日本時間で昨日の夜にカタールのアルウクダ競馬場で開催されたアミールスウォードフェスティバル。日本から2頭が遠征しました。
カタールドゥハーンスプリント芝1200m。エコロジークは隣の馬と接触する発馬。逃げたのですがインの馬が引かなかったので,外から半馬身くらい前に出るという形になりました。直線に入る前にその馬に抜かれると直線に入って下がってしまい9着。どうもレース中に熱中症を発症していたようです。
芝2400mから芝2300mに変更されたアミールトロフィーGⅢ。サトノグランツは終始5番手を追走。最後の直線に入る手前から漸進を開始。ただこのレースは逃げた馬がそのまま逃げ切る競馬。差を詰めましたが2頭に追いつくことができず3着でした。
画家にとって絵画とは,生きていく手段ともいえますが,インスピレーションが湧いたら描かずにはいられないようなものでもあります。画家に限らず一般に芸術家というのはそういうものであって,小説家は小説を書かずにはいられないですし彫刻家は石を彫らずにはいられないのです。スピノザの哲学でいう表現はこのような表現のことをいうのであって,してもいいししなくともいいことなどではありませんし,することもできるししないこともできるというようなことでもありません。あえてこの種のいい方をするなら,せずにはいられないようなことなのであり,それを吉田は切実とかのっぴきならないといういい方で表しているのです。

もしも画家が描かずにはいられないのだとしたら,確かに画家が絵画を表現しているといえるのですが,そうせざるを得ないという意味でいえば,表現させられているといういい方も可能でしょう。この場合,画家が絵画を描くのですから,表現しているのが画家で表現されているのが絵画,その絵画が何かを対象objectumとしたものであればその対象ということになるのですが,その表現行為自体の主導権が画家の側にあるとは断定できません。画家は表現せずにはいられないのですから,主導権自体はむしろ絵画の方にあるという見方も可能でしょう。吉田がのっぴきならないといっていることの具体的な内容は,このようなことを指していると解してください。
この画家と絵画の関係が,スピノザの哲学における神Deusと個物res singularisの関係,これはもちろん個物が一定の仕方で神の属性attributumを表現するexprimereといわれるときの関係ですが,その関係に類似するというのがここで吉田が絵画の例をもち出している主旨です。画家は絵画を描かずにはいられません。これと同じように,神は個物を存在させずにはいられないのです。ただし僕から注意してほしいのは,画家が描かざるを得ないということのうちに,画家の思惟作用を見出すことができるということを否定しませんが,そのようにみてはいけないということです。むしろ画家はこの場合は必然的にnecessario描くのです。逆に画家に思惟作用をみるのであれば,神はそのような思惟作用を有するわけではありません。
カタールドゥハーンスプリント芝1200m。エコロジークは隣の馬と接触する発馬。逃げたのですがインの馬が引かなかったので,外から半馬身くらい前に出るという形になりました。直線に入る前にその馬に抜かれると直線に入って下がってしまい9着。どうもレース中に熱中症を発症していたようです。
芝2400mから芝2300mに変更されたアミールトロフィーGⅢ。サトノグランツは終始5番手を追走。最後の直線に入る手前から漸進を開始。ただこのレースは逃げた馬がそのまま逃げ切る競馬。差を詰めましたが2頭に追いつくことができず3着でした。
画家にとって絵画とは,生きていく手段ともいえますが,インスピレーションが湧いたら描かずにはいられないようなものでもあります。画家に限らず一般に芸術家というのはそういうものであって,小説家は小説を書かずにはいられないですし彫刻家は石を彫らずにはいられないのです。スピノザの哲学でいう表現はこのような表現のことをいうのであって,してもいいししなくともいいことなどではありませんし,することもできるししないこともできるというようなことでもありません。あえてこの種のいい方をするなら,せずにはいられないようなことなのであり,それを吉田は切実とかのっぴきならないといういい方で表しているのです。

もしも画家が描かずにはいられないのだとしたら,確かに画家が絵画を表現しているといえるのですが,そうせざるを得ないという意味でいえば,表現させられているといういい方も可能でしょう。この場合,画家が絵画を描くのですから,表現しているのが画家で表現されているのが絵画,その絵画が何かを対象objectumとしたものであればその対象ということになるのですが,その表現行為自体の主導権が画家の側にあるとは断定できません。画家は表現せずにはいられないのですから,主導権自体はむしろ絵画の方にあるという見方も可能でしょう。吉田がのっぴきならないといっていることの具体的な内容は,このようなことを指していると解してください。
この画家と絵画の関係が,スピノザの哲学における神Deusと個物res singularisの関係,これはもちろん個物が一定の仕方で神の属性attributumを表現するexprimereといわれるときの関係ですが,その関係に類似するというのがここで吉田が絵画の例をもち出している主旨です。画家は絵画を描かずにはいられません。これと同じように,神は個物を存在させずにはいられないのです。ただし僕から注意してほしいのは,画家が描かざるを得ないということのうちに,画家の思惟作用を見出すことができるということを否定しませんが,そのようにみてはいけないということです。むしろ画家はこの場合は必然的にnecessario描くのです。逆に画家に思惟作用をみるのであれば,神はそのような思惟作用を有するわけではありません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます