スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
松戸競輪場で争われた千葉記念の決勝。並びは坂本に諸橋,山岸‐神山‐飯嶋‐尾崎の関東,鈴木‐成清の千葉で村上は単騎。
村上がスタートを取って前受け。この後ろは牽制になりましたが2番手は山岸に。6番手に鈴木,8番手に坂本で周回。残り3周の最終コーナーで坂本が上昇。これに鈴木も続き,まだ誘導を斬っていなかった村上の後ろに坂本。バックで坂本がまた動き村上を叩くと3番手は村上になり,4番手に鈴木。引いた山岸が最終コーナーで発進していくもそれを鈴木がブロック。ホームではまた6番手に下がった山岸はバックから発進して打鐘。ここから坂本と山岸の先行争い。この争いを制したのは坂本で,山岸はバックの手前で脱落。神山が自力で動こうとしましたがその内にいた村上が神山を弾いて発進。直線入口で坂本を捕えるとそのまま抜け出して優勝。村上にスイッチしていた成清を牽制してどかした諸橋が3車身差で2着。1車身差の3着争いは成清とその内から伸びた尾崎で大接戦。写真判定となり3着は成清で微差の4着に尾崎。

優勝した京都の村上義弘選手は昨年7月の小松島記念以来となる記念競輪34勝目。千葉記念は初優勝。ここは山岸を先頭としたラインが展開的に有利になりそうでしたが,坂本も鈴木もマークしたために先行することさえできませんでした。こうなると現状は諸橋と村上が実力上位でしょうから,展開とは関係なく,力で決まったというレースになりました。村上は脚を使わないようにあっさりと前を取り,坂本ラインの3番手に入ったらその坂本が先行するという展開になりました。諸橋が坂本マークだったためにすぐに牽制するのが難しい隊列であったことも味方し,大きく離しての優勝ということになったといえます。
訪問医療で必ずするのは血圧と血中酸素の計測です。もっともこのふたつは訪問看護の際にも医療行為として行われていました。この日はフェンタニルパッチを貼った部分の跡を目視で検査し,かぶれているということで,軟膏の処方がありました。常に貼っている薬剤なのに貼った跡があるのを不自然に感じる方がいらっしゃるかもしれませんが,同じ部分に貼るわけではありません。たとえば右側,具体的にいうと右の鎖骨の下あたりに3日間貼り続けたら,次は左の鎖骨の下あたりに貼るというように,貼る位置は変えているのです。これはフェンタニルパッチの使用上の注意のひとつに含まれていました。身体全体の触診もありましたが,腹部の張りと足のむくみが大きいようなので,木曜日にまた訪問するということになりました。
軟膏の処方があったといいましたが,これは薬剤自体が処方されたわけではなく,処方箋が出されたという意味です。なのでこれは午後に僕が薬局に取りにいきました。このときに処方されたのはロコイド軟膏という,小さなチューブに入った薬剤でした。
6月19日,火曜日。この日は訪問看護でした。午後1時35分にふたりの看護師が来訪しましたが,そのうちのひとりはこの日に初めて来た方でした。訪問看護のときにも血圧と血中酸素を計測するのは訪問医療の場合と同じで,検温もします。前にもいったように,フェンタニルパッチを貼り換える日に該当すれば貼り換えも行います。先週の火曜と金曜は両日ともそれに該当していましたが,この日はそうではありませんでしたので,これは行っていません。その後で入浴の介助になります。フェンタニルパッチは濡らしてはいけないことになっているので,入浴のときはパッチの上からビニールのテープのようなもので覆います。母はこの介助の日以外にも,ひとりで入浴するケースがあったのですが,そのときにも使えるように,覆うためのテープは何枚か置いていってもらってありました。ただこのテープもまたとても薄手のもので,僕は貼るのを手伝ったことがありますが,とても大変でした。パッチよりもこちらの方が難しかったです。
11日と12日にセルリアンタワー能楽堂で指された第31期竜王戦七番勝負第一局。対戦成績は羽生善治竜王が15勝,広瀬章人八段が8勝。
文化庁長官による振駒で羽生竜王の先手となり角換り。戦いが始まってから相腰掛銀になりました。ハイライトは熾烈な終盤戦。

後手が桂馬を打った局面。ここで☗4一飛☖2九飛のように攻め合うと後手が勝つようです。そこで先手は相手の打ちたいところに打てと☗2九飛と自陣飛車を打ちました。先手は自陣に駒をたくさん打っているのですが,角と金銀の交換で駒得になっていますから,長引けば自然とよくなっていくような局面だと考えていいのではないでしょうか。
後手は☖7七歩☗7九金の交換を入れてから☖2四飛と打ち返して馬取りを受けました。先手は☗2六飛☖同飛と取ってしまって☗3一角の王手。攻めるなら飛車より角がよいということでしょう。後手は☖4三玉と逃げて先手は☗6四角成と馬を作りました。
後手は☖2九飛成と反撃。これには☗3九歩。後手は☖4七桂成☗同金直と進めて取った銀を☖2七銀と打ちました。先手は☗6五銀と取り後手は☖3八銀不成。

ここで☗5四銀☖3四玉☗4五銀打なら先手が押し切っていました。しかし☗5四馬と取って☖3四玉に☗2六桂☖同龍☗3八歩の順で銀を外したので混戦に。後手の☖3九飛が攻防兼用のぴったりした手でした。
☗5九桂の受けに☖3八飛成☗4八銀。そこで☖3五桂と打ったのが厳しい手のようで敗着に。

第3図は☗4九銀と埋められて後手に適当な手段がありませんでした。ですから後手は先に☖4九金と打っておくべきで,それならむしろ分のある戦いでした。
羽生竜王が先勝。第二局は23日と24日です。
6月15日,金曜日。午後1時40分に訪問看護師が来訪しました。これは12日に来訪したのと同じふたりでした。母が使うことができそうな試供品をいくつか持ってきてくれました。この中に風呂上りに飲用するパック入りの水がありましたが,これは母が気に入りましたので,僕がドラッグストアで買い続けることになりました。正式な契約を交わしたのはこの日で,基本的に火曜日と金曜日に訪問介護を実施することになりました。ただ,訪問看護師は母だけを看護するわけではなく,ほかにも患者がいます。ですから何時に訪問するかは,個別に決定するということになりました。とはいえ基本的には午後1時半でした。
この日は入浴の介助が行われたのですが,僕は妹を迎えに行かなければなりませんでしたので,訪問看護の最中に出掛けました。僕が帰宅するまでには看護は終って看護師は帰ります。つまり自宅には母がひとりだけということになるのですが,この時期の母はまだひとりで家にいてもとくに心配する必要はない状況でした。母は最終的には希望していた通り,緩和病棟に入院することになるのですが,その入院のときまで,同じような状態であり続けたと考えてもらって構いません。ただそのときには伯母が来日していましたので,実際に母がひとりで家にいるという状況は発生しなくなっていました。
この日は妹を連れて帰ったとき,夕食の支度がしてありました。母が家族の夕食の支度をしたのはこの日が最後です。僕はともかく妹には最後にもう1度だけ手料理を振舞いたいという思いが母にはあったようです。
6月16日,土曜日。母の学生時代の同級生がふたり来訪し,1時間半ほど母と話をして帰りました。これはもちろん母が自身の状況を伝え,来てもらったものです。
6月17日,日曜日。ピアノのレッスンがありました。この週は金曜日に先生から電話があり,午後3時の開始となっています。
6月18日,月曜日。妹を通所施設に送りました。そして午前11時45分に訪問医の来訪がありました。訪問医は往診時には僕がいる必要があるという見解でした。この時間なら間に合うのは確実だったのです。
第23回秋華賞。スカーレットカラーが右の後ろ脚を跛行したため出走取消となり17頭。
サトノガーネットは加速が鈍く半馬身ほどの不利。先手を奪ったのはミッキーチャーム。向正面に入るところでリードは1馬身ほど。2番手にオスカールビー。1馬身差の3番手をランドネとハーレムラインで併走。1馬身差でサヤカチャン。1馬身差でラテュロスとラッキーライラック。1馬身差でゴージャスランチ。1馬身差でサラキアとオールフォーラヴ。1馬身差の11番手がアーモンドアイ。1馬身差でカンタービレ。1馬身差でトーセンブレスとダンサール。1馬身差でパイオニアバイオとプリモシーンで1馬身差の最後尾がサトノガーネットと一団でのレース。前半の1000mは59秒6のスローペース。
ミッキーチャームは向正面でリードを広げていき,3コーナーでは3馬身。2番手のオスカールビー,3番手のランドネとハーレムラインは4コーナーまでは追い掛けましたが,直線に入るとミッキーチャームが完全に振り切り,抜け出しました。アーモンドアイは道中に位置していた外目のままコーナーを回ったため直線入口ではまだ後方。しかし直線ではその外目を真一文字に伸び,逃げ切り態勢のミッキーチャームをあっさりと捕えて優勝。ミッキーチャームが1馬身半差で2着。内目から勝ち馬マークのようなレースになったカンタービレが最後はアーモンドアイの外から脚を伸ばして1馬身差で3着。
優勝したアーモンドアイはここがオークス以来のレースで大レース3連勝となる3勝目。この中で能力が図抜けていることははっきりしていましたので,ぶっつけ本番となったことだけが課題。内回りの後半のラップの方が速いレースで外を回ってこれだけの差をつけたのは能力の証以外の何ものでもなく,出走態勢がきちんと整っていたということでしょう。この後はエリザベス女王杯ではなくジャパンカップに向ってほしいところです。父がロードカナロアで母がフサイチパンドラ。祖母がロッタレース。

騎乗したクリストフ・ルメール騎手は帝王賞以来の大レース制覇。第22回からの連覇で秋華賞2勝目。管理している国枝栄調教師はオークス以来の大レース14勝目。第15回以来8年ぶりの秋華賞2勝目。
業者の方が来訪された意図は,介護用ベッドの使用に問題がないかを確認するためでした。これには何も問題がありませんでしたので,本来ならそれで事足りました。ただ,僕たちの方からもうひとつ,別に依頼したいことがあったのです。
前日に訪問看護師と訪問医が来訪し,訪問看護の内容として,入浴の介助を行うことが決定していました。入浴は毎日ではありませんが,入院中にも行なっていました。そのときは介助用の椅子を使用していました。これを利用すると母はとても楽だったようです。ですがそのような椅子は家にはありません。そこで,この椅子を入手することができないかという相談をしたのです。
ベッドを借りたのはベッドの専門店ではなく,介護用品を扱う業者です。ですからこのような椅子の在庫はあるということでした。ただし,椅子はベッドと異なり,レンタルすることは不可能で,買取が必須でした。そう長く使用するものではない筈ですが,あった方がよいものですから購入することにしました。いろいろなタイプがあって,母にとって最もよさそうなものはこの日のうちには手に入れることができませんでしたが,偶然にも業者の方は見本として椅子を社用車に積んでありましたので,この日はそれを置いていってくれました。次の訪問看護は金曜でしたから,その日に使用することができるようにとの配慮でした。実際に購入するものが用意できたら持ってきて,そのときにこの見本と交換することになりました。
業者の方が帰った後で,薬局に薬を取りにいきました。その後,午後3時ごろにFさんが来訪し,30分ほど母と話をして帰りました。
6月14日,木曜日。午後4時ごろに地域ケアプラザのNさんが来訪し,母と僕の3人で20分ほど面談をしました。これは今後,もし何か困ったことが生じたときに,地域ケアプラザとしてどのような手助けをすることができるのかということの説明でした。この中に,車椅子のレンタルというのがあり,1日くらいであれば貸し出すことが可能であるという話がありました。これは利用することができそうと思ったのですが,実際にレンタルすることはありませんでした。
10日に指された第49回新人王戦決勝三番勝負第一局。藤井聡太七段と出口若武奨励会三段は公式戦では初対局。
振駒で出口三段の先手となり相掛かり。先に後手の藤井七段が飛車先を交換する手順から先手の浮き飛車,後手の引き飛車になりました。先手が腰掛銀を進出させて歩得を果たしたところで後手が反撃。後手の香得の分かれに進みましたので,そこで後手がリードしていたかもしれません。

先手が歩を突いた局面。後手の☖7七歩成はこの一手でしょう。先手は☗4三歩成。これに対して☖同王はおそらく最善の応手だったと思います。先手はそこで☗7七金とと金を払いました。後手も☖4四歩と香取りを受けました。
ここで☗4五歩と合わせていきましたが,歩はたくさん持っているので先に☗4二歩と打っておくのは有力だったように思えます。後手は☖5二王と早逃げしました。
先手は☗4四歩と取り込んで後手は☖4六香。ここでは☗3二桂成から攻め合えなければいけないと思われますが無理だったようで☗4三歩成☖同金に☗4七歩と受けました。

これは香取りではありますが先手とまではいえません。ここで手番を渡してしまうのでは,はっきりとした差がついているといえそうです。
藤井七段が先勝。第二局は17日です。
訪問看護師からはケアマネージャーについてはやはり決めた方がよいのではないかという話がありました。決めることができればそうしましたが,結果的にいえば見つからなかったので,母は最後までケアマネージャーをつけることはありませんでした。
訪問医は処方箋を出しました。主に常備薬として家に置いておくものです。座薬がほとんどで,ほかにすでに母が服用していたオプソ内服液が飲み薬として処方されていました。処方箋はこの後で僕が薬局に持っていったのですが,常備薬のひとつであったアンペック坐剤は麻薬であったため,取り寄せが必要でした。ですからそれが用意できた後で,ほかの薬もまとめて入手することにし,この日は代金だけを支払って帰りました。
伯母はいませんから,ここからは家でほぼ僕と母のふたりでの生活に突入しました。後にまた伯母が来日するのですが,それまではふたりだけだったのです。この間,母は洗濯機を回して洗い終わった洗濯物を籠に入れておくことと,僕が取り込んだ洗濯物を畳むということはずっと続けました。以前はこれに夕食の支度がプラスされていたのですが,これはもうできなかったので,僕が僕と母のふたり分,妹が滞在しているときには妹のも合わせて3人分の夕食を作ることになりました。僕は最後に母とこのような時間をもつことができたのはとても幸せなことであったと思っています。僕にしろ妹にしろ母がいなければ育つということはなかったわけです。それからすればごく些細なことだし,また短い時間ではありましたが,最後に少しだけ恩を返すことができたように思えるからです。
6月13日,水曜日。午前11時5分に薬局から電話がありました。これは前日に処方された薬剤のすべてが揃ったという連絡でした。ただ,この日はこの後で,介護用ベッドの業者の社員が来訪し,母に使い心地を聞きに来ることになっていました。これが午後1時で,それまでに薬を取りにいくことは時間的にいえば可能でしたが,後回しにしました。母の状態はそれをすぐに入手しなければならないようなものではなかったのです。
業者の方が来訪されたのは午後1時10分でした。
昨晩の第15回レディスプレリュード。
アンジュデジールは発馬が悪く1馬身ほどの不利。先手を奪ったのはニシノラピート。2番手がディアマルコで3番手にプリンシアコメータという並びになりました。この後ろをリエノテソーロとブランシェクールで併走。ワンミリオンスがその直後でこの後ろはジュエルクイーンとクイーンマンボ。さらにアルティマウェポンとステップオブダンスが併走しているところへアンジュデジールが追い上げてきました。あとはエースウィズとラインハートが並んで続き,ユッコは1頭だけ置かれて最後尾。最初の800mは51秒1のスローペース。
3コーナーではニシノラピートにディアマルコが並び掛けていき,コーナーではその外からプリンシアコメータが追撃。それをマークしてブランシェクールも上昇し,大外をワンミリオンス。内の2頭は一杯になり,直線ではプリンシアコメータが先頭に。これにブランシェクールが襲い掛かり,その時点では差すかの勢いだったのですが,そこからまたプリンシアコメータが一頑張り。フィニッシュまで抜かせなかったプリンシアコメータが優勝でブランシェクールがアタマ差の2着。内を回って直線に入ってから外に切り返してきた北海道のアルティマウェポンが1馬身半差の3着に入って大波乱の結果。
優勝したプリンシアコメータは昨年のクイーン賞以来の勝利で重賞2勝目。このレースは能力を十全に発揮できなかった馬が多く,この馬も2着馬と同等の能力とは考えにくく,存分に力を発揮したとはいえないのかもしれませんが,有力馬の中では能力に近いところまで出しました。それによって優勝を手に入れることができたというような結果。ただ,逃げることで良績を残していた馬が,3番手からのレースで結果を出した点は収穫。この路線はかなり混沌としてきた印象が強く,しばらくは馬券面で難しい結果が続くことになるかもしれません。父はクラフティワイフの第11子になるスパイキュール。母の4つ上の全姉に2004年のNARグランプリ最優秀牝馬に選出されたベルモントビーチ。Cometaはイタリア語で彗星。
騎乗した香港のジョアン・モレイラ騎手と管理している矢野英一調教師はレディスプレリュード初勝利。
この間,母はずっと病室のベッドで横になったままでした。退院となれば歩かなければなりませんが,この病室はエレベーターから遠いところにあり,そこまで歩くのは大変だろうということで,車椅子を用意しました。みなと赤十字病院は正面玄関を入ったすぐのところに何台かの車椅子が置いてあり,院内では自由に使用できることになっていたのです。それで僕はその車椅子を取りにいきました。
車椅子を用意して病室まで戻ると,薬剤師が来ていました。これはこれから使用する薬剤の説明のためです。これで病院でしなければならないことはすべて終わりましたので,正面玄関まで母を乗せた車椅子を押して,あとはタクシーで帰りました。母はタクシーを降車するときに転んでしまい,右膝の上のあたりに擦り傷ができました。とはいえこれは処置をする必要がないほどの小さなものでした。
僕たちが帰宅したのは11時15分です。母は昼食にはパンを食べたいと所望しましたので,僕がバスで根岸駅まで行って買ってきました。ついでですから僕もパンにしました。
午後2時40分に,依頼してあった診療所の訪問看護師がふたり,訪問してきました。これは今後の訪問医療の説明のためです。要は,訪問してどのような医療を実施するのかということです。これは母の希望があって,入浴の介助が中心になりました。ただし,この日は入浴はしていません。また,この日はちょうどフェンタニルパッチを貼り換える日に該当していましたので,これは看護師がやってくれました。ただ,前にもいいましたように,この貼り換えは基本的に母が自分でやりました。例外はこの日のように,訪問看護の日と貼り換える日が合致したときだけです。
看護師と話している間に,医師も訪問してきました。これは訪問医です。診療所は医師も看護師も同じところに属していましたが,手続き上は別の組織になっていました。つまり契約をしたわけですが,訪問看護と訪問医療は別々の契約でした。ただ,同じ診療所ですから,互いの連絡はよく取り合えていました。基本的に訪問医療は月に2回の頻度,訪問看護は週に2度の頻度で実施することが決定しました。
昨晩の第52回東京盃。
発馬後の加速が鈍かったのでやや手間取りましたがマテラスカイがハナへ。加速がよかった馬と追い上げてきた馬で位置の取り合いになり,隊列が定まるのには時間が掛かりましたが,2番手は単独でネロに。この後ろは外を回ったサクセスエナジーとグレイスフルリープ。キタサンミカヅキは内に控え,エイシンヴァラー,エイシンバランサー,キャンドルグラス,テーオーヘリオスと続きました。この後ろはゴーディーとサクラレグナム。以下はコパノリスボン,マイネルルークス,タッチライフ,コスモプラシデスの順。前半の600mは34秒4のハイペース。
直線に向いたところでもマテラスカイは手応えがよさそうにみえましたので,離していくのではないかと思ったのですが,追ってから伸びを欠きました。この間に最内からキタサンミカヅキ,外からネロ,さらに外からグレイスフルリープの3頭が伸びてきて,一旦は先頭に立ったネロを最内のキタサンミカヅキが急追。フィニッシュ直前でキタサンミカヅキが差し切って優勝。ネロはアタマ差の2着。大外のグレイスフルリープが1馬身4分の1差の3着でマテラスカイは4分の3馬身差の4着。

優勝したキタサンミカヅキはアフター5スター賞に続いて3連勝。第51回からの連覇で重賞は2勝目。ここはマテラスカイのスピード能力が明らかに上位でした。ただ,はっきりとした原因は不明ながら,その優位さを生かしきれないレースに。それ以外ではテーオーヘリオス,キタサンミカヅキ,ネロ,サクセスエナジー,グレイスフルリープの5頭がほかの馬に対して能力的なアドヴァンテージがあり,しかし実力は伯仲という関係でしたので,接戦になったのは当然。内を回ってくることができたのがキタサンミカヅキの大きな勝因になったといえるのではないでしょうか。以前は追い込み一辺倒でしたが,先行力をつけてきたので,成績は安定してきています。ただ大井の1200mがベストなのは疑い得ないので,JBCスプリントでも好走できるのかは何ともいえないところでしょう。父はキングヘイロー。母の父はサクラバクシンオー。母の8つ上の半兄に1998年に埼玉新聞杯を勝ったキタサンシーズン。
騎乗した船橋の森泰斗騎手はデビューから約20年半で重賞初勝利。管理している船橋の佐藤賢二調教師は昨年の東京盃以来の重賞8勝目。東京盃は連覇で2勝目。
6月10日,日曜日。午前11時半に業者の社員の方が来訪されました。これは前日に来て,計測を行ったのとは別の方です。医療用のベッドの設置ということで,作業衣を着用した人が現れるのではないかと勝手に想像していたのですが,スーツ姿でしたので面喰いました。
ベッドの設置は40分ほどで終了しました。作業後に,契約書にサインをして,契約も完了しました。このベッドはマットレスが備え付けてあるもので,マットレスの上に布団を敷くことはしないようにとの注意が与えられました。また,実際に使用してみての感想を聞きたいので,母が使用するようになったら,というのは火曜以降ですが,また来訪するとのことでした。
午後2時過ぎに妹と母の見舞いに行きました。布団を敷くことはできませんが,マットレスの上にそのまま横たわるわけにもいきません。つまりシーツは敷かなければならないわけです。そこでどのようなシーツを敷くのがよいのかということについて,母の希望を確認しておきました。これからはどんどん暑くなっていきますので,なるべく薄手のものをというのが母の希望で,実際に敷くシーツの指定もありましたので,帰ってから言われたものを敷きました。
6月11日,月曜日。午前中は妹を通所施設まで送り,午後から母の見舞いに行きました。
退院が翌日でしたから,主にその打ち合わせです。それから,5月分の入院費の請求が来ていましたので,これはこの日のうちに支払っておきました。
6月12日,火曜日。退院の日です。
病院に到着したのは午前9時15分でした。7階のナースステーションに向いますと,クラークが病室に案内してくれました。この段階で入院費の支払いは可能な状況になっていましたので,まず支払いを済ませました。
次に当日の担当の看護師が来て,忘れ物がないかなどのチェックを済ませ,入院患者が巻いている手首の輪を外してくれました。それと同時に書類を渡されました。これは相談員の援助により,訪問医療と訪問看護が行われることが決定していましたので,訪問医に渡すためのものでした。申し送りのようなものだと理解してください。
8日にグリーンドーム前橋で争われた第27回寛仁親王牌の決勝。並びは渡辺‐小松崎‐佐藤の福島,脇本‐三谷の近畿,清水‐柏野の中国で平原と浅井は単騎。
三谷が飛び出してスタートを取り脇本の前受け。3番手に清水,5番手に浅井,6番手に平原,7番手に渡辺で周回。残り3周のホームの出口から渡辺が上昇開始。バックの出口で脇本に並び掛けると誘導を斬った脇本が突っ張りました。渡辺はそれ以上は追い掛けられず,また7番手まで引いて周回中の隊列に。バックに入り清水が発進。柏野は離れそうになりましたが何とか続き,このふたりが脇本を叩いて打鐘。浅井がこのラインに続こうとしたのですが,これは三谷がブロック。3番手に脇本で5番手に平原という隊列に。清水が飛ばしたので一時的に差は開いたのですが,バックから脇本が発進すると直線の入口では捲り切り,その勢いのまま優勝。マークの三谷が半車身差の2着で近畿のワンツー。このライン追走になった平原が流れ込んで1車身半差で3着。後方から捲り追い込んだ渡辺が半車輪差で4着。

優勝した福井の脇本雄太選手はこれがオールスター競輪以来の出走でGⅠを連覇。ビッグも2勝目。ここは脚力的に相手になり得るとすれば渡辺だけ。前受けしてその渡辺が押さえにきたときに,突っ張って引かせた時点で勝負は決まりました。瞬間的なスピードは渡辺の方が上なのかもしれませんが,持久力は明らかに脇本に分があるからです。そこを考慮すれば渡辺は脇本が突っ張るのが難しくなるくらいの早い段階で動いていかなければならなかったということでしょう。現時点では脇本が最強選手で,競技があるため出走は少ないですが,しばらくは脇本を中心に展開していくことになるでしょう。
6月9日,土曜日。午前11時10分に地域ケアプラザのNさんから電話がありました。週末でも介護用のベッドを設置することができる業者に僕のことを紹介したので,後に業者から連絡があるだろうという内容のものでした。11時35分に業者から連絡が入り,午後5時に社員が訪問するとのことでした。ただしこれはベッドを設置するための来訪ではなく,設置することが可能であるか否かの下調べのためです。
午後,妹と母の見舞いに行き,母の意向を確認しました。ベッドを置くのは父が最後に退院してきたときに設置した部屋をおいてほかにはありませんでしたから,部屋に関しては意向も何もありません。それはもちろん母も分かっていたことです。ただ,現状も母が入院前に使用していた普通のベッドは置いてあり,これを片付ければ設置する場所は部屋の端でも中央でも可能です。ですからまず,ベッドをどの辺りにどの向きで設置するのがよいかということは確認しておかなければなりませんでした。
次に,母が使用していたベッドは簡易カーペット,大きさでいえば絨毯といってもいいですが,その上に設置してありました。このカーペットを敷いたままにした方がいいのか,それともフローリングの上に直に設置する方がよいかということも確認事項のひとつでした。母の意向は,簡易カーペットは敷かずにフローリングの上に設置すること,そして場所は部屋の中央にすること,向きは南北にして頭が南側になるように設置することの三点でした。僕たちは見舞いを終えて午後3時50分に帰宅しましたので,これまで使用していたベッドは中央から隅に移し,カーペットは折り畳み,スペースに収納して業者の来訪を待ちました。これまであったベッドが部屋の隅に移動することで,部屋が何だか広くなったような気がしました。
予定通り,午後5時に業者の社員の方が来訪しました。メジャーで部屋の大きさを計測し,母が希望したようにベッドを設置することが可能であるということが確かめられました。退院は火曜ですからそれまででよかったのですが,翌日の11時半から12時半の間にベッドを設置するということが決定しました。
昨日の第31回南部杯。
ノンコノユメは発馬が悪く3馬身ほどの不利。大外でしたが逃げなければ力が出せないオールブラッシュがいくと思っていたのですが,主張することもなく,ハナに立ったのはベストウォーリア。ノボバカラ,オールブラッシュ,コスタアレグレ,メイショウウタゲの5頭は概ね1馬身ずつの間隔で追走。ここから4馬身ほど開いてルヴァンスレーヴ。これをマークする位置にゴールドドリーム。ここから6馬身ほど開いてロジストームとケルヴィンサイド。また3馬身開いてアリッサム,ヒドゥンブレイド,追い上げたノンコノユメの3頭でその直後にミッキーヘネシー。6馬身ほど離れた最後尾にプリンスダムととても縦長の隊列。ただし前半の800mは46秒9でこれはミドルペースの範疇。
3コーナーを回ると2番手のノボバカラには鞭が入り,オールブラッシュがその外。ルヴァンスレーヴはこの直後まで追い上げてきてマークしていたゴールドドリームもそれに合わせて進出。直線ではルヴァンスレーヴがベストウォーリアを捕えて先頭。2頭の間にメイショウウタゲで外からゴールドドリームでしたが,メイショウウタゲは2頭ほどの末脚は使えず,優勝争いは外の2頭。先んじていたルヴァンスレーヴがさほど差を詰められることなく優勝。ゴールドドリームが1馬身半差で2着。メイショウウタゲが3馬身差で3着。
優勝したルヴァンスレーヴはジャパンダートダービーに続いて大レース連勝で通算3勝目。3歳馬はとくにダート戦の場合,古馬との初対戦は厳しいものです。それをあっさりと克服し,左回りの1600mが最も得意と思われるゴールドドリームを負かしたのですから,いかに斤量差があったとしてもかなり高く評価する必要があると思います。現状のダート戦線のトップに立つ馬という評価でよいのではないでしょうか。父はシンボリクリスエス。母の父はネオユニヴァース。6代母がファンシミンで4代母が1986年に京成杯と牝馬東京タイムス杯,1987年にエプソムカップと新潟記念とオールカマーを勝ったダイナフェアリー。Le Vent Se Leveはフランス語で風立ちぬ。

騎乗したミルコ・デムーロ騎手はジャパンダートダービー以来の大レース制覇。南部杯は初勝利。管理している萩原清調教師はジャパンダートダービー以来の大レース5勝目。南部杯は初勝利。
6月8日,金曜日。この日の朝から妹の生理が始まりました。2010年に母が入院していたときにもいいましたが,僕にとって妹を世話する中で最も難儀と感じるのが生理時の介助です。実状としていえばほとんど本人任せです。ただこのときはパジャマを少し汚してしまいましたので,漂白剤を使って洗濯をしなければなりませんでした。
木曜に妹を迎えに行ったのは,この日が本牧脳神経外科の通院の日であったからです。前回までは午前中でしたが,この日から午後3時の予約にしてありました。この日は診察をしただけでした。
診察後に,みなと赤十字病院に母の見舞いに行きました。この見舞いの最中に,ちょうど相談員のHさんが病室に来ましたので,僕と母,Hさんで今後のことについて相談をしました。相談,というか実質的には助言を受けたという形です。僕の方からは地域ケアプラザの方,これは僕が水曜日に会ったNさんですが,そのNさんを紹介しまして,そちらとも連絡を取るようにお願いしておきました。
本牧脳神経外科の通院の場合は妹の薬の処方箋が出されます。ですから帰途に妹の薬をもらっているチェーン店の薬局に寄りました。この日は混雑していて,45分ほどを要しました。この間に僕の方からNさんに電話を入れて,相談員のHさんからおそらく連絡があるだろうということは伝えておきました。薬を受け取った後でNさんの方から電話が入りました。やはりHさんから連絡があり,母にとって必要なことについて話をされたようです。
このときにNさんから伝えられたのは,まず,水曜日にはケアマネージャーを早く決めた方がいいといったけれども,それは早急に決める必要はないということでした。これは,母については介護保険よりも医療保険で対応した方がいいという意味です。そしてさしあたり対応しなければならないのは,訪問看護と訪問医療と介護用ベッドの用意であるということでした。このうち,訪問看護と訪問医療については相談員のHさんが主に対応し,介護用ベッドについては,なるべく早いうちに室内に設置できる業者を紹介してもらうことになりました。週末でも対応できる業者です。
日本時間で昨日の深夜から今日の未明にかけてのパリロンシャン競馬場の開催に,3頭の日本馬が出走しました。

凱旋門賞GⅠ芝2400m。
クリンチャーは抑えるような発馬でしたが3番手集団の内という位置を確保。そのまま直線まで進み,追い出しましたが伸びを欠き,勝ち馬からは概ね18馬身弱くらいの差で17着。勝ち馬はこの馬の外に位置していましたから,純粋に力負けというほかありません。この馬は日本ではスタミナタイプですが,ヨーロッパでは必ずしも秀でているというわけではないと思われますので,降雨があって馬場が悪化したのもマイナスではあったでしょう。
オペラ賞GⅠ芝2000m。
ラルクは少し押して中団の外を追走。馬群が密集して内に入れられるところはなかったのでそのまま進みました。直線の手前から手が動き出し,何とかついていこうとしましたが,前の争いからは決定的に離されたのでフィニッシュ前にレースを終了。勝ち馬から44馬身差ほどの13着で入線しました。この馬はここがフランスでの3戦目ですが,前の2戦はリステッドレースでも8着,8着でしたから,GⅠでは荷が重かったといったところでしょう。
フォレ賞GⅠ芝1400m。
ジェニアルは外によれるような発馬となり,最後尾。それも集団から4馬身くらい離れたところをぽつんと追走するレース。直線は外に出ましたが,前の馬たちを大きく上回るような脚は使えず,勝ち馬から約7馬身差の14着。殿負けではありませんでしたが,内容だけでいうと1頭だけレースに参加することができなかったような負け方で,この距離ではスピード能力が足りないのではないかと感じました。
6月7日,木曜日。翌日が通院の妹を迎えに行きました。
この送迎が必要になったため,以前と異なり,迎えがある日は見舞いに行くことができなくなったというのは前にいった通りです。ただ,先週の金曜日はまだ伯母が滞在していましたから,伯母が見舞うことはできました。ですが月曜に帰国しましたので,本来ならこの日はだれも見舞いに行くことができなかったのです。しかし前日に約束した通り,この日はSさんに病院に来てもらうことになっていました。これなら僕も半ば強制的に病院に行かなければなりません。つまり,だれも見舞わないという事態を防ぐ意味でも,この日は都合がよかったのです。
通所施設からみなと赤十字病院にはバスや電車で行くのは大変です。ですから妹と一緒にタクシーを利用するつもりで,実際にそうしたのですが,タクシーを見つけるのにかなり時間を要してしまいました。病院での待ち合わせの時間は午後4時で,3時過ぎには通所施設を出ることができますから,絶対に間に合うだろうと踏んでいたのですが,少しばかり遅れてしまいました。僕たちが病院に到着したときには,すでにSさんがロビーで待っていましたので,そのまま母の病室に向いました。
Sさんはデジカメに,通所施設やグループホームでの妹の様子を撮影してきてくれました。すべてを視るのは時間的に無理でしたので,そのデジカメを置いていってくれました。僕もすべて視聴しましたが,ピアノを弾いたりトランプをしたりして,妹は楽しそうに生活しているようでした。母は妹が幸せでいられるということを最も重視していましたから,これで安心することができたようです。この点ではSさんはとてもいいものを持ってきてくれたと思います。
Sさんが帰った後,僕は前日に地域ケアプラザでもらった資料を母に渡しました。ただ,こちらも分量が相当ありましたので,すぐにすべてを読んで何かを決定するというには時間的に不十分でした。母も自分自身のことですから,よく考えずに決定してしまうというのは不本意であったでしょう。なのでその資料をよく読んで,翌日までに希望する支援を決定するということにしました。
『1993年の女子プロレス』の中で,インタビューの基軸になっている事柄がいくつかあります。そのうちのひとつが,女子プロレスはプロレスなのか女子プロレスなのかという観点です。奇妙な問い掛けに聞こえるかもしれませんが,女子プロレスには確かにこのふたつの路線が存在するのであり,女子プロレスの歴史というのはその路線の対立の歴史という側面もあったようなのです。

女子プロレスがプロレスであるというのは,女子プロレスはプロレスの一部であり,プロレスという競技性においては男子も女子も,というのは時代背景的には全日本女子プロレスも全日本プロレスも新日本プロレスも,という意味になりますが,同じプロレスであるという路線です。これを暫定的に僕はプロレス派といいます。これに対して,女子プロレスというのは女子プロレスという独自の競技なのであって,プロレスとは別の競技であるという路線があります。つまり全日本女子プロレスはプロレスと名乗ってはいるけれども,新日本プロレスや全日本プロレスとは別の競技を観客に提供している,魅せているという路線です。こちらを僕は女子プロレス派といっておきます。
僕の女子プロレスキャリアの最初,テレビだけを視ていた時代でいえば,ジャガー・横田は女子プロレス派でデビル・雅美はプロレス派でした。あるいはクラッシュギャルズのライオネス・飛鳥は女子プロレス派で,長与千種はプロレス派だったようです。全日本女子プロレスの場合,最高峰のタイトルは赤いベルトといわれたWWWA王者で,次が白いベルトのオールパシフィックでした。これでみればその頃の全日本女子プロレスは,どちらかといえば女子プロレス派の方が主流だったのかもしれません。
ブル・中野やアジャ・コングといったヒールが王者になる時代になり,はっきりとプロレス派が主流となりました。ですがこの時代にも女子プロレス派というのは存在していて,たとえば豊田真奈美はそうでした。全日本女子プロレスというのは,競技に関する認識が異なる人たちが,一堂に会して同じルールで試合を行っていたような団体だったのです。
日記の方に戻りましょう。
この日の時点でも相談員は母のところには来ていないということでした。退院は決定していて,それが翌週の火曜でしたから,このまま何もせずにおいてもいけないのではないかと思えましたので,見舞いから帰った後で地域ケアプラザに赴きました。介護保険の決定通知は母が入院した後で届いていましたので,さしあたってはそれをどのように活用するべきであるのかという相談です。
これまでにも何度か地域ケアプラザへの相談は行っていて,母のときは決まった職員が対応していました。なので僕はその方の名前を告げたのですが,このときは外出中であったため,別の職員が対応してくれました。このときにアドバイスをされたのは,ケアマネージャーをなるべく早く決定した方がよいということでした。そしてケアマネージャーというのはいろいろな施設に存在していますが,母のような場合は,バックに訪問看護サービスを備えた施設のケアマネージャーがよいだろうということでした。これは,母の退院後は訪問看護や訪問医療が必要になると予想されるからでした。同時に,医療用のベッドも用意しておくべきであるということでした。ただ,実際にどのようなサービスを受けるのかということを,母の意向を確認することなく僕だけで決定するというわけにもいきません。そこでパンフレットや資料をもらって,母の意向を確認した上で,再び連絡するということにしました。のんびりしているといえばのんびりしているのですが,このときの母の状態からすると,仮に用意すべきもののうちいくつか間に合わないものがあったとしても,少しの間なら大丈夫であろうと僕には思えたので,やや余裕のある対応をしたのです。
月曜に妹を送って行ったときに,グループホームの責任者から母との面会を打診されました。この日の夜に電話で連絡をして,翌日にみなと赤十字病院に来てもらうことになりました。金曜に妹の通院がありましたので,翌日は妹を迎えに行くことになっていました。妹も一緒にいた方がいいと思えましたので,この日を僕の方から指定したのです。ただし待ち合わせは通所施設ではなく,病院でした。
「孤独の肖像1st.」が収録されている「時代」には,「ローリング」という楽曲も収録されています。これも僕が好きな曲のひとつです。

元々は1988年に「中島みゆき」というタイトルのアルバムに収録されていたものです。これは椎名和夫によるアレンジで,「時代」のものは瀬尾一三のアレンジ。「孤独の肖像」と「孤独の肖像1st.」とは違い,曲の最後のところを除けばアレンジ以外の相違はなく,最後の部分の相違も重大な相違であるとは僕は思いません。
「狼になりたい」のように,中島みゆきの曲の中には歌い手が男というものも何曲かあります。「ローリング」もそうなっています。
Rollin'Age 淋しさを
Rollin'Age 他人に言うな
軽く軽く傷ついてゆけ
これはだれかに対するメッセージというのとは違います。歌い手が自分自身にいいきかせているのです。
Rollin'Age 笑いながら
Rollin'Age 荒野にいる
僕は僕は荒野にいる
僕はここにこの歌い手の矜持のようなものを感じるのです。そして僕がこの曲が好きなのは,それがすべてなのです。僕にとってこの曲は,聴くものというより口ずさむものです。ほんの少しだけでも,この歌い手に僕自身を重ね合わせるために。
憎しみodiumから生じる欲望cupiditasはどのようなものでしょうか。その代表としてあげられるのが第三部定理三九です。すなわち人間は,ある人間を憎むと,それによって自分により大なる害悪が加えられることがないと判断する場合は,その人間に対して害悪を加えようとするのです。そして第三部定理三七が示すように,憎しみが大であればあるほど,害悪を加えようという欲望もそれだけ大きくなるのです。
このために,自分とは別のある人間の精神mens humanaの自由な決意によって自分が害悪を被ったと知覚している人間は,その別の人間に対して害悪を加えようという欲望を抱くことになります。とりわけ害悪を被った人間は,現に生じていないこと,いい換えればその別の人間が別の精神の自由な決意によってなすことができたことに関しては楽観的に表象するimaginariので,こうした事象,すなわち実際に害悪を加えてしまうという事象が生じやすくなっているのです。しかしすでに述べたように,別の決意によってなすことができたと信じていることが実際に起こった場合,本当に自分が害悪を被らずにすんだのかどうかは不明です。むしろその決意によってことがなされれば,もっと大きな害悪を被っていたのかもしれないからです。
実は,このような欲望に引きずられてしまう人間もまた,高慢superbiaの一歩手前にいるのです。なぜなら,第四部定理五七備考でスピノザがいっているように,他人について正当以下に感じている人間もまた高慢であるからです。ある人間の行為によって自分が害悪を被ったとしても,その行為がなければもっと大きな害悪を被ることになっていたかもしれないのに,そのことは考慮せず,単に害悪を被ったという理由だけでその人間に害悪を与えようとする人間は,害悪を与えた人間のことを正当以下に評価しているといえるでしょう。
僕たちは喜びlaetitiaを希求して悲しみtristitiaを忌避しようとしますから,現に起きている事態が悲しみである場合には,現に起きていないことの方を楽観視する傾向conatusがあります。そういう傾向があること自体は致し方ありません。ですがその楽観視に引きずられてはいけないのです。それは十全な観念idea adaequataではなく,混乱した観念idea inadaequataだからです。
第三部定理四〇系二では,何の感情affectusも抱いていない人から憎しみodiumのゆえに害悪を加えられた場合,その人に対して復讐心vindictaを有するという主旨のことがいわれています。これは第三部定理四〇からの帰結事項のひとつですが,この定理Propositioから帰結するのはこれだけではありません。第三部定理四〇系一で示されていることも同様です。

「自分の愛する人が自分に対して憎しみを感じていると表象する者は,同時に憎しみと愛とに捉われるであろう」。
第三部定理四〇は,もしある人から憎まれていると表象するimaginari場合,もし自分がその人に憎まれる原因を与えていないと思うなら,その人のことを憎み返すといっています。実際には人は,自分が憎まれる原因を与えたと思うことの方が稀なので,この種の憎み返しは,憎まれていると表象する場合にはほとんどの場合で生じるといってもいいでしょう。そしてこれは一般的な真理veritasです。つまり自分を憎んでいると表象する人がだれであるのかということとは無関係に成立します。したがって,自分が愛する人が自分に対して憎しみを感じていると表象する場合にも成立します。よってその人は愛する人のことを憎むでしょう。しかし一方で,その人のことを愛しているということが仮定となっていますから,この人はその人に対して,愛amorと憎しみという両方の感情に捉われるということになるのです。
愛と憎しみは反対感情です。同時に,同じものに対する愛と憎しみは,必然的にnecessario相反する感情です。したがって,愛している人から憎まれている表象するとき,人は必然的に心情の動揺animi fluctuatioを感じることになります。
実際には心情の動揺というのは,相反する感情を有するという意味なので,すぐに解消されます。この場合には量的に決定されます。つまり,愛という感情の方がより強力であれば,憎み返しの感情は消滅するでしょう。逆に憎み返しが強力なら,愛が消滅します。ただしこれはそのときによるのであり,あるときは愛の方が強力で,あるときは憎しみの方が強力ということが往々にしてあります。ですから愛と憎しみに交互に捉われるということがあるのであり,心情の動揺とは,そうした状態のことをいっていると解しておくのが適切かもしれません。
さらにもう一点つけくわえておきましょう。
僕たちは現に悲しみtristitiaを感じている場合には,現に起きていないことについて楽観的に評価しがちであるというのは,一般的な事実です。すなわちこれは,自分の精神mensの自由決意によって悲しみが生じたと信じるか信じないかということとは関係ありません。そう信じている場合には後悔という感情affectusが発生するのですが,そう信じていない場合には後悔は発生しませんが,別の感情を抱いてしまう場合があります。
もし,他人の精神の自由な決意と信じるところによって自身に悲しみが齎された,『エチカ』でよくいわれるいい方に倣えば,害悪が齎されたと表象しているとしましょう。このとき,この人は起きていないことについては楽観的に表象しがちであるので,その他人が別の決意をしていれば自分は害悪を被ることはなかったと簡単に信じてしまうのです。ですがこれが妄信であるということは,自身の精神の自由な決意と信じることによって齎された害悪で示した場合と同様なのです。すなわち,もしその他人が別の決意をしていたら,この人は現に被ったのより以上の大きな害悪を被ることになっていたかもしれないからです。ところがこの場合にも人は,あの人が現にした決意をしたからこの程度の被害で済んでいるのであるというようにはほとんど表象せず,あの人が別の決意をしていればこれほどの被害を被ることはなかったと,よく精査することもなしに単純に判断してしまうのです。
他人の精神の自由な決意になされたと信じることによって悲しみを感じた場合には,この人の悲しみにはその他人の観念ideaが伴っていますから,その人を憎んでいることになります。これは第三部諸感情の定義七から明白でしょう。これに加えて,この自由な決意と信じるところが別のものであれば,その悲しみは感じなかったとも表象するのですから,この場合は憎しみodiumの度合はとても強いものになります。すると,その他人に対する欲望cupiditasの度合もそれだけ強くなります。それを示すのが第三部定理三七です。
「悲しみや喜び,憎しみや愛から生ずる欲望は,それらの感情がより大であるに従ってそれだけ大である」。
昨晩の第65回日本テレビ盃。
あまり逃げたくはないという様子も窺えましたが最内のテイエムジンソクがハナへ。ケイティブレイブが2番手でマーク。その後ろはアサヤケ,アポロケンタッキー,ヒガシウィルウィンの3頭。その後ろにオーズ,カガノカリスマ,コスモマイギフトの3頭。この後ろにラッキーポイントとサウンドトゥルーで後方2番手がセンティグレート。最後尾にアサクサポイント。12頭が一団で1周目の正面を通過していきました。向正面に入ると3番手はアポロケンタッキーとヒガシウィルウィンの2頭になり,サウンドトゥルーも5番手まで追い上げ,実力上位の5頭が前を形成。最初の800mは51秒7の超スローペース。
3コーナーを回ってケイティブレイブはテイエムジンソクの外に並んでいき,3番手のアポロケンタッキーとヒガシウィルウィンとの差が一時的に広がりました。また少し開いてサウンドトゥルー。直線に入って前2頭の競りはケイティブレイブがあっさりと決着をつけ,そのまま後続を寄せ付けずに快勝。コーナーではヒガシウィルウィンに出られかけましたがまた盛り返したアポロケンタッキーが2馬身差で2着。内を狙ったもののテイエムジンソクが下がってきたので外に切り返したサウンドトゥルーが1馬身半差の3着。最後はばてたテイエムジンソクが1馬身半差の4着でヒガシウィルウィンは直線での伸びを欠き4分の3馬身差で5着。

優勝したケイティブレイブはダイオライト記念以来の勝利で重賞8勝目。ここは実力差がはっきりとしたメンバー構成で,優勝候補の筆頭。テイエムジンソクが無理に押さえた感もあり,超スローペースになりましたので,それをマークする位置につけられたのがよかったのでしょう。ただ,ペースが遅い場合は着差は開きにくくなるものなのに2馬身差の快勝ですから,春よりまた強くなっているかもしれません。父はアドマイヤマックス。母の父はサクラローレル。母の12歳上の半兄に1999年に北海道スプリントカップ,2000年にガーネットステークスと黒船賞と群馬記念とかしわ記念と朱鷺大賞典,2001年にガーネットステークスととちぎマロニエカップを勝ったビーマイナカヤマ。
騎乗した福永祐一騎手と管理している杉山晴紀調教師は日本テレビ盃初勝利。
悲しみtristitiaについていえることは,その反対感情である喜びlaetitiaについても,逆の形で妥当することがままあります。すなわち,僕たちが悲しみを感じている場合,その悲しみの原因が自分自身の精神mensの自由な決意にあったと認識した場合に,ほかの選択肢に関して楽観的になるなら,僕たちは,自分の精神の自由決意によってある喜びを感じていると認識したときは,逆に別の選択肢については悲観的に判断しがちになります。他面からいえば,その選択が正しかったと判断しがちで,その選択あるいはその選択をした自分自身を誇る気持ちになるのです。こうした感情affectusについては,後悔以上に気を付けておかなければなりません。というのは,このような感情は一歩間違えれば第三部諸感情の定義二八にいわれる高慢superbiaに至るからです。
確かにスピノザは第四部定理五四で,後悔を強く否定しています。しかし高慢については第三部定理二六備考で狂気とまでいわれているのであり,それ以上に否定的に表現されているからです。いい換えればスピノザ主義者であろうとするなら,つまり自由の人homo liberであろうとするなら,高慢は最も回避しなければならない感情affectusのひとつなのです。
たとえば,ふたつある選択肢の中からAを選んだがゆえに喜びを感じるに至ったと認識する人は,Bを選んでいたら喜びを感じることはできなかっただろうと表象しがちなのです。ですがこの表象imaginatioはBに対する正当な評価であるとは限りません。むしろBを選んでいれば,Aを選んだ場合以上の喜びを感じることができたかもしれないからです。しかしそのようなことを考慮に入れず,ただAを選択して喜びを感じたというだけでそう選択した自分のことを誇るとすれば,これはまさに自分について正当以上に評価していることになります。もちろんそれは,自己愛philautiaのために誇っているとまではいえませんから,まだ高慢であるとはいえないでしょう。しかし何について喜んでいるのかという点だけでみれば,この喜びは高慢と同一です。よってこの感情は高慢の一歩手前の感情であると僕はいうのです。
僕たちは悲しみにだけ対処すればいいのではありません。喜びにも対処が必要な場合もあるのです。
仙台で指された昨日の第66期王座戦五番勝負第三局。
斎藤慎太郎七段の先手で,矢倉の出だしでしたが中村太地王座が2筋の歩の交換を許す指し方にしたため,相掛かりに近似した相居飛車の力戦に進みました。先手が棒銀から速攻に出ましたが,やや攻め過ぎがあったようで,厳密にはそこで差がついた一局だったようです。

先手が8七に歩を打って後手が8六の飛車を引いた局面。直前に2三に歩を打ったのが攻め過ぎの手だったようです。
先手がここで☗7五銀と出たので☖8八角成☗8四銀☖4四馬の飛車角交換になりました。ふたつの銀が当たりになっていますから☗7三銀成☖同桂とこちらの銀は交換してから☗2四飛と浮いて守りました。ここで☖2一歩と受けるのは仕方ないところ。
先手は☗8一飛と打ち込み☖7一歩に☗9一飛成と先に香車を取りましたが後手も☖9九馬と取り返しました。

先手から大捌きに出たのでここで☗4六香と先に打って攻め合えなければいけないのですが,これは後で☖1五角と打たれる筋があって無理なのだそうです。なので単に☗7七桂と跳ねましたが☖5四香☗5八香と打たされ,さらに☖8九角☗7九銀☖7八角成☗同銀☖8八馬と快調に攻め込まれました。

ここで☗6六角が一石二鳥のような手なのですが,後手に☖7八馬とされ,この攻め合いは後手に分がありました。
中村王座が勝って1勝2敗。第四局は16日です。
現状の苦境がAという指し手によるものであったと判断される場合,他面からいえば,Aという指し手が現在の苦境の原因であるとみなされる場合には,Aとは別の選択肢であったBという手はAよりも高く評価されやすくなります。しかしその評価が正当な評価であるかは分かりません。むしろBを選んでいれば,Aを選んだために招いている現在の苦境よりも一層の苦境を招いていたかもしれないのです。ところが人間は苦境に立たされている場合,いい換えれば悲しみtristitiaを感じている場合には,そのような認識cognitioをもつことが難しくなるのです。
このために,Bを選んでいればこのような苦境には至らなかったというような後悔が発生しやすいのであり,Aを選んだからこの程度の苦境ですんでいて,もしBを選んでいればもっとひどい苦境に立たされていただろうとは認識しにくいのです。これが,悲しみを感じているのが現実である場合,起こっていなかったことに対しては人間は楽観的に評価すると僕がいったことの具体的な意味です。つまり人間はある選択のゆえに悲しみを感じたというように認識し,かつその選択とは別の選択があったと認識した場合には,別の選択肢については楽観的になるのです。その別の選択肢によってもっと大きな悲しみを感じただろうというように,その選択肢について悲観的になることは稀であるといってもいいくらいかもしれません。
第三部諸感情の定義二七が示すように,後悔は悲しみの一種です。この悲しみを忌避するために起こらなかったことに対して楽観的になるのですが,その楽観は楽観視されている事柄に対して正当な評価であるかは分かりません。むしろ起こったことが悲しみを齎したがゆえに,起こらなかったことを過大に評価しているだけなのかもしれません。そしてこのことを弁えておけば,後悔という感情affectusに対しても僕たちはうまく対処する方法を発見することができるでしょう。すなわち,確かに自分は後悔しているけれども,現に選択したことを選択したがゆえにこの程度の後悔ですんでいるのであり,別の選択をしていれば,もっと大きな後悔に襲われたかもしれないというように考えることがそれです。
第38回白山大賞典。
発馬が最もよかったのはマイネルバサラでしたが,逃げなければ力が出せないグリムが外から先手を奪いました。控えたマイネルバサラが2番手。3番手にカツゲキキトキトとドンフォルティス。5番手にセンチュリオンとミツバ。7番手以下はムーンファースト,タガノヴェリテ,モズオトコマエと続いてここまでは集団。やや離れてドリームズラインが後方2番手。また少し離れて最後尾にマイネルリボーンという隊列。
スローペースから2周目の向正面でマイネルバサラがグリムに並んでいってグリムがペースアップ。ここでミツバは後退。3コーナーではマイネルバサラと3番手で追うカツゲキキトキトとドンフォルティスの差が少し広がりました。しかしコーナーを回るとマイネルバサラは一杯。追うドンフォルティスも一杯になりました。マイネルバサラを振り切る形でグリムが抜け出し,そのままレコードタイムで逃げ切って優勝。一杯になったマイネルバサラの内からカツゲキキトキト,外からコーナーでもドンフォルティスの外を回ったセンチュリオンが追い上げ,5馬身差の2着はセンチュリオン。1馬身半差の3着にカツゲキキトキト。マイネルバサラは3馬身差で4着。
優勝したグリムは前走のレパードステークスから連勝で重賞2勝目。大外枠でしたが逃げられそうなメンバー構成でしたので,力は出せると思っていました。距離は不安だったのですが,逃げられれば十分にこなせるようです。レコードが出るような馬場状態もおそらく味方したのではないでしょうか。逃げられなかったときにどうかは何ともいえませんが,能力だけでいえばもう少し上でも戦えそうな内容だったと思います。父はゼンノロブロイ。母の父はサクラバクシンオー。4代母がバーブスボールド。
騎乗した内田博幸騎手と管理している野中賢二調教師は白山大賞典初勝利。
万人に起こることは,自分にも起こると解さなければなりません。人間が何かに憧憬の念を抱くのは,現実的本性actualis essentiaから生じるのですから避けようがありません。ですが憧憬というのは,それが実現すれば消滅する感情affectusであり,同時に,それを実現するために現実化していることを喪失するなら,それが現実化しているがゆえに憧憬されることがなかったそのことが,喪失によって憧憬の対象になり得るという感情でもあるのです。何事かに憧憬の念を抱いているときに,このことをよく弁えておけば,僕たちはそれだけこの感情に支配されることが少なくなる筈です。つまりこれは,僕たちが受動感情からできるだけ多く逃れるために,有効な方法のひとつなのです。
憧憬は主に未来と関係するのですが,すでに示したように,僕たちはフラットな状態や喜びlaetitiaを感じている状態にあるときに比べると,悲しみtristitiaを感じている状態のときには現実化されていない事柄の方を高く評価しがちです。こちらは主に過去と関係するのですが,この場合も同じように受動passioからなるべく多く逃れる有効な方法を,似たような仕方で抽出することができます。
たとえば将棋を指していて,ある局面で自分が非常に劣勢に立たされている,勝つのは困難だと判断したとしましょう。そしてその少し前に,AとBという,どちらも有力に思われたふたつの指し手があり,Aの方を選択して,現状の局面に至ったと仮定します。

このときに人間は,あのときにAではなくBの方を選択していればこれほど困難な状況には至らなかったと思いがちです。これは感情としてみれば悲しみの一種であり,後悔といわれます。とくに将棋の指し手のような場合は,自分の精神mensの自由な決意によって選択されたと思われがちでしょうから,第三部諸感情の定義二七で示されている後悔そのものであるといってもいいでしょう。
これもまた,悲しみを忌避し喜びを希求するという人間の現実的本性から生じるのですから,多かれ少なかれ,一切の後悔から逃れるということは人間には不可能です。ただし,それが真verumであるかどうかは別です。現実化されていないことが喜びを齎すかどうかは不明だからです。