スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

水戸黄門賞&神の命名

2020-06-30 18:58:12 | 競輪
 取手記念の決勝。並びは菅田‐山崎‐佐藤の北日本,小林‐吉田‐平原の関東,郡司‐内藤‐萩原の南関東。
 佐藤,平原,郡司と内の3人がスタートを取りにいきました。枠なりに位置を取ったので前受けが菅田,4番手に小林,7番手に郡司という周回に。残り3周のバックの出口から郡司が上昇を開始。ホームで小林の横まできて併走。小林が下げなかったので,誘導が退避しないまま,4番手が併走でバックに。ここから郡司が前を抑えにいきましたが,さすがに菅田も引くわけにはいかず,打鐘から先行争いに。後ろの選手ももつれ,内藤がインに切れ込んで山崎の進路をふさぐ形になったため,山崎,佐藤,萩原の3人が落車。菅田の突っ張り先行になりましたが,援軍がいなくなったため番手に郡司で3番手に内藤。差が開いた4番手に小林以下の関東勢3人という隊列に。バックから郡司が発進。内藤が徐々にマークしきれなくなり,直線は独走となった郡司の優勝。3車身差の2着争いは写真判定になりましたが,小林の勢いをもらって大外を伸びた吉田。菅田と内藤の間に進路を取った平原がタイヤ差で3着。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は3月の玉野記念以来の優勝で記念競輪8勝目。取手記念は初優勝。このレースは小林の先行が濃厚で,菅田が先行争いを挑む可能性はあるとみていたのですが,小林は郡司の内で引かなかったために,後方に置かれる形に。アクシデントは強い雨の影響もあったと思いますが,結果的に労せず郡司が菅田の番手に入りました。脚力では郡司が最上位なので,その時点で優勝は決まってしまったような感じです。関東勢の作戦がいかなるものであったのか分かりませんが,先行する気があったのなら,周回中の位置取りは中団より後方の方がよかったのではないでしょうか。

 絶対に無限な実体substantiaを神Deusと命名することに必然的な理由があったわけではないということは,それが別の名称を付与されてもよかったという意味です。つまり第一部定理一一でいわれているのは,絶対に無限な実体は必然的にnecessario存在しなければならないということであり,そうした実体については神と命名したのであるから,神は存在するということです。それに神とは別の名称,たとえばXが与えられていたとするなら,必然的に存在するのは神ではなく,Xであるということになるのです。つまりスピノザの哲学における神というのは,命名されたものなのであって,何か実在するとされた対象について,その本性essentiaを説明するために定義されたものではありません。たぶんこのあたりのことは,実際にそれが生じたかどうかは別として,神学者からも哲学者からも,批判を招く余地があったのだろうと僕には思えます。同時に,ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheは「神は死んだGott ist tot」というときに,スピノザの神も死んだということを含意しているわけですが,それが本来は命名されたものであり,神とは異なる名称が与えられる余地もあったということは,気を付けておくべきことかもしれません。
                                   
 ただし,絶対に無限な実体についてそれを神と命名する必然的な理由はなかったということは,スピノザがそれを神と命名したことに何の理由もなかったということを意味するわけではありません。おそらくスピノザには,必然的necessariusではなくとも確たる理由があったために,絶対に無限な実体を神と命名したのだと解するのが正しいと思います。それはたぶん,もしあるものが絶対に無限absolute infinitumであると解されるなら,そのものは同時に最高に完全summe perfectumであると解されることになるからだったと僕は推測します。いい換えれば,あるものの本性が絶対に無限であると解されるなら,そのように解した知性intellectusは,その本性から,それが最高に完全であるという特質proprietasを必然的に導出するために,絶対に無限な実体について命名するなら,神と命名するのが最適であるとスピノザは考えたのだろうと思うのです。最高に完全な存在者についてそれを神ということは,一般的な意味で広く受容され得るような命名であったと考えられるからです。
コメント
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