個別の論文を別として,フロムErich Seligmann Frommが初めて世に問うた著作が,1941年の『自由からの逃走』です。
人間は,隷属状態にあるときには自由を入手することを熱望するのですが,自由を手に入れてしまうとかえってそのことが重荷になり,それを明け渡してしまおうとする傾向があるということを,社会心理学の観点,すなわち個人の心理ではなく,集団的心理から解明しようとした著作です。哲学的な文献ではなく,社会心理学すなわち科学的な文献ですので,当ブログの性質からこれ以上の解説は控えます、
この著作のフロムによる序文に,次のような主旨のことが書かれています。
この本は,心理的要因と社会的要因の交互作用についての,広範な研究の一部です。研究自体は未完成であって,完成させるためにはなお多くの時間を要します。しかし現代の政治的発展,というのは1941年すなわち第二世界大戦の最中という意味ですが,その時代の政治的発展は,近代文化の最大の業績である,個性と人格の独自性にとって,とても危険なものになっているとフロムには感じられました。このためにフロムは,それを完成させるために大規模な研究を遂行することは中止し,自由の意味ということを集中して研究することになりました。それは,心理学者というのは,たとえ必要とされる完全性を犠牲にすることがあったとしても,現代の危機を理解するのに役立ち得る事柄については,即座に提供する必要があるとフロムが考えていたからです。
ここから,フロムの人物像あるいは学者像が大きく浮かび上がってくると思います。フロムというのはきわめて倫理的でありまた道徳的な学者であったということと,現代の事情に敏感な学者であったということです。そのためには研究の完全性を犠牲にすることも止むを得ないといっているのですから,ある意味では学者らしからぬ学者だったといってもいいくらいでしょう。フロムが自身の研究を哲学によっても基礎づけようとしたことは,こうしたフロムの学者としての姿勢とも関連しているのだと思います。
僕の見解opinioでは,少なくとも円や球に関しては,実在的なものが学知scientiaの対象となるとスピノザは考えているということになっていますから,非実在的なものが数学の対象となっているときに,その数学をスピノザは学知ではないという可能性は排除できません。ですから,公理論的集合論やカントールGeorg Ferdinand Ludwig Philipp Cantorの数学を,学知であると認めるという結論を出すことはできません。ただしそれは,学知として認めないという結論を出しているわけではなく,このことについては分からないという意味です。いい換えれば,スピノザは公理論的集合論やカントールの数学というのを,学知として認めるか認めないかは分からないというのが,ここでの考察の結論になります。
『主体の論理・概念の倫理』の探求のときには,僕はスピノザが集合論を学知として認めないであろうという主旨のことをいいました。今回はそれとは異なった結論を出したので不思議に思われるかもしれませんが,当時は僕は,バディウAlain Badiouが数学は存在論であるというテーゼを立てているということを知らなかったために,本来なら分離するべきだった存在論と数学とを混在させて考えていたのです。たとえば三者鼎談の中で上野は,集合論は内包と外延とがセットになっているのに対して,スピノザは内包なき存在論をやろうとしていたといっているとき,それを僕は集合論という数学の文脈において理解したのですが,実際には上野自身がスピノザの存在論について言及しているように,これは存在論の文脈で解さなければならなかったのです。スピノザは数学が存在論であることを否定するでしょうし,存在論的な文脈でいうなら,カントールの数学については,カントールがそれを存在論と解しているか不明ですから何ともいえませんが,バディウの公理論的集合論については学知と認めないでしょう。ですが数学としてみた場合は,それを学知として認める可能性は排除することができないのであって,この意味において,バディウとスピノザとの対立を正しく理解するためには,数学と存在論を分離するか否かということが,何より重要だったのです。『〈内在の哲学〉へ』はこの点について,とても参考になりました。
人間は,隷属状態にあるときには自由を入手することを熱望するのですが,自由を手に入れてしまうとかえってそのことが重荷になり,それを明け渡してしまおうとする傾向があるということを,社会心理学の観点,すなわち個人の心理ではなく,集団的心理から解明しようとした著作です。哲学的な文献ではなく,社会心理学すなわち科学的な文献ですので,当ブログの性質からこれ以上の解説は控えます、
この著作のフロムによる序文に,次のような主旨のことが書かれています。
この本は,心理的要因と社会的要因の交互作用についての,広範な研究の一部です。研究自体は未完成であって,完成させるためにはなお多くの時間を要します。しかし現代の政治的発展,というのは1941年すなわち第二世界大戦の最中という意味ですが,その時代の政治的発展は,近代文化の最大の業績である,個性と人格の独自性にとって,とても危険なものになっているとフロムには感じられました。このためにフロムは,それを完成させるために大規模な研究を遂行することは中止し,自由の意味ということを集中して研究することになりました。それは,心理学者というのは,たとえ必要とされる完全性を犠牲にすることがあったとしても,現代の危機を理解するのに役立ち得る事柄については,即座に提供する必要があるとフロムが考えていたからです。
ここから,フロムの人物像あるいは学者像が大きく浮かび上がってくると思います。フロムというのはきわめて倫理的でありまた道徳的な学者であったということと,現代の事情に敏感な学者であったということです。そのためには研究の完全性を犠牲にすることも止むを得ないといっているのですから,ある意味では学者らしからぬ学者だったといってもいいくらいでしょう。フロムが自身の研究を哲学によっても基礎づけようとしたことは,こうしたフロムの学者としての姿勢とも関連しているのだと思います。
僕の見解opinioでは,少なくとも円や球に関しては,実在的なものが学知scientiaの対象となるとスピノザは考えているということになっていますから,非実在的なものが数学の対象となっているときに,その数学をスピノザは学知ではないという可能性は排除できません。ですから,公理論的集合論やカントールGeorg Ferdinand Ludwig Philipp Cantorの数学を,学知であると認めるという結論を出すことはできません。ただしそれは,学知として認めないという結論を出しているわけではなく,このことについては分からないという意味です。いい換えれば,スピノザは公理論的集合論やカントールの数学というのを,学知として認めるか認めないかは分からないというのが,ここでの考察の結論になります。
『主体の論理・概念の倫理』の探求のときには,僕はスピノザが集合論を学知として認めないであろうという主旨のことをいいました。今回はそれとは異なった結論を出したので不思議に思われるかもしれませんが,当時は僕は,バディウAlain Badiouが数学は存在論であるというテーゼを立てているということを知らなかったために,本来なら分離するべきだった存在論と数学とを混在させて考えていたのです。たとえば三者鼎談の中で上野は,集合論は内包と外延とがセットになっているのに対して,スピノザは内包なき存在論をやろうとしていたといっているとき,それを僕は集合論という数学の文脈において理解したのですが,実際には上野自身がスピノザの存在論について言及しているように,これは存在論の文脈で解さなければならなかったのです。スピノザは数学が存在論であることを否定するでしょうし,存在論的な文脈でいうなら,カントールの数学については,カントールがそれを存在論と解しているか不明ですから何ともいえませんが,バディウの公理論的集合論については学知と認めないでしょう。ですが数学としてみた場合は,それを学知として認める可能性は排除することができないのであって,この意味において,バディウとスピノザとの対立を正しく理解するためには,数学と存在論を分離するか否かということが,何より重要だったのです。『〈内在の哲学〉へ』はこの点について,とても参考になりました。