『ドストエフスキイの生活』は,『カラマーゾフの兄弟』におけるイワンの二分法だけでなく,『罪と罰』の読解にもひとつの示唆を与えてくれました。

第五部第4章で,ラスコーリニコフはソーニャに自身が犯した殺人を告白します。その告白の直前に,ラスコーリニコフにはソーニャがリザヴェータに見えたという一節があります。リザヴェータはソーニャの親友で,ラスコーリニコフが金貸しの老婆を殺したとき,その現場を目撃していたので直後にラスコーリニコフによって殺されてしまった女です。
『罪と罰』のテクストは,そのときの怯えたリザヴェータの様子や表情が克明に記述されています。つまりそのときにリザヴェータが怯えているように,告白を前にしたソーニャが怯えているとラスコーリニコフには見えたと読めるようになっています。ソーニャはラスコーリニコフが何かを告白するということは前もって分かっていて,しかしラスコーリニコフが何かとんでもない告白をするのではないかと思い,その内容に対して怯えたというのはあり得ることだと思います。
この部分を小林は,ラスコーリニコフにソーニャの顔がリザヴェータの顔に見えたのは,ソーニャにはラスコーリニコフが殺人者に見えていたからだと指摘しています。小林は続けて,しかしこのときにはラスコーリニコフの手には,老婆とリザヴェータを惨殺した斧がなかったから,ソーニャを殺さなかったのだといっています。ソーニャはラスコーリニコフが自身の殺人を告白するかもしれないと思ったかもしれないので,ソーニャにはラスコーリニコフが殺人者に見えたという可能性は僕も否定しません。ただ,このときにも斧があれば本当にラスコーリニコフがソーニャをも殺す可能性があったのかについては何ともいえないです。小林はラスコーリニコフがソーニャを殺さなかったのは偶然にすぎなかったという読解をしていますが,これはそのように読むこともできるというように僕は解しておきます。
それでも,この読み方は僕には思いもつかない読み方でした。確かにここにはひとつの示唆が含まれていると思います。
河井の見解に釈然としないものがあるというのは,僕が自然学が基礎となるのではなく哲学が基礎になると考えているからというわけではありません。確かにスピノザは哲学的論理性によって明確である事柄については自然学的な実証は不要であると解していたと思われますが,基礎となるのが何であるかについては,決着をつけるのは困難であると僕には思えます。
スピノザの哲学においては,真理獲得の方法というのがそれ自体では存在しません。真理veritasを獲得することと同時にその方法も獲得できることになっています。したがって,哲学ないしは形而上学的なことであれ,自然学的な事柄であれ,どのような方法が正しい方法であるのかということは,それに関して何らかの真理が存在するということを前提としないなら,不明であるということになります。
ただ,スピノザは,人間の精神mens humanaは必然的に真理獲得の方法を知ることができると主張しているように思えます。なぜなら,第二部定理三八系にあるように,現実的に存在する人間の精神の一部は必然的に共通概念notiones communesによって組織されていて,そうした共通概念というのは,第二部定理三八および第二部定理三九により,十全adaequatumであるからです。いい換えれば真verumであるからです。
このとき,人間の精神が共通概念を獲得するのは,現実的に存在する人間の身体corpusが,外部の物体corpusによって刺激を受けるからだということはできます。つまり共通概念の基礎は,自分の身体と外部の物体の関係のうちにあるということは可能でしょう。そしてこのような意味において,自然学に属する事柄が,人間による真理の獲得そして同時に真理を獲得する方法の獲得の基礎になるということはできると思います。ただこれは,文字通りに真理の獲得および真理を獲得する方法の獲得の基礎なのであって,倫理的な事柄の基礎であるとまではいえません。むしろこうした方法によって人間は真理獲得の方法を知ることができるから哲学的真理を獲得することも可能なのであって,それが倫理の基礎になるといういい方も可能だといわなければならないでしょう。実際に定理自体は,第二種の認識cognitio secundi generisを基礎にした哲学的な事柄だともいえるからです。

第五部第4章で,ラスコーリニコフはソーニャに自身が犯した殺人を告白します。その告白の直前に,ラスコーリニコフにはソーニャがリザヴェータに見えたという一節があります。リザヴェータはソーニャの親友で,ラスコーリニコフが金貸しの老婆を殺したとき,その現場を目撃していたので直後にラスコーリニコフによって殺されてしまった女です。
『罪と罰』のテクストは,そのときの怯えたリザヴェータの様子や表情が克明に記述されています。つまりそのときにリザヴェータが怯えているように,告白を前にしたソーニャが怯えているとラスコーリニコフには見えたと読めるようになっています。ソーニャはラスコーリニコフが何かを告白するということは前もって分かっていて,しかしラスコーリニコフが何かとんでもない告白をするのではないかと思い,その内容に対して怯えたというのはあり得ることだと思います。
この部分を小林は,ラスコーリニコフにソーニャの顔がリザヴェータの顔に見えたのは,ソーニャにはラスコーリニコフが殺人者に見えていたからだと指摘しています。小林は続けて,しかしこのときにはラスコーリニコフの手には,老婆とリザヴェータを惨殺した斧がなかったから,ソーニャを殺さなかったのだといっています。ソーニャはラスコーリニコフが自身の殺人を告白するかもしれないと思ったかもしれないので,ソーニャにはラスコーリニコフが殺人者に見えたという可能性は僕も否定しません。ただ,このときにも斧があれば本当にラスコーリニコフがソーニャをも殺す可能性があったのかについては何ともいえないです。小林はラスコーリニコフがソーニャを殺さなかったのは偶然にすぎなかったという読解をしていますが,これはそのように読むこともできるというように僕は解しておきます。
それでも,この読み方は僕には思いもつかない読み方でした。確かにここにはひとつの示唆が含まれていると思います。
河井の見解に釈然としないものがあるというのは,僕が自然学が基礎となるのではなく哲学が基礎になると考えているからというわけではありません。確かにスピノザは哲学的論理性によって明確である事柄については自然学的な実証は不要であると解していたと思われますが,基礎となるのが何であるかについては,決着をつけるのは困難であると僕には思えます。
スピノザの哲学においては,真理獲得の方法というのがそれ自体では存在しません。真理veritasを獲得することと同時にその方法も獲得できることになっています。したがって,哲学ないしは形而上学的なことであれ,自然学的な事柄であれ,どのような方法が正しい方法であるのかということは,それに関して何らかの真理が存在するということを前提としないなら,不明であるということになります。
ただ,スピノザは,人間の精神mens humanaは必然的に真理獲得の方法を知ることができると主張しているように思えます。なぜなら,第二部定理三八系にあるように,現実的に存在する人間の精神の一部は必然的に共通概念notiones communesによって組織されていて,そうした共通概念というのは,第二部定理三八および第二部定理三九により,十全adaequatumであるからです。いい換えれば真verumであるからです。
このとき,人間の精神が共通概念を獲得するのは,現実的に存在する人間の身体corpusが,外部の物体corpusによって刺激を受けるからだということはできます。つまり共通概念の基礎は,自分の身体と外部の物体の関係のうちにあるということは可能でしょう。そしてこのような意味において,自然学に属する事柄が,人間による真理の獲得そして同時に真理を獲得する方法の獲得の基礎になるということはできると思います。ただこれは,文字通りに真理の獲得および真理を獲得する方法の獲得の基礎なのであって,倫理的な事柄の基礎であるとまではいえません。むしろこうした方法によって人間は真理獲得の方法を知ることができるから哲学的真理を獲得することも可能なのであって,それが倫理の基礎になるといういい方も可能だといわなければならないでしょう。実際に定理自体は,第二種の認識cognitio secundi generisを基礎にした哲学的な事柄だともいえるからです。
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