昨晩の第56回関東オークス。
発走後の向正面ではレーヌブランシュとアールクインダムが並んで前に。3番手集団にルイドフィーネ,ミステリーベルン,アクアリーブル,クリスティの4頭。7番手にバブルガムダンサーとセラン。9番手にレイチェルウーズ。ここから概ね2馬身くらいの間隔で,テーオーブルベリー,ミナミン,ノラ,コエミ,ミリミリと続きました。川崎の2100mは発馬後の直線が長いため,一時的に差が大きく開くことが多いのですが,このレースはそれほどでもありませんでした。正面に入ってアールクインダムが単独で逃げる形になり,2番手にレーヌブランシュとアクアリーブル。4番手にルイドフィーネとクリスティ。6番手にミステリーベルンの順に。さらに2周目の向正面に入るところではアクアリーブルが単独の2番手となり,3番手にレーヌブランシュ,クリスティ,セラン。6番手にルイドフィーネとミステリーベルンという順に。後方からテーオーブルベリーが外を進出していきましたが,これはレースの大勢には影響を与えませんでした。ミドルペース。
アクアリーブルは3コーナーを回ってからアールクインダムに並び掛けていき,直線の入口では外から前に出ました。これをマークするように上がってきたのがレーヌブランシュで,直線は2頭の競り合いに。レーヌブランシュの余力が優り,楽に差し切って優勝。アクアリーブルが1馬身半差で4着。レーヌブランシュが進出していったときについていくことができずに離されてしまったクリスティが4馬身差の3着。
優勝したレーヌブランシュは重賞初挑戦での勝利。新馬,特別と連勝した後,オープンでは10着と5着。ただ10着に負けたレースが1600mで,あとの3戦が1800mでしたので,距離の延長はプラスに出そうでした。JRAから出走した馬の中ではダートでは実績が最も上で,地方で実績最上位のアクアリーブルをマークして差し切ったのですから,結果的には能力的に順当な勝利だったといえそうです。レース全体のレベルは微妙ですが,勝ちタイムは悪くないので,評価するのに難しい面が残ります。父はクロフネ。母の父はアグネスタキオン。母の5つ上の半姉に2007年にファンタジーステークスを勝ったオディール。Reine Blancheはフランス語で白い女王。
騎乗した松山弘平騎手と管理している橋口慎介調教師は関東オークス初勝利。
スピノザの哲学では,真理veritasというのは真の観念idea veraの総体のことを意味すると僕は解しています。観念というのは思惟の様態cogitandi modiですから,真の観念の総体が真理であるなら,真理もまた思惟の様態でなければなりません。いい換えれば,真理というのは知性intellectusを離れて形相的にformaliter存在するものではないことになります。つまり,真理というのは知性の外に実在する事物,僕たちが認識するcognoscereそうした事物はすべからく物体corpusですが,真理は物体のうちに属するものではないのです。よってたとえば円の真理というのは,存在する,これは神Deusの延長の属性Extensionis attributumの中に包容されて存在するのであれ,現実的にあの円とかこの円といわれる限りで存在するのであれ,円そのもののうちにあるのではなく,この円の観念のうちにあると僕は解します。
これはこれで僕の解釈なのであって,これを強硬に主張するものではありません。どんな事物であれ,その事物が実在的realiterであるならその事物には形相的本性essentia formalisがあります。形相的本性というのを,僕は認識cognitioの対象になるという意味での事物の本性と解します。そして,ある事物の形相的本性を何らかの知性が正しく認識すれば,この知性はその事物の真の観念を有していることになります。したがって僕が形相的本性といっているところのものを,知性を離れた事物に属するものとしての真理であるというように解釈したとしても,僕の見解opinioについて大きな誤りを犯していることにはなりません。ただ,僕はそれを強硬に主張はしないとしても,真理は思惟の様態であると解釈しているということは理解しておいてください。これが,円の定義Definitioによって知性が円を認識するなら,それは円の真の観念であるという見解と大きく関係してくるからです。
第二部定理五では,観念の形相的有esse formaleの原因causaは思惟の属性Cogitationis attributumであるといわれています。この定理Propositioの意味として重きを置かなければならないのは,単に観念の形相的有の原因が思惟の属性であるということよりは,観念の形相的有の原因は観念されたものideatumではないということです。つまり,円の観念,真の観念であれ誤った観念idea falsaであれ,その原因は思惟の属性なのであって,知性の外に実在するものとしての円ではないのです。
発走後の向正面ではレーヌブランシュとアールクインダムが並んで前に。3番手集団にルイドフィーネ,ミステリーベルン,アクアリーブル,クリスティの4頭。7番手にバブルガムダンサーとセラン。9番手にレイチェルウーズ。ここから概ね2馬身くらいの間隔で,テーオーブルベリー,ミナミン,ノラ,コエミ,ミリミリと続きました。川崎の2100mは発馬後の直線が長いため,一時的に差が大きく開くことが多いのですが,このレースはそれほどでもありませんでした。正面に入ってアールクインダムが単独で逃げる形になり,2番手にレーヌブランシュとアクアリーブル。4番手にルイドフィーネとクリスティ。6番手にミステリーベルンの順に。さらに2周目の向正面に入るところではアクアリーブルが単独の2番手となり,3番手にレーヌブランシュ,クリスティ,セラン。6番手にルイドフィーネとミステリーベルンという順に。後方からテーオーブルベリーが外を進出していきましたが,これはレースの大勢には影響を与えませんでした。ミドルペース。
アクアリーブルは3コーナーを回ってからアールクインダムに並び掛けていき,直線の入口では外から前に出ました。これをマークするように上がってきたのがレーヌブランシュで,直線は2頭の競り合いに。レーヌブランシュの余力が優り,楽に差し切って優勝。アクアリーブルが1馬身半差で4着。レーヌブランシュが進出していったときについていくことができずに離されてしまったクリスティが4馬身差の3着。
優勝したレーヌブランシュは重賞初挑戦での勝利。新馬,特別と連勝した後,オープンでは10着と5着。ただ10着に負けたレースが1600mで,あとの3戦が1800mでしたので,距離の延長はプラスに出そうでした。JRAから出走した馬の中ではダートでは実績が最も上で,地方で実績最上位のアクアリーブルをマークして差し切ったのですから,結果的には能力的に順当な勝利だったといえそうです。レース全体のレベルは微妙ですが,勝ちタイムは悪くないので,評価するのに難しい面が残ります。父はクロフネ。母の父はアグネスタキオン。母の5つ上の半姉に2007年にファンタジーステークスを勝ったオディール。Reine Blancheはフランス語で白い女王。
騎乗した松山弘平騎手と管理している橋口慎介調教師は関東オークス初勝利。
スピノザの哲学では,真理veritasというのは真の観念idea veraの総体のことを意味すると僕は解しています。観念というのは思惟の様態cogitandi modiですから,真の観念の総体が真理であるなら,真理もまた思惟の様態でなければなりません。いい換えれば,真理というのは知性intellectusを離れて形相的にformaliter存在するものではないことになります。つまり,真理というのは知性の外に実在する事物,僕たちが認識するcognoscereそうした事物はすべからく物体corpusですが,真理は物体のうちに属するものではないのです。よってたとえば円の真理というのは,存在する,これは神Deusの延長の属性Extensionis attributumの中に包容されて存在するのであれ,現実的にあの円とかこの円といわれる限りで存在するのであれ,円そのもののうちにあるのではなく,この円の観念のうちにあると僕は解します。
これはこれで僕の解釈なのであって,これを強硬に主張するものではありません。どんな事物であれ,その事物が実在的realiterであるならその事物には形相的本性essentia formalisがあります。形相的本性というのを,僕は認識cognitioの対象になるという意味での事物の本性と解します。そして,ある事物の形相的本性を何らかの知性が正しく認識すれば,この知性はその事物の真の観念を有していることになります。したがって僕が形相的本性といっているところのものを,知性を離れた事物に属するものとしての真理であるというように解釈したとしても,僕の見解opinioについて大きな誤りを犯していることにはなりません。ただ,僕はそれを強硬に主張はしないとしても,真理は思惟の様態であると解釈しているということは理解しておいてください。これが,円の定義Definitioによって知性が円を認識するなら,それは円の真の観念であるという見解と大きく関係してくるからです。
第二部定理五では,観念の形相的有esse formaleの原因causaは思惟の属性Cogitationis attributumであるといわれています。この定理Propositioの意味として重きを置かなければならないのは,単に観念の形相的有の原因が思惟の属性であるということよりは,観念の形相的有の原因は観念されたものideatumではないということです。つまり,円の観念,真の観念であれ誤った観念idea falsaであれ,その原因は思惟の属性なのであって,知性の外に実在するものとしての円ではないのです。