「孤独の肖像1st.」が収録されている「時代」には,「ローリング」という楽曲も収録されています。これも僕が好きな曲のひとつです。
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元々は1988年に「中島みゆき」というタイトルのアルバムに収録されていたものです。これは椎名和夫によるアレンジで,「時代」のものは瀬尾一三のアレンジ。「孤独の肖像」と「孤独の肖像1st.」とは違い,曲の最後のところを除けばアレンジ以外の相違はなく,最後の部分の相違も重大な相違であるとは僕は思いません。
「狼になりたい」のように,中島みゆきの曲の中には歌い手が男というものも何曲かあります。「ローリング」もそうなっています。
Rollin'Age 淋しさを
Rollin'Age 他人に言うな
軽く軽く傷ついてゆけ
これはだれかに対するメッセージというのとは違います。歌い手が自分自身にいいきかせているのです。
Rollin'Age 笑いながら
Rollin'Age 荒野にいる
僕は僕は荒野にいる
僕はここにこの歌い手の矜持のようなものを感じるのです。そして僕がこの曲が好きなのは,それがすべてなのです。僕にとってこの曲は,聴くものというより口ずさむものです。ほんの少しだけでも,この歌い手に僕自身を重ね合わせるために。
憎しみodiumから生じる欲望cupiditasはどのようなものでしょうか。その代表としてあげられるのが第三部定理三九です。すなわち人間は,ある人間を憎むと,それによって自分により大なる害悪が加えられることがないと判断する場合は,その人間に対して害悪を加えようとするのです。そして第三部定理三七が示すように,憎しみが大であればあるほど,害悪を加えようという欲望もそれだけ大きくなるのです。
このために,自分とは別のある人間の精神mens humanaの自由な決意によって自分が害悪を被ったと知覚している人間は,その別の人間に対して害悪を加えようという欲望を抱くことになります。とりわけ害悪を被った人間は,現に生じていないこと,いい換えればその別の人間が別の精神の自由な決意によってなすことができたことに関しては楽観的に表象するimaginariので,こうした事象,すなわち実際に害悪を加えてしまうという事象が生じやすくなっているのです。しかしすでに述べたように,別の決意によってなすことができたと信じていることが実際に起こった場合,本当に自分が害悪を被らずにすんだのかどうかは不明です。むしろその決意によってことがなされれば,もっと大きな害悪を被っていたのかもしれないからです。
実は,このような欲望に引きずられてしまう人間もまた,高慢superbiaの一歩手前にいるのです。なぜなら,第四部定理五七備考でスピノザがいっているように,他人について正当以下に感じている人間もまた高慢であるからです。ある人間の行為によって自分が害悪を被ったとしても,その行為がなければもっと大きな害悪を被ることになっていたかもしれないのに,そのことは考慮せず,単に害悪を被ったという理由だけでその人間に害悪を与えようとする人間は,害悪を与えた人間のことを正当以下に評価しているといえるでしょう。
僕たちは喜びlaetitiaを希求して悲しみtristitiaを忌避しようとしますから,現に起きている事態が悲しみである場合には,現に起きていないことの方を楽観視する傾向conatusがあります。そういう傾向があること自体は致し方ありません。ですがその楽観視に引きずられてはいけないのです。それは十全な観念idea adaequataではなく,混乱した観念idea inadaequataだからです。
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元々は1988年に「中島みゆき」というタイトルのアルバムに収録されていたものです。これは椎名和夫によるアレンジで,「時代」のものは瀬尾一三のアレンジ。「孤独の肖像」と「孤独の肖像1st.」とは違い,曲の最後のところを除けばアレンジ以外の相違はなく,最後の部分の相違も重大な相違であるとは僕は思いません。
「狼になりたい」のように,中島みゆきの曲の中には歌い手が男というものも何曲かあります。「ローリング」もそうなっています。
Rollin'Age 淋しさを
Rollin'Age 他人に言うな
軽く軽く傷ついてゆけ
これはだれかに対するメッセージというのとは違います。歌い手が自分自身にいいきかせているのです。
Rollin'Age 笑いながら
Rollin'Age 荒野にいる
僕は僕は荒野にいる
僕はここにこの歌い手の矜持のようなものを感じるのです。そして僕がこの曲が好きなのは,それがすべてなのです。僕にとってこの曲は,聴くものというより口ずさむものです。ほんの少しだけでも,この歌い手に僕自身を重ね合わせるために。
憎しみodiumから生じる欲望cupiditasはどのようなものでしょうか。その代表としてあげられるのが第三部定理三九です。すなわち人間は,ある人間を憎むと,それによって自分により大なる害悪が加えられることがないと判断する場合は,その人間に対して害悪を加えようとするのです。そして第三部定理三七が示すように,憎しみが大であればあるほど,害悪を加えようという欲望もそれだけ大きくなるのです。
このために,自分とは別のある人間の精神mens humanaの自由な決意によって自分が害悪を被ったと知覚している人間は,その別の人間に対して害悪を加えようという欲望を抱くことになります。とりわけ害悪を被った人間は,現に生じていないこと,いい換えればその別の人間が別の精神の自由な決意によってなすことができたことに関しては楽観的に表象するimaginariので,こうした事象,すなわち実際に害悪を加えてしまうという事象が生じやすくなっているのです。しかしすでに述べたように,別の決意によってなすことができたと信じていることが実際に起こった場合,本当に自分が害悪を被らずにすんだのかどうかは不明です。むしろその決意によってことがなされれば,もっと大きな害悪を被っていたのかもしれないからです。
実は,このような欲望に引きずられてしまう人間もまた,高慢superbiaの一歩手前にいるのです。なぜなら,第四部定理五七備考でスピノザがいっているように,他人について正当以下に感じている人間もまた高慢であるからです。ある人間の行為によって自分が害悪を被ったとしても,その行為がなければもっと大きな害悪を被ることになっていたかもしれないのに,そのことは考慮せず,単に害悪を被ったという理由だけでその人間に害悪を与えようとする人間は,害悪を与えた人間のことを正当以下に評価しているといえるでしょう。
僕たちは喜びlaetitiaを希求して悲しみtristitiaを忌避しようとしますから,現に起きている事態が悲しみである場合には,現に起きていないことの方を楽観視する傾向conatusがあります。そういう傾向があること自体は致し方ありません。ですがその楽観視に引きずられてはいけないのです。それは十全な観念idea adaequataではなく,混乱した観念idea inadaequataだからです。