ゴールデンウイークの記念競輪第二弾として3日に決勝が争われた平塚記念(動画)の回顧です。
小倉選手がSを取って山崎選手の前受け。3番手に海老根選手,6番手に小嶋選手,8番手から荒井選手で周回。残り2周から荒井選手が上昇,小嶋選手がこの3番手を追走し,打鐘から荒井選手が先行態勢に。内から上昇した海老根選手が3番手を取りにいくと外から小嶋選手が発進も,荒井選手の番手の原選手のブロックで外に浮いてしまいました。このまま荒井選手の先行をバックから海老根選手が捲ると荒井選手自身が抵抗し,海老根選手は外へ張られました。さらに外を捲り上げてきた山崎選手もこのあおりを受けて失速。開いた内から原選手が自力発進する格好になり,海老根選手から切り替えた澤田選手と松山選手がこれを追走。しかしゴールまでこの順位が替わることはなく,原選手が優勝,澤田選手が2着で3着に松山選手となりました。
優勝した佐賀の原司選手はこれが記念競輪初優勝。前予想でもいった通り,マークした荒井選手は原選手の弟子にあたり,いつもは前受けすることが多いのに後ろ攻めを選択したあたり,先行する気満々であったようです。小嶋選手を止め,その展開をフルに生かしての優勝。先行した荒井選手にとっても,ある意味では自分が優勝するよりも嬉しい結果であったかもしれません。ほかの選手はこの荒井選手の気迫にやられてしまったという印象です。
人間が能動的である場合には,責任という概念自体が人間には生じない,つまり人間が責任を負わねばならないようなことをなすことがないのですから,人間が能動的でありさえすれば何も問題はない,したがって各人は自分が能動的であることを目指すべきであるということになるでしょう。スピノザもこのこと自体は否定しないだろうと僕は思います。
しかし一方で,人間が完全に能動的であることはできない,人間は少なくとも部分的には受動的であることを免れることはできないというのもスピノザの基本的な考え方だろうと僕は思うのです。そもそも人間が完全に能動的であることが可能であるなら,第三部定理四により,人間の現実的存在が破壊されるということはない,つまり人間は死ぬということがないということになるでしょうから,これは当然だと思います。そして受動的である限り,第四部定理三四により,人間は少なくとも互いが互いに相反するということがあり得るわけですから,この点において,責任という概念は現実的には人間の間に発生してくるものなのだろうと思います。
このとき,スピノザの哲学,あるいはエチカの考え方から抽出されてくる責任という概念が,一般的なそれと比較してみた場合にいくつかの難点を抱えているといわざるを得ないのは事実と思います。しかし真理の追究という観点からこれを検討してみた場合に,責任という概念の真理を表示しているのは一般的な考え方ではなく,スピノザの哲学に依拠したこの考え方だと僕は思うのです。したがってこれが僕が考える責任論の結論であるということになります。
このテーマは今日で終りです。明日からまた新しいテーマを立て,それについて考えていくことにします。
小倉選手がSを取って山崎選手の前受け。3番手に海老根選手,6番手に小嶋選手,8番手から荒井選手で周回。残り2周から荒井選手が上昇,小嶋選手がこの3番手を追走し,打鐘から荒井選手が先行態勢に。内から上昇した海老根選手が3番手を取りにいくと外から小嶋選手が発進も,荒井選手の番手の原選手のブロックで外に浮いてしまいました。このまま荒井選手の先行をバックから海老根選手が捲ると荒井選手自身が抵抗し,海老根選手は外へ張られました。さらに外を捲り上げてきた山崎選手もこのあおりを受けて失速。開いた内から原選手が自力発進する格好になり,海老根選手から切り替えた澤田選手と松山選手がこれを追走。しかしゴールまでこの順位が替わることはなく,原選手が優勝,澤田選手が2着で3着に松山選手となりました。
優勝した佐賀の原司選手はこれが記念競輪初優勝。前予想でもいった通り,マークした荒井選手は原選手の弟子にあたり,いつもは前受けすることが多いのに後ろ攻めを選択したあたり,先行する気満々であったようです。小嶋選手を止め,その展開をフルに生かしての優勝。先行した荒井選手にとっても,ある意味では自分が優勝するよりも嬉しい結果であったかもしれません。ほかの選手はこの荒井選手の気迫にやられてしまったという印象です。
人間が能動的である場合には,責任という概念自体が人間には生じない,つまり人間が責任を負わねばならないようなことをなすことがないのですから,人間が能動的でありさえすれば何も問題はない,したがって各人は自分が能動的であることを目指すべきであるということになるでしょう。スピノザもこのこと自体は否定しないだろうと僕は思います。
しかし一方で,人間が完全に能動的であることはできない,人間は少なくとも部分的には受動的であることを免れることはできないというのもスピノザの基本的な考え方だろうと僕は思うのです。そもそも人間が完全に能動的であることが可能であるなら,第三部定理四により,人間の現実的存在が破壊されるということはない,つまり人間は死ぬということがないということになるでしょうから,これは当然だと思います。そして受動的である限り,第四部定理三四により,人間は少なくとも互いが互いに相反するということがあり得るわけですから,この点において,責任という概念は現実的には人間の間に発生してくるものなのだろうと思います。
このとき,スピノザの哲学,あるいはエチカの考え方から抽出されてくる責任という概念が,一般的なそれと比較してみた場合にいくつかの難点を抱えているといわざるを得ないのは事実と思います。しかし真理の追究という観点からこれを検討してみた場合に,責任という概念の真理を表示しているのは一般的な考え方ではなく,スピノザの哲学に依拠したこの考え方だと僕は思うのです。したがってこれが僕が考える責任論の結論であるということになります。
このテーマは今日で終りです。明日からまた新しいテーマを立て,それについて考えていくことにします。
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