スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大成建設杯清麗戦&キュラソー島

2024-08-24 19:16:35 | 将棋
 20日に指された第6期清麗戦五番勝負第四局。
 加藤桃子女流四段の先手。変則的な手順でしたが後手の福間香奈清麗のごきげん中飛車①-Aのような形に進みました。後手が早い段階で3筋に飛車を回って小競り合いに。この辺りは後手がうまく立ち回ったものと思います。
                                      
 この将棋はここで☗5六金と歩を取ってしまったために☖5五歩と叩かれてしまいました。☗同金は仕方がありませんがこの影響で☖3七成銀以降の展開で☗6四角と出る手が無効になり,先手が苦戦を招いています。第1図では☗2二とないしは☗2四飛☖同歩☗2三角と指すべきで,どちらであってもこれからの将棋だったでしょう。
 3勝1敗で福間清麗が防衛第1期,2期,4期,5期に続く三連覇で通算5期目の清麗です。

 吉田が示した積極的理由は,レベッカをスピノザの妹であるとすることに対し,確かに一定の根拠を示しているといえます。ただ絶対的なものであるともいえません。というのも,レベッカの最期を看取ったと思われる人びとが,レベッカをエステルの娘であるとみていた理由というのがはっきりとしないからです。
 すでにいっておいたように,レベッカはスピノザの死後,スピノザが間借りしていた家の大家であったスペイクの前に遺産の相続者として現れたとされています。これが1677年のことです。レベッカはその後,アムステルダムAmsterdamのユダヤ人共同体を出て,カリブ海にあるキュラソー島というところに移住しています。このときキュラソー島はオランダ領だったので,たぶんここにもユダヤ人共同体があったのでしょう。もちろんアムステルダムにもユダヤ人共同体は残っていたっでしょうが,もしかしたらもうアムステルダムにはレベッカが住みにくくなった何らかの事情が生じていたのかもしれません。レベッカが移住した正確な時期は不明で,早ければ1679年,遅くとも1685年と『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』には記されています。レベッカはそのままアムステルダムに戻ることなく死んでいますから,レベッカの最期を看取った人びとというのは,キュラソー島に住んでいたユダヤ人たちです。ここに住んでいたユダヤ人の多くは,ポルトガルとの戦いに敗れたブラジルからの避難民でした。だから,レベッカのことを昔から知っていた人は皆無だったかもしれませんし,いたとしてもごく少数であったと思われます。
 レベッカが死んだのは1695年のことで,死因が黄熱病でったことまで分かっています。このときの事情がキュラソー島のユダヤ人に関する公的な歴史書に残っています。そしてその文書の中に,レベッカはスピノザの異母妹であって,エステルの娘であったと記されているのです。この部分も日本語訳は異母姉となっていますが,エステルの娘と書かれている以上は異母妹なのですから,異母姉というのは有木による誤訳です。このことが『ある哲学者の人生』に書かれていて,吉田が積極的理由の資料としているのもこの部分です。。

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