も,というのは時代背景的には全日本女子プロレスも全日本プロレスも新日本プロレスも,という意味になりますが,同じプロレスであるという路線です。これを暫定的に僕はプロレス派といいます。これに対して,女子プロレスというのは女子プロレスという独自の競技なのであって,プロレスとは別の競技であるという路線があります。つまり全日本女子プロレスはプロレスと名乗ってはいるけれども,新日本プロレスや全日本プロレスとは別の競技を観客に提供している,魅せているという路線です。こちらを僕は女子プロレス派といっておきます。
 僕の女子プロレスキャリアの最初,テレビだけを視ていた時代でいえば,ジャガー・横田は女子プロレス派でデビル・雅美はプロレス派でした。あるいはクラッシュギャルズのライオネス・飛鳥は女子プロレス派で,長与千種はプロレス派だったようです。全日本女子プロレスの場合,最高峰のタイトルは赤いベルトといわれたWWWA王者で,次が白いベルトのオールパシフィックでした。これでみればその頃の全日本女子プロレスは,どちらかといえば女子プロレス派の方が主流だったのかもしれません。
 ブル・中野やアジャ・コングといったヒールが王者になる時代になり,はっきりとプロレス派が主流となりました。ですがこの時代にも女子プロレス派というのは存在していて,たとえば豊田真奈美はそうでした。全日本女子プロレスというのは,競技に関する認識が異なる人たちが,一堂に会して同じルールで試合を行っていたような団体だったのです。

 日記の方に戻りましょう。
 この日の時点でも相談員は母のところには来ていないということでした。退院は決定していて,それが翌週の火曜でしたから,このまま何もせずにおいてもいけないのではないかと思えましたので,見舞いから帰った後で地域ケアプラザに赴きました。介護保険の決定通知は母が入院した後で届いていましたので,さしあたってはそれをどのように活用するべきであるのかという相談です。
 これまでにも何度か地域ケアプラザへの相談は行っていて,母のときは決まった職員が対応していました。なので僕はその方の名前を告げたのですが,このときは外出中であったため,別の職員が対応してくれました。このときにアドバイスをされたのは,ケアマネージャーをなるべく早く決定した方がよいということでした。そしてケアマネージャーというのはいろいろな施設に存在していますが,母のような場合は,バックに訪問看護サービスを備えた施設のケアマネージャーがよいだろうということでした。これは,母の退院後は訪問看護や訪問医療が必要になると予想されるからでした。同時に,医療用のベッドも用意しておくべきであるということでした。ただ,実際にどのようなサービスを受けるのかということを,母の意向を確認することなく僕だけで決定するというわけにもいきません。そこでパンフレットや資料をもらって,母の意向を確認した上で,再び連絡するということにしました。のんびりしているといえばのんびりしているのですが,このときの母の状態からすると,仮に用意すべきもののうちいくつか間に合わないものがあったとしても,少しの間なら大丈夫であろうと僕には思えたので,やや余裕のある対応をしたのです。
 月曜に妹を送って行ったときに,グループホームの責任者から母との面会を打診されました。この日の夜に電話で連絡をして,翌日にみなと赤十字病院に来てもらうことになりました。金曜に妹の通院がありましたので,翌日は妹を迎えに行くことになっていました。妹も一緒にいた方がいいと思えましたので,この日を僕の方から指定したのです。ただし待ち合わせは通所施設ではなく,病院でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする