昨晩の四日市記念の決勝。並びは嵯峨‐小松崎‐佐藤‐大森の北日本,柴崎‐浅井の三重,村上‐岩津の西日本で諸橋は単騎。
浅井がスタートを取って柴崎の前受け。3番手に村上,5番手に諸橋,6番手に嵯峨で周回。残り2周のホームから嵯峨が上昇を開始すると村上も上昇。村上が柴崎を叩いて誘導が退避。嵯峨はその外から上昇してきましたが村上は引かず,小松崎と番手戦となり打鐘。この番手戦が長引き,ホームから柴崎が発進すると,隊列が短かったこともありバックであっさりと捲り切りました。諸橋はこのラインにスイッチし,最終コーナーでインを突き,直線は柴崎と浅井の間に。しかし浅井も激しく抵抗し両者が身体をぶつけ合いながらの競り合い。このためにふたりとも伸び脚を欠くことになり,捲った柴崎が優勝。諸橋が半車輪差の2着で浅井が半車輪差で3着。
優勝した三重の柴崎淳選手は8月に武雄でFⅠを完全優勝して以来の優勝。記念競輪は一昨年の平塚記念以来の4勝目。四日市記念は2008年と2009年に優勝していて10年ぶりの3勝目。このレースはラインとしては柴崎‐浅井が上位ですが,北日本の二段駆けが濃厚なので,簡単にはいかないかもしれないと思っていました。柴崎が番手戦を挑むパターンはあるいはあるかと思っていましたが,村上が番手を奪いにいったのは僕には意外でした。この競りが決着しなかったため,だれも番手から発進できない上に,隊列の短い状態が長く続き,柴崎には有利になりました。諸橋はうまくインを掬ったのですが,さすがに浅井も強く,最後まで抵抗されました。この浅井の頑張りが柴崎の優勝を呼び込んだともいえるでしょう。
人間の精神mens humanaのうちにひとつの観念ideaだけがあるというのは非現実的な仮定です。そのことをスピノザは百も承知で,その場合のことを語っているのです。ですからこういう仮定の下に語られている事柄について,そこに矛盾があるという指摘をしても,その指摘自体が現実的には無意味であるといえなくもありません。人間の精神のうちにひとつの観念だけがあり,その場合にはこの観念が真の観念idea veraであったとしても,確実性certitudoを有することはできないとスピノザがいっているとしても,現実的にはそのような事象は生じ得ないからです。
このように,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』には矛盾が含まれているという指摘に対しては,スピノザはふたつの仕方で弁明をすることが可能です。僕はこのようなことを踏まえた上で,それでも『スピノザ 力の存在論と生の哲学』でいわれているように,『知性改善論』には矛盾が含まれているといっているのだと解してください。
ではこの矛盾,繰り返せば,真の観念と確実性とが等置されている部分と,ひとつの観念しかないならばそれが真の観念であっても確実性を有することができないという部分は,どのように解決すればいいのでしょう。すでにひとつだけ明白となっていると思われるのは,このふたつの部分に折り合いをつけることはできないであろうということです。いい換えればこのふたつが同じ哲学のうちで両立することはできないであろうということです。したがって,この矛盾を解決するというのは,これらふたつのうち,どちらが正しいのか,スピノザの哲学の中において正しいのかということを考えることと同じです。
どちらが正しいのかということも,実はここまでの考察から明らかであるといっていいでしょう。というのは,スピノザの弁明はふたつあったわけですが,この弁明はどちらも,人間の精神のうちにひとつの観念しかないならば,その観念が真の観念であったとしても,確実性を有することはできないという方にあったわけです。ですからこちらが正しいということはあり得ません。正しいのなら弁明の必要はないからです。したがってこちらが誤りerrorなのであり,真の観念は確実性と等置されなければなりません。
浅井がスタートを取って柴崎の前受け。3番手に村上,5番手に諸橋,6番手に嵯峨で周回。残り2周のホームから嵯峨が上昇を開始すると村上も上昇。村上が柴崎を叩いて誘導が退避。嵯峨はその外から上昇してきましたが村上は引かず,小松崎と番手戦となり打鐘。この番手戦が長引き,ホームから柴崎が発進すると,隊列が短かったこともありバックであっさりと捲り切りました。諸橋はこのラインにスイッチし,最終コーナーでインを突き,直線は柴崎と浅井の間に。しかし浅井も激しく抵抗し両者が身体をぶつけ合いながらの競り合い。このためにふたりとも伸び脚を欠くことになり,捲った柴崎が優勝。諸橋が半車輪差の2着で浅井が半車輪差で3着。
優勝した三重の柴崎淳選手は8月に武雄でFⅠを完全優勝して以来の優勝。記念競輪は一昨年の平塚記念以来の4勝目。四日市記念は2008年と2009年に優勝していて10年ぶりの3勝目。このレースはラインとしては柴崎‐浅井が上位ですが,北日本の二段駆けが濃厚なので,簡単にはいかないかもしれないと思っていました。柴崎が番手戦を挑むパターンはあるいはあるかと思っていましたが,村上が番手を奪いにいったのは僕には意外でした。この競りが決着しなかったため,だれも番手から発進できない上に,隊列の短い状態が長く続き,柴崎には有利になりました。諸橋はうまくインを掬ったのですが,さすがに浅井も強く,最後まで抵抗されました。この浅井の頑張りが柴崎の優勝を呼び込んだともいえるでしょう。
人間の精神mens humanaのうちにひとつの観念ideaだけがあるというのは非現実的な仮定です。そのことをスピノザは百も承知で,その場合のことを語っているのです。ですからこういう仮定の下に語られている事柄について,そこに矛盾があるという指摘をしても,その指摘自体が現実的には無意味であるといえなくもありません。人間の精神のうちにひとつの観念だけがあり,その場合にはこの観念が真の観念idea veraであったとしても,確実性certitudoを有することはできないとスピノザがいっているとしても,現実的にはそのような事象は生じ得ないからです。
このように,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』には矛盾が含まれているという指摘に対しては,スピノザはふたつの仕方で弁明をすることが可能です。僕はこのようなことを踏まえた上で,それでも『スピノザ 力の存在論と生の哲学』でいわれているように,『知性改善論』には矛盾が含まれているといっているのだと解してください。
ではこの矛盾,繰り返せば,真の観念と確実性とが等置されている部分と,ひとつの観念しかないならばそれが真の観念であっても確実性を有することができないという部分は,どのように解決すればいいのでしょう。すでにひとつだけ明白となっていると思われるのは,このふたつの部分に折り合いをつけることはできないであろうということです。いい換えればこのふたつが同じ哲学のうちで両立することはできないであろうということです。したがって,この矛盾を解決するというのは,これらふたつのうち,どちらが正しいのか,スピノザの哲学の中において正しいのかということを考えることと同じです。
どちらが正しいのかということも,実はここまでの考察から明らかであるといっていいでしょう。というのは,スピノザの弁明はふたつあったわけですが,この弁明はどちらも,人間の精神のうちにひとつの観念しかないならば,その観念が真の観念であったとしても,確実性を有することはできないという方にあったわけです。ですからこちらが正しいということはあり得ません。正しいのなら弁明の必要はないからです。したがってこちらが誤りerrorなのであり,真の観念は確実性と等置されなければなりません。
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