⑦の最後のところでいったように,1977年10月29日に,戸口とジャンボ・鶴田のシングルマッチが初めて組まれました。この日は馬場と大木金太郎のシングルマッチも組まれていて,格としてはそちらがメインだった筈ですが,鶴田と戸口の試合の方がメインに組まれました。戸口はメインだったことを覚えていなかったようですが,こちらをメインにしたのは,馬場の配慮が働いたからだと思われます。というのも,馬場はこの当時の鶴田に適切なライバルがいなかったため,戸口にまた全日本プロレスで仕事をするように頼み込んだから,戸口は全日本プロレスに戻ったのだと語っています。だから馬場は鶴田と戸口の試合を売り出したかった筈だと戸口は推測しています。
この試合は60分3本勝負で,戸口が速攻で1本を取った後,鶴田が1本を返し,3本目は戸口の反則負けとなりました。これは⑦でいったチェーンを使ってのものだったようです。このシリーズの後,韓国への遠征があり,そこで大木と戸口のチームが再びインタータッグの王者になりました。さらに日本に戻ってのシリーズで防衛戦が行われ,戸口と鶴田がそれぞれ1本ずつを取った後,両軍リングアウトという結果でしたが防衛に成功します。そして年末の世界オープンタッグ選手権,世界最強タッグ決定リーグの前身となった大会でも大木と戸口のチームは馬場・鶴田組と公式戦の最終戦で対戦。このときは馬場が戸口をフォールして決着しました。
これでまた戸口はアメリカに戻りたかったそうですが,馬場が先手を打って佐藤昭雄を戸口の代打としてカロライナに送りました。なので1978年は正月から戸口は全日本プロレスで仕事をすることになりました。この間にちょっとした事件が起こります。これはアントン・ヘーシンクが全日本でデビューしたことと関係します。これは戸口は語っていませんが,ヘーシンクはどうも日本テレビが契約した選手だったようです。つまり日本テレビが全日本プロレスの話題を作るために参戦することになったのであり,馬場としてもヘーシンクを使うことは本意ではなかったのかもしれません。
神Deusの本性naturaの必然性necessitasに則する事柄はどんな事柄であれ,いい換えれば人間がそれを認識するcognoscereことができるのかできないかということを問わずにそのすべてが生じます。逆に神の本性の必然性に反することが生じることは不可能です。これがスピノザの哲学において,必然と不可能が反対概念を構成するということの具体的な意味でした。ところが,ある観念ideaは人間の精神mens humanaとだけ関連付けられる場合には混乱した観念idea inadaequataである場合があり,いい換えるなら,人間の精神を構成する観念のうちの一部は混乱した観念によって組織されていて,こうした混乱した観念にも固有の意志作用volitioが含まれているのですから,人間の精神は,それ単独でみられる場合には,必然であることだけを肯定するというわけではなく,不可能である事柄についても肯定するということがあるのです。第二部定理四九備考では,人間の精神が馬に対して翼を肯定する意志作用をもつことがあるということが認められていますが,これはそのことの一例であると解することができるでしょう。これと同様に,たとえばJという人間が死んだ後に,Jが生き返るということを肯定する意志作用を人間の精神が有するということもあり得るのです。
僕はスピノザの哲学では,虚偽と誤謬を厳密に分けて考える必要があると考えています。このとき,混乱した観念というのは,虚偽falsitasではあるのですが,それ自体で誤謬errorというわけではありません。ですから混乱した観念すなわち虚偽を肯定する意志作用についても,それ自体で誤謬であるということはできないと僕は考えます。というのは虚偽には虚偽の積極性とでもいうべきものがあるのであって,人間が事物を混乱して認識すること,たとえば事物を表象するimaginariことというのは,それ自体でみるならば一切の誤謬を含んでいないとみるべきだからです。たとえば第二部定理一七備考でスピノザがいっていることは,その一例であるとみることができます。
このような積極性が虚偽の中にも含まれているがゆえに,第四部定理一にあるように,虚偽は真理veritasによって,つまり混乱した観念は十全な観念idea adaequataによって阻害されるということもないし,排除されるということもないのです。
この試合は60分3本勝負で,戸口が速攻で1本を取った後,鶴田が1本を返し,3本目は戸口の反則負けとなりました。これは⑦でいったチェーンを使ってのものだったようです。このシリーズの後,韓国への遠征があり,そこで大木と戸口のチームが再びインタータッグの王者になりました。さらに日本に戻ってのシリーズで防衛戦が行われ,戸口と鶴田がそれぞれ1本ずつを取った後,両軍リングアウトという結果でしたが防衛に成功します。そして年末の世界オープンタッグ選手権,世界最強タッグ決定リーグの前身となった大会でも大木と戸口のチームは馬場・鶴田組と公式戦の最終戦で対戦。このときは馬場が戸口をフォールして決着しました。
これでまた戸口はアメリカに戻りたかったそうですが,馬場が先手を打って佐藤昭雄を戸口の代打としてカロライナに送りました。なので1978年は正月から戸口は全日本プロレスで仕事をすることになりました。この間にちょっとした事件が起こります。これはアントン・ヘーシンクが全日本でデビューしたことと関係します。これは戸口は語っていませんが,ヘーシンクはどうも日本テレビが契約した選手だったようです。つまり日本テレビが全日本プロレスの話題を作るために参戦することになったのであり,馬場としてもヘーシンクを使うことは本意ではなかったのかもしれません。
神Deusの本性naturaの必然性necessitasに則する事柄はどんな事柄であれ,いい換えれば人間がそれを認識するcognoscereことができるのかできないかということを問わずにそのすべてが生じます。逆に神の本性の必然性に反することが生じることは不可能です。これがスピノザの哲学において,必然と不可能が反対概念を構成するということの具体的な意味でした。ところが,ある観念ideaは人間の精神mens humanaとだけ関連付けられる場合には混乱した観念idea inadaequataである場合があり,いい換えるなら,人間の精神を構成する観念のうちの一部は混乱した観念によって組織されていて,こうした混乱した観念にも固有の意志作用volitioが含まれているのですから,人間の精神は,それ単独でみられる場合には,必然であることだけを肯定するというわけではなく,不可能である事柄についても肯定するということがあるのです。第二部定理四九備考では,人間の精神が馬に対して翼を肯定する意志作用をもつことがあるということが認められていますが,これはそのことの一例であると解することができるでしょう。これと同様に,たとえばJという人間が死んだ後に,Jが生き返るということを肯定する意志作用を人間の精神が有するということもあり得るのです。
僕はスピノザの哲学では,虚偽と誤謬を厳密に分けて考える必要があると考えています。このとき,混乱した観念というのは,虚偽falsitasではあるのですが,それ自体で誤謬errorというわけではありません。ですから混乱した観念すなわち虚偽を肯定する意志作用についても,それ自体で誤謬であるということはできないと僕は考えます。というのは虚偽には虚偽の積極性とでもいうべきものがあるのであって,人間が事物を混乱して認識すること,たとえば事物を表象するimaginariことというのは,それ自体でみるならば一切の誤謬を含んでいないとみるべきだからです。たとえば第二部定理一七備考でスピノザがいっていることは,その一例であるとみることができます。
このような積極性が虚偽の中にも含まれているがゆえに,第四部定理一にあるように,虚偽は真理veritasによって,つまり混乱した観念は十全な観念idea adaequataによって阻害されるということもないし,排除されるということもないのです。
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