天龍の雑感④の最後に示した,天龍源一郎のジャンボ・鶴田に対する不満というのは,次のようなものです。
天龍からみた鶴田は,プロレスラーとしては最高でした。だから,人の上に立って引っ張っていく立場であるべきだと思えました。ところが鶴田は,リングの上では自分が一番であるということを出す,必要以上に出すのだけれど,リングを降りるとことさらに目立たないようにしていると感じられました。つまり天龍にとっての鶴田は,リングの上とリングの下では両極端な人間だったのです。天龍は,リングの上でエースとしてやっていくのであれば,リングを降りても自己発信をして,ほかのレスラーたちをぐいぐいと引っ張っていってほしかったのですが,鶴田はそれをひどく嫌がったそうです。この点が,鶴田に対する天龍の不満の核心になっています。
僕にとって興味深く感じられたのは,この不満を天龍自身が,自分が相撲界の出身であるということと結び付けていることです。つまり天龍は,トップに立つ者が常に下の者を引っ張り,組織をよい方向へともっていくのがエースの責務であるという考え方を,相撲界で培ったものと認識しているのです。天龍が相撲界出身であるということにある種の誇りをもっているということはすでにいいましたが,このような認識にもそれが影響しているようなのです。
天龍がいうように,それが相撲界に独特のものであるのかどうかは僕には何ともいえません。ただ,馬場は野球界の出身で,相撲界出身の力道山の下での修行時代には,辟易とする部分はあったようです。馬場はどちらかといえば相撲界の風習を排除する方向へ全日本プロレスを組織づけようとしていた部分はあり,鶴田がその流れを汲むタイプだった可能性はあるでしょう。
鶴田は就職すると言って入団した選手です。新入社員のすべてが出世を望んでいるわけではないのは当然ですが,プロレス入りする際にこのことばを使った鶴田にはその傾向が顕著だったようには思えます。ただこれは人間性の差異なのであって,その部分では鶴田と天龍には相容れないところがあったのでしょう。
スピノザが公理論的集合論の公理系を目にしたとき,それを存在論的な公理論であるとはみなさないということは,逆にいえばスピノザはそれを数学の公理論であるとみなすだろうということです。バディウAlain Badiouにとっては数学と存在論は同じものですが,スピノザにとっては異なるものですから,スピノザがそのように解することは不思議ではありませんし,むしろ自然だといえるでしょう。
この場合には,スピノザが公理論的集合論を学知scientiaとして認めないとか,真理veritasを明らかにしているとは認めないというように断定することはできないと僕は考えます。これはどういうことかというと,もし非実在的なもの,公理論的集合論においてはそれは空を意味するのですが,そうしたものが公理論の内部に組み入れられ,かつそれがある,非実在的なものについてそれがあるといういい方は本来的には不条理ですが,ここではそのようないい方を用いるとして,非実在的なものがあるとされている場合に,それが存在論的文脈においていわれるのであればスピノザはそれが真理であることを認めませんが,数学的文脈においても同じようにいえるかということは,検討してみなければ不明だと僕は思うのです。いい換えれば空あるいは非実在的なものは,存在論においてはスピノザにとって考察の対象とはなり得ないものですが,数学の場合にもそれが考察の対象となり得ないといっていいのかどうかは分からないのです。
実際のところスピノザは,実在的なものというのが現実的に存在するものということだけを意味するのである限りでは,そうではないものが数学の対象となるということは認めていると僕は断定します。これはスピノザが定義Definitioの条件を説明するときに,定義が定義されたものを知性intellectusが十全に概念するconcipereことに資するのでありさえすれば,それは現実的に存在している定義されているものを正確に表現するexprimereのではなくて構わないという場合に,円とか球といった,明らかに数学の対象となり得るような事物によって具体的に例証していることから明白だと僕は考えます。いい換えれば数学の対象となる円や球を,スピノザは現実的に存在する円や球とは規定していないのです。
天龍からみた鶴田は,プロレスラーとしては最高でした。だから,人の上に立って引っ張っていく立場であるべきだと思えました。ところが鶴田は,リングの上では自分が一番であるということを出す,必要以上に出すのだけれど,リングを降りるとことさらに目立たないようにしていると感じられました。つまり天龍にとっての鶴田は,リングの上とリングの下では両極端な人間だったのです。天龍は,リングの上でエースとしてやっていくのであれば,リングを降りても自己発信をして,ほかのレスラーたちをぐいぐいと引っ張っていってほしかったのですが,鶴田はそれをひどく嫌がったそうです。この点が,鶴田に対する天龍の不満の核心になっています。
僕にとって興味深く感じられたのは,この不満を天龍自身が,自分が相撲界の出身であるということと結び付けていることです。つまり天龍は,トップに立つ者が常に下の者を引っ張り,組織をよい方向へともっていくのがエースの責務であるという考え方を,相撲界で培ったものと認識しているのです。天龍が相撲界出身であるということにある種の誇りをもっているということはすでにいいましたが,このような認識にもそれが影響しているようなのです。
天龍がいうように,それが相撲界に独特のものであるのかどうかは僕には何ともいえません。ただ,馬場は野球界の出身で,相撲界出身の力道山の下での修行時代には,辟易とする部分はあったようです。馬場はどちらかといえば相撲界の風習を排除する方向へ全日本プロレスを組織づけようとしていた部分はあり,鶴田がその流れを汲むタイプだった可能性はあるでしょう。
鶴田は就職すると言って入団した選手です。新入社員のすべてが出世を望んでいるわけではないのは当然ですが,プロレス入りする際にこのことばを使った鶴田にはその傾向が顕著だったようには思えます。ただこれは人間性の差異なのであって,その部分では鶴田と天龍には相容れないところがあったのでしょう。
スピノザが公理論的集合論の公理系を目にしたとき,それを存在論的な公理論であるとはみなさないということは,逆にいえばスピノザはそれを数学の公理論であるとみなすだろうということです。バディウAlain Badiouにとっては数学と存在論は同じものですが,スピノザにとっては異なるものですから,スピノザがそのように解することは不思議ではありませんし,むしろ自然だといえるでしょう。
この場合には,スピノザが公理論的集合論を学知scientiaとして認めないとか,真理veritasを明らかにしているとは認めないというように断定することはできないと僕は考えます。これはどういうことかというと,もし非実在的なもの,公理論的集合論においてはそれは空を意味するのですが,そうしたものが公理論の内部に組み入れられ,かつそれがある,非実在的なものについてそれがあるといういい方は本来的には不条理ですが,ここではそのようないい方を用いるとして,非実在的なものがあるとされている場合に,それが存在論的文脈においていわれるのであればスピノザはそれが真理であることを認めませんが,数学的文脈においても同じようにいえるかということは,検討してみなければ不明だと僕は思うのです。いい換えれば空あるいは非実在的なものは,存在論においてはスピノザにとって考察の対象とはなり得ないものですが,数学の場合にもそれが考察の対象となり得ないといっていいのかどうかは分からないのです。
実際のところスピノザは,実在的なものというのが現実的に存在するものということだけを意味するのである限りでは,そうではないものが数学の対象となるということは認めていると僕は断定します。これはスピノザが定義Definitioの条件を説明するときに,定義が定義されたものを知性intellectusが十全に概念するconcipereことに資するのでありさえすれば,それは現実的に存在している定義されているものを正確に表現するexprimereのではなくて構わないという場合に,円とか球といった,明らかに数学の対象となり得るような事物によって具体的に例証していることから明白だと僕は考えます。いい換えれば数学の対象となる円や球を,スピノザは現実的に存在する円や球とは規定していないのです。