スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流王位戦&原因の把握

2020-06-13 18:55:23 | 将棋
 9日に指された第31期女流王位戦五番勝負第二局。
 加藤桃子女流三段の先手で里見香奈女流王位のごきげん中飛車。⑤の類型から先手の居飛車穴熊になりました。
                                        
 後手が仕掛けた局面。先手に☗7九銀右と指される前に仕掛けるのは有力な作戦でしょう。相場は☗2六飛ですが先手は攻め合いに出ました。
 まず☗2四歩と突き捨てます。後手は☖同角と応じました。次に☗6五歩。これには☖同桂でした。これは後で取られてしまう可能性がありますから,強い応手といえそうです。先手も角が下がれる状況になっていないので☗8六角の一手。☖3六歩が実現したところで☗2四飛☖同歩と角を取り,☗4二角と打ちました。後手は当然☖3七歩成。
                                        
 ここは先手の岐路で,☗5一角成と☗6四角上があります。選択されたのは後者で,これがやりたかったという感想が残されています。将棋ではやってみたいことをやるというのも大事なことかと思いますので,これについては善悪を問うても無意味でしょう。
 合駒をする手もありそうですが☖同金とここも強く応じ☗同角成に☖7三角と打ちました。☗4二馬に☖6三銀は必要な一手のようです。先手はそこで☗7五歩☖同歩☗同馬と進めたのですが,☖6四歩☗7四歩☖8四角☗7六金☖7五角☗同金と馬を消され☖7六桂と打たれました。
                                        
 第3図となっては先手がかなり苦しそうです。第2図から第3図の間で,馬が行ったり来たりしている間に何か別の手段があるのでなければならなかったのではないでしょうか。
 里見王位が連勝。第三局は17日です。

 第三部定理三は,人間の精神の能動actio Mentisは十全な観念idea adaequataからのみ生じ,精神の受動passioは混乱した観念idea inadaequataのみから生じるといっています。したがって,人間の精神mens humanaが能動という状態,いい換えれば働いている状態にあるときには,その人間は事物を十全に認識します。これに対して人間の精神が受動という状態,いい換えれば働きを受けている状態にあるときは,その人間は事物を混乱して認識するcognoscereのです。なお,ここではこの定理Propositioに合わせて精神の能動といういい方をしましたが,スピノザの哲学では能動と受動は精神にあっても身体corpusにあっても一律ですから,単に人間の能動といっても同じことです。ただ,思惟作用は知性intellectusあるいは精神による作用なので,ここでは精神の能動といわれていると解しておいてください。
 人間の精神が能動という状態にあるとき,どのようなことが生じているのか,また人間の精神が受動という状態にあるとき,どのようなことが生じているのかといえば,それは第三部定義二に示されている通りです。すなわち,ある人間の精神が十全な原因causa adaequataとなって何かを認識するなら,その人間の精神はその何かを能動的に認識しているのです。これに対して,ある人間の精神が部分的原因causa partialisとして何かを認識している場合には,この人間はその何かを混乱して認識しているのです。いい換えれば,もしある人間の精神が十全な原因となってあることを認識するなら,その人間はそのことを十全に認識します。これに対してある人間の精神が部分的原因として何事かを認識するなら,その人間はその何事かを混乱して認識するのです。これが事柄を真に認識するのか誤って認識するかの判断基準となります。すなわち,ある事柄の認識に対して,それを認識している精神ないしは知性が,十全な原因であるのか部分的原因であるのかということが,真理veritasの認識cognitioについての判定の規準となるのです。
 一端が固定し一端が運動する直線によって形成される図形という円の定義Definitioによって,現実的に存在するある人間の知性が,この円を認識したとしましょう。このとき,この知性は円の観念に対して十全な原因です。なぜならこの直線の運動motusは,現実的に行われているわけではないからです。
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