一昨日と昨日,大田原市で指された第70期王将戦七番勝負第三局。
渡辺明王将の先手で相掛かり。後手の永瀬拓矢王座が横歩を2枚取っていく展開に。少し後手が無理をしている感じを僕は受けました。途中で後手が千日手に持ち込む順があったようですが,それを逃して以降は先手が後手の飛車を押し込めた上で攻めきるという,完勝といっていい内容でした。
僕は50手目に後手が☖8六桂と打つ手が成立するのではないかと思えたのですが,調べたところ先手がよくなるということが分かりましたので,それを紹介しておきましょう。
金取りなので金が逃げたいところ。☗8八金と逃げてくれるのが後手にとって最も好都合で,これには☖7六歩と角取りに打ちます。角の逃げ場は2つありますが分かりやすく☗6六角と逃げたとして☖9八桂成で王手金取りになります。
第2図になってしまうと後手がよいでしょう。そこで先手は第1図では金を逃げずに角筋を避けて☗5八王と早逃げします。桂馬を打ったのですから☖7八桂成としたいですが,これは☗9五角☖同角☗7三角で王手飛車です。
玉に早逃げされて金を取れないのでは桂馬を打つ意味がありません。つまり第1図の☖8六桂は成立しないことになります。この展開は後手が居玉で4六に飛車がいるということが響いています。後手はこのあたりの組立にも問題があったのではないでしょうか。
渡辺王将が勝って3連勝。第四局は13日と14日に指される予定です。
アルノーAntoine Amauldがいっていることとスピノザがいっていることが,似て非なることであることは理解してもらえたかと思います。アルノーは別個性条件を絶対的な前提としているのに対し,スピノザは別個性条件を前提しているわけではなく,単に原因causaと結果effectusという記号の表示の相違に着目しているのです。別個性条件についていえば,むしろスピノザはそれを前提としてはならないという考えを有していると理解する方が正しいのです。
第四論駁では,まずアルノーは起成原因causa efficiensという概念notioの中に,別個性条件が含まれていなければならないという観点からデカルトRené Descartesに反論したのでした。さらにアルノーは,デカルトが普遍的な原理としている,因果性の原理に対して批判の矛先を向けます。アルノーにとって因果性の原理は,デカルトがいうような普遍的原理ではなかったのです。とくに因果性の原理を神Deusに対して適用することについて,アルノーは批判的でした。
アルノーがそう判断する理由は次の点にあります。もしデカルトがいうように,因果性の原理を神に適用することが可能であるとしてみましょう、すると神について,なぜ神は存在を維持し続けることができるのか,と問うことが可能であることになります。これはそれ自体で明らかだといっていいでしょう。ところがそのように問うことは,アルノーにとっては背理以外の何ものでもありませんでした。なぜなら,これは神に限らず,あるものが存在existentiaをなぜ維持するのかという問いの中には,そのものが現に存在している以前のことと以後のこと,いい換えれば過去と未来の存在ということが明白に含まれています。しかし,こうした概念,つまり以前とか以後,あるいは過去とか未来といった概念は,無限infinitumである存在者の概念からは排除されなければならないからです。要するにアルノーは,神は無限である存在者であると考えていて,そのゆえに,神に対して,以前とか以後あるいは過去とか未来といった概念を含んでいるような,神はなぜ存在を維持し続けることができるのかということを問うことは,背理であって無効であると主張したのです。だから因果性の原理を神に適用することは不可能だと主張したのです。
渡辺明王将の先手で相掛かり。後手の永瀬拓矢王座が横歩を2枚取っていく展開に。少し後手が無理をしている感じを僕は受けました。途中で後手が千日手に持ち込む順があったようですが,それを逃して以降は先手が後手の飛車を押し込めた上で攻めきるという,完勝といっていい内容でした。
僕は50手目に後手が☖8六桂と打つ手が成立するのではないかと思えたのですが,調べたところ先手がよくなるということが分かりましたので,それを紹介しておきましょう。
金取りなので金が逃げたいところ。☗8八金と逃げてくれるのが後手にとって最も好都合で,これには☖7六歩と角取りに打ちます。角の逃げ場は2つありますが分かりやすく☗6六角と逃げたとして☖9八桂成で王手金取りになります。
第2図になってしまうと後手がよいでしょう。そこで先手は第1図では金を逃げずに角筋を避けて☗5八王と早逃げします。桂馬を打ったのですから☖7八桂成としたいですが,これは☗9五角☖同角☗7三角で王手飛車です。
玉に早逃げされて金を取れないのでは桂馬を打つ意味がありません。つまり第1図の☖8六桂は成立しないことになります。この展開は後手が居玉で4六に飛車がいるということが響いています。後手はこのあたりの組立にも問題があったのではないでしょうか。
渡辺王将が勝って3連勝。第四局は13日と14日に指される予定です。
アルノーAntoine Amauldがいっていることとスピノザがいっていることが,似て非なることであることは理解してもらえたかと思います。アルノーは別個性条件を絶対的な前提としているのに対し,スピノザは別個性条件を前提しているわけではなく,単に原因causaと結果effectusという記号の表示の相違に着目しているのです。別個性条件についていえば,むしろスピノザはそれを前提としてはならないという考えを有していると理解する方が正しいのです。
第四論駁では,まずアルノーは起成原因causa efficiensという概念notioの中に,別個性条件が含まれていなければならないという観点からデカルトRené Descartesに反論したのでした。さらにアルノーは,デカルトが普遍的な原理としている,因果性の原理に対して批判の矛先を向けます。アルノーにとって因果性の原理は,デカルトがいうような普遍的原理ではなかったのです。とくに因果性の原理を神Deusに対して適用することについて,アルノーは批判的でした。
アルノーがそう判断する理由は次の点にあります。もしデカルトがいうように,因果性の原理を神に適用することが可能であるとしてみましょう、すると神について,なぜ神は存在を維持し続けることができるのか,と問うことが可能であることになります。これはそれ自体で明らかだといっていいでしょう。ところがそのように問うことは,アルノーにとっては背理以外の何ものでもありませんでした。なぜなら,これは神に限らず,あるものが存在existentiaをなぜ維持するのかという問いの中には,そのものが現に存在している以前のことと以後のこと,いい換えれば過去と未来の存在ということが明白に含まれています。しかし,こうした概念,つまり以前とか以後,あるいは過去とか未来といった概念は,無限infinitumである存在者の概念からは排除されなければならないからです。要するにアルノーは,神は無限である存在者であると考えていて,そのゆえに,神に対して,以前とか以後あるいは過去とか未来といった概念を含んでいるような,神はなぜ存在を維持し続けることができるのかということを問うことは,背理であって無効であると主張したのです。だから因果性の原理を神に適用することは不可能だと主張したのです。
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