日本時間で昨日の深夜にアイルランドのレパーズタウン競馬場で行われたアイリッシュチャンピオンステークスGⅠ芝2000m。
隊列が定まるまでに少々の時間を要しました。シンエンペラーは先頭から3馬身差くらいの4番手を抑えながら進みました。直線に入るところでは5番手に。直線で前の馬の間を割ろうとしましたが,馬が進んでいかず,勝ち馬と2着馬が外から抜けた後に外に出すと,もう1頭追い込んできた馬を差し返す形で勝ち馬から約1馬身差の3着でした。
直線で馬と馬との間を割ることができなかったのが馬の気性によるものであるとしたら,それは課題として残ったといえるでしょう。この後は凱旋門賞に出走するようです。この馬自身は距離が伸びた方がよいような内容でしたが,日本馬はヨーロッパの馬に対して2000mでは上位になりますが,2400mになるとどうしても劣りますので,2400mでの力関係というのが最大の壁になりそうです。
シンエンペラーに帯同したラファミリアはキルターナンステークスGⅢ芝2400mに出走。前半は好位を進みましたが途中で一杯。8着でした。この馬は1勝馬ですから仕方がない結果でしょう。
スヒーダムSchiedamという地名は『スピノザ往復書簡集Epistolae』に出てきます。1665年1月28日付でブレイエンベルフWillem van Blyenburgに送られた書簡二十一は,スヒーダムから出されています。またその前に同じブレイエンベルフに宛てた,同年同月の5日付の書簡十九は,ランゲ・ボーハールトという地名から送られていますが,このランゲ・ボーハールトというのはスヒーダムの郊外と説明されていますので,同じ場所だったと思われます。スピノザは書簡十九の最後のところで,3週間か4週間はここに滞在するので,その間に手紙を送るのであればこちらに郵送し,それ以降になるのであればフォールブルフVoorburgへ送るようにブレイエンベルフに書いています。期間を考慮すれば,このランゲ・ボーハールトとスヒーダムというのが,同じ場所を意味していることは明白だといえます。
この頃のスピノザは自身も書いているように,フォールブルフのティードマンの家を借りて住んでいました。そこからスヒーダムに移動していたのは,ペストの流行が関連していたと推測されています。フォールブルフはハーグDen Haagの郊外で,そこではペストに感染してしまう可能性が高かったので,流行が収まるまでスヒーダムに避難したということです。したがってスヒーダムというのは,フォールブルフほどには大きな町ではなかったということでしょう。
このスヒーダムに住んでいたのが,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesの兄弟姉妹でした。ですからスピノザをスヒーダムに誘ったのはシモン・ド・フリースで,むしろフリースから進言を受けて,スピノザがフォールブルフからの避難を決めたということだと思います。フリースは1667年に死んでしまうのですが,このときはまだ生きていたのですから,おそらくスピノザと一緒にスヒーダムに滞在していたものと思われます。
フリースは裕福な商人でした。独身だったので遺産相続人にスピノザを指定しようとしたのですが,スピノザが断ったので,兄弟姉妹が相続しました。その代わりにスピノザには年金が支給されています。こうした事情もあり,フリースの弟には金銭的余裕があり,それで葬儀費用を出すこともできたのでしょう。
隊列が定まるまでに少々の時間を要しました。シンエンペラーは先頭から3馬身差くらいの4番手を抑えながら進みました。直線に入るところでは5番手に。直線で前の馬の間を割ろうとしましたが,馬が進んでいかず,勝ち馬と2着馬が外から抜けた後に外に出すと,もう1頭追い込んできた馬を差し返す形で勝ち馬から約1馬身差の3着でした。
直線で馬と馬との間を割ることができなかったのが馬の気性によるものであるとしたら,それは課題として残ったといえるでしょう。この後は凱旋門賞に出走するようです。この馬自身は距離が伸びた方がよいような内容でしたが,日本馬はヨーロッパの馬に対して2000mでは上位になりますが,2400mになるとどうしても劣りますので,2400mでの力関係というのが最大の壁になりそうです。
シンエンペラーに帯同したラファミリアはキルターナンステークスGⅢ芝2400mに出走。前半は好位を進みましたが途中で一杯。8着でした。この馬は1勝馬ですから仕方がない結果でしょう。
スヒーダムSchiedamという地名は『スピノザ往復書簡集Epistolae』に出てきます。1665年1月28日付でブレイエンベルフWillem van Blyenburgに送られた書簡二十一は,スヒーダムから出されています。またその前に同じブレイエンベルフに宛てた,同年同月の5日付の書簡十九は,ランゲ・ボーハールトという地名から送られていますが,このランゲ・ボーハールトというのはスヒーダムの郊外と説明されていますので,同じ場所だったと思われます。スピノザは書簡十九の最後のところで,3週間か4週間はここに滞在するので,その間に手紙を送るのであればこちらに郵送し,それ以降になるのであればフォールブルフVoorburgへ送るようにブレイエンベルフに書いています。期間を考慮すれば,このランゲ・ボーハールトとスヒーダムというのが,同じ場所を意味していることは明白だといえます。
この頃のスピノザは自身も書いているように,フォールブルフのティードマンの家を借りて住んでいました。そこからスヒーダムに移動していたのは,ペストの流行が関連していたと推測されています。フォールブルフはハーグDen Haagの郊外で,そこではペストに感染してしまう可能性が高かったので,流行が収まるまでスヒーダムに避難したということです。したがってスヒーダムというのは,フォールブルフほどには大きな町ではなかったということでしょう。
このスヒーダムに住んでいたのが,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesの兄弟姉妹でした。ですからスピノザをスヒーダムに誘ったのはシモン・ド・フリースで,むしろフリースから進言を受けて,スピノザがフォールブルフからの避難を決めたということだと思います。フリースは1667年に死んでしまうのですが,このときはまだ生きていたのですから,おそらくスピノザと一緒にスヒーダムに滞在していたものと思われます。
フリースは裕福な商人でした。独身だったので遺産相続人にスピノザを指定しようとしたのですが,スピノザが断ったので,兄弟姉妹が相続しました。その代わりにスピノザには年金が支給されています。こうした事情もあり,フリースの弟には金銭的余裕があり,それで葬儀費用を出すこともできたのでしょう。
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