ロッシー・小川は,対抗戦時代のマッチメークなどに関しては,ほとんど自分が考えていたと発言していました。この対抗戦時代に活躍した選手のひとりに,当時のLLPWの神鳥忍がいます。僕自身が関係するわけではありませんが,神鳥についてはおそらくそんなに知られていないエピソードがありますので,まずはそれを紹介していきます。
僕の母は中学校の教諭をしていました。その当時の教え子のひとりに神鳥がいたのです。母が話していたところによれば,副担任であったクラスに神鳥がいたとのことでした。
神鳥はプロレスラーになる以前に,柔道で有名になりました。中学校の時にはすでに柔道をやっていたようです。しかしその当時から神鳥は,将来は女子プロレスラーになると言っていたそうです。その理由というのは,柔道では食べていくことができないけれども,プロレスラーなら稼げるからというものでした。神鳥は対抗戦時代に戦った北斗晶から,プロレスに対する愛に欠けるという主旨のことをよく言われていたのですが,それが愛であったかどうかは別としても,すでに中学生の頃から,将来はプロレスラーになるという気持ちがあったのは事実です。
対抗戦時代に神鳥のライバルといえば,前述の通り北斗晶をイメージされることが多いかと思います。ただ,神鳥は柳澤のインタビューに対し,その時代の自分のベストバウトは,北斗との試合ではなく,ブル・中野との試合だったと語っています。これは1994年7月14日に東京都体育館で行われたチェーンデスマッチのことです。この試合はデスマッチではあったものの,遺恨や怨念といったものが何も存在しない,こういういい方が適切であるかどうかは分かりませんが,スポーツライクな試合でした。そして神鳥がプロレスにおいて求めていたのは,そのような試合であったそうです。ですから北斗とは,プロレスに対する考え方そのものに対立があったのかもしれません。
神鳥は自分が認める唯一のプロレスラーがブル・中野であると言っています。つまりブルは神鳥が求めるようなレスラー像を体現する存在だったのでしょう。他者を介してではあれ,私的な交流もあったそうです。
あるものの名前を定義するということは,ある事柄の説明を示し,それによって示されるものを命名するというのと同じです。このとき,命名に制限は必要とはされません。いい換えれば,それによって定義されるものの名前は,何であっても構わないということになるのです。このゆえに,この種の定義Definitioは唯名論と関係します。唯名論というのは,ものの名前は何であっても構わないという考え方を含んでいるからです。
たとえば,スピノザによる実体substantiaの定義である,第一部定義三も,このような名前の定義です。書簡九で示されている実体の定義も,第一部定義三も,同じように実体を~と解するintelligereという形態の定義になっていることが,これらふたつの定義が共に名前の定義であるということを証しています。したがって,実は『エチカ』において,それ自身のうちにありまたそれ自身によって考えられるものが,実体といわれなければならない理由は,実体がこのように定義されているということ以外にありません。いい換えれば,それが実体といわれなければならない理由は,スピノザがそれを実体と命名したということ以外にはないのです。そしてスピノザは,別にそれを実体と命名しなければならない必然的な理由を有していたわけではありません。別のいい方をすれば,実体以外の名称で命名してもよかったのです。たとえばスピノザがそれをXと命名したのなら,『エチカ』で実体と記述されているその他の部分もすべてXと記述されれば,『エチカ』の公理系には何の問題も生じなかったということになります。
このような仕方で名前を定義することには,公理系において明確な意義があります。それは,たとえばそのように命名されたものについて,それが実在するとかしないとかいうことや,実在するならどのように実在するかといったことを,論証Demonstratioの過程の中で明らかにしていくことができるからです。というのは,あるものの名前だけを定義するなら,そうしたものが存在するかしないかは問われません。いい換えれば,定義されるものが実在的realiterであるか否かということは問われません。それが問われていないということが,実は名前の定義の意義なのです。
僕の母は中学校の教諭をしていました。その当時の教え子のひとりに神鳥がいたのです。母が話していたところによれば,副担任であったクラスに神鳥がいたとのことでした。
神鳥はプロレスラーになる以前に,柔道で有名になりました。中学校の時にはすでに柔道をやっていたようです。しかしその当時から神鳥は,将来は女子プロレスラーになると言っていたそうです。その理由というのは,柔道では食べていくことができないけれども,プロレスラーなら稼げるからというものでした。神鳥は対抗戦時代に戦った北斗晶から,プロレスに対する愛に欠けるという主旨のことをよく言われていたのですが,それが愛であったかどうかは別としても,すでに中学生の頃から,将来はプロレスラーになるという気持ちがあったのは事実です。
対抗戦時代に神鳥のライバルといえば,前述の通り北斗晶をイメージされることが多いかと思います。ただ,神鳥は柳澤のインタビューに対し,その時代の自分のベストバウトは,北斗との試合ではなく,ブル・中野との試合だったと語っています。これは1994年7月14日に東京都体育館で行われたチェーンデスマッチのことです。この試合はデスマッチではあったものの,遺恨や怨念といったものが何も存在しない,こういういい方が適切であるかどうかは分かりませんが,スポーツライクな試合でした。そして神鳥がプロレスにおいて求めていたのは,そのような試合であったそうです。ですから北斗とは,プロレスに対する考え方そのものに対立があったのかもしれません。
神鳥は自分が認める唯一のプロレスラーがブル・中野であると言っています。つまりブルは神鳥が求めるようなレスラー像を体現する存在だったのでしょう。他者を介してではあれ,私的な交流もあったそうです。
あるものの名前を定義するということは,ある事柄の説明を示し,それによって示されるものを命名するというのと同じです。このとき,命名に制限は必要とはされません。いい換えれば,それによって定義されるものの名前は,何であっても構わないということになるのです。このゆえに,この種の定義Definitioは唯名論と関係します。唯名論というのは,ものの名前は何であっても構わないという考え方を含んでいるからです。
たとえば,スピノザによる実体substantiaの定義である,第一部定義三も,このような名前の定義です。書簡九で示されている実体の定義も,第一部定義三も,同じように実体を~と解するintelligereという形態の定義になっていることが,これらふたつの定義が共に名前の定義であるということを証しています。したがって,実は『エチカ』において,それ自身のうちにありまたそれ自身によって考えられるものが,実体といわれなければならない理由は,実体がこのように定義されているということ以外にありません。いい換えれば,それが実体といわれなければならない理由は,スピノザがそれを実体と命名したということ以外にはないのです。そしてスピノザは,別にそれを実体と命名しなければならない必然的な理由を有していたわけではありません。別のいい方をすれば,実体以外の名称で命名してもよかったのです。たとえばスピノザがそれをXと命名したのなら,『エチカ』で実体と記述されているその他の部分もすべてXと記述されれば,『エチカ』の公理系には何の問題も生じなかったということになります。
このような仕方で名前を定義することには,公理系において明確な意義があります。それは,たとえばそのように命名されたものについて,それが実在するとかしないとかいうことや,実在するならどのように実在するかといったことを,論証Demonstratioの過程の中で明らかにしていくことができるからです。というのは,あるものの名前だけを定義するなら,そうしたものが存在するかしないかは問われません。いい換えれば,定義されるものが実在的realiterであるか否かということは問われません。それが問われていないということが,実は名前の定義の意義なのです。