スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
12日に指された第2期清麗戦 挑戦者決定戦。対戦成績は上田初美女流四段が2勝,伊藤沙恵女流三段が8勝。これはNHK杯の予選を含んだものです。
振駒 で伊藤三段の先手。伊藤三段は対抗形を嫌う傾向があり,戦型は上田四段次第ではないかと思っていましたが,上田四段が居飛車を選択したため相居飛車戦になりました。
後手が7筋の歩を交換した局面。すでに後手の模様がよさそうに思えます。先手は角を何とかする必要があるので,ここで☗6五歩☖同歩☗4五歩と動いていきましたが,もしかしたらやりすぎであったかもしれません。普通に☗7六歩と我慢して息長く指すのも一案ではあったでしょう。後手は☖7四飛 と引き,先手はそこで☗7六歩と打ちました。
ここから☖7三桂☗4八飛☖8六歩☗同歩☖8五歩☗4四歩☖8六歩と,どちらも引かない攻め合いに。ここはさすがに☗8八歩と受けざるを得ませんでした。
次の☖3三角は僕には意外な一手だったのですが,2二で角の交換になるより3三でなった方がよいという判断だったのでしょう。先手が☗3六歩と突いたところで☖4三歩と打ちました。
先手はここで一旦☗6四歩☖同飛としてから☗4三歩成としたのですが,これはおそらく判断ミスで,単に☗4三歩成が優りました。というのも☖4三同金☗3三角成☖同桂☗8二角 と打ち込んだとき,☖6六歩☗同金☖同飛☗同銀☖3九角が成立することになってしまったからです。
後手玉は飛車に強い形をしていますから,ここでははっきりと後手が優勢でしょう。
上田四段が勝って挑戦者に 。清麗戦の五番勝負には初出場。第一局は来月4日です。
僕の見解opinioでは,円の定義Definitioによって概念される円の観念ideaは,円の十全な観念idea adaequataであり真の観念idea veraです。したがってそれは実在的有entia realiaです。よって,スピノザは,少なくとも円が数学の対象となる場合は,実在的有がその対象になっていると考えていると僕は思います。ただこれは僕の見解であって,このことに固執するものではありません。
もしも僕の見解が誤りで,これは円の真の観念ではないとするなら,すでにいったようにそれは理性の有entia rationisとしての円であると解するべきでしょう。理性の有は実在的有ではありませんから,その場合はスピノザは実在的有ではないものが数学の対象となることを認めていることになります。円が数学の対象にならないということはあり得ないので,これは理性の有が数学という学知scientiaの対象となることを認めるというのと同じです。したがってこの場合は,空もまた理性の有としてみられる限り,スピノザはそれを数学という学知の対象となり得ることを認めるでしょう。というか,これを認めないという理由がないように思えます。したがってバディウAlain Badiouがいう公理論的集合論,あるいはカントールGeorg Ferdinand Ludwig Philipp Cantorの数学を,学知としての数学と認めるといわなければならないでしょう。
一方,僕の見解が正しいとした場合でも,だからスピノザは公理論的集合論やカントールの数学を,学知として認めないという結論には直結しません。というのも,円なり球なりが実在的有であって,それが数学という学知の対象となっているのだとしても,だからといって一般に実在的有だけが数学の対象になるとスピノザは考えているということはできないからです。ですからこの場合にも,スピノザは公理論的集合論なりカントールの数学なりを,学知としての数学として認める可能性は残されていることになります。少なくともスピノザは,現実的に存在するものという意味でいうなら,それが数学という学知の対象ではない,そうしたものを学知としての数学は対象としなくても構わないとは考えているわけなので,空のように,単に現実的に存在しないだけでなく,神Deusの属性attributumに包容されている限りでも存在しないものも,数学の対象となり得るという可能性はあるでしょう。
青森競輪場 で行われた第11回国際自転車トラック競技支援競輪の決勝 。並びは長島‐隅田の栃木,伊早坂-山下の茨城,鈴木-朝倉の関東,蒔田‐山賀‐渡辺の南関東。
渡辺と朝倉がスタートを取りにいき,内の渡辺が確保して蒔田の前受け。4番手に鈴木,6番手に長島,8番手に伊早坂で周回。残り3周のバックを出たところから伊早坂が上がっていこうとしましたが,これを長島が牽制。その間にホームで鈴木が動き,蒔田を叩いたところで誘導が退避。伊早坂はホームの入口からまた発進していき,鈴木を叩きました。3番手に鈴木,5番手に蒔田,8番手に長島という一列棒状になると,伊早坂はそのままペースを緩めず,打鐘前からの先行になりました。ホームから蒔田が動いていきましたが,コーナーで鈴木がブロック。鈴木はそのまま発進し,バックで伊早坂を捲り切りました。後方の長島も捲り上げてきましたが,朝倉が牽制。直線では粘る鈴木を,長島マークの隅田が大外から差し切って優勝。鈴木が8分の1車輪差で2着。立て直した長島が1車輪差の3着。
優勝した栃木の隅田洋介選手はこれがグレードレース初の決勝進出での優勝。この開催はメンバー構成的にはGⅢレベルとはいえず,その中では長島と鈴木が脚力で上位。鈴木は道中でうまく動いていい位置を取ったのに対し,長島は後方に置かれてしまったため,そこがふたりの着順を分ける形に。隅田はFⅠでも大きな着順が多い選手なので,この優勝は個人的には驚きだったのですが,このレースぶりからみると,自力で戦うよりマークに徹した方がいいのではないでしょうか。
一端が固定しもう一端が運動するということが,直線の本性 essentiaや特質proprietasではないにもかかわらず,現実的に存在するある人間が,この定義Definitioによって円を認識し得るのは,その人間がそのような運動motusの観念ideaを思惟作用として認識しているからであって,たとえば直線の観念を有しているからではありません。よってこの思惟作用の原因causaは,その人間の精神mens humanaないしは知性intellectusがすべてなのであって,それ以外の別の原因を有しているわけではないのです。いい換えればこの人間の精神あるいは知性は,この人間の精神ないしは知性のうちに生じる円の観念の,この場合は十全な原因causa adaequataなのであって,部分的原因causa partialisではありません。よってこの様式でこの人間が円を認識するcognoscereとき,この人間は円を能動的に認識しているということになるのであって,この円の観念は十全な観念idea adaequataであるということになります。
僕はこの解釈を採用するので,円の定義によって知性が概念するconcipere円の観念は,円の十全な観念であるといいます。そして十全な観念である限り,それは真の観念idea veraでもあるのでなければなりません。したがって第一部公理六 により,それは観念の対象 ideatum,この場合でいうなら延長の属性Extensionis attributumの中に包容されている限りでの円と一致するでしょう。ただし僕はこれを,円を認識する知性の能動actioであるから真の観念であるといっているのであって,観念されている円と一致しているから真の観念であるといっているのではありません。真verumであるか偽falsitasであるかは,それを認識する知性の能動であるか受動passioであるかによってもっぱら決定されるというのが僕の見解opinioなのであって,能動であるなら観念対象と一致するということも同時に帰結すると考えているのです。これは正確性を欠くいい方ではありますが,もっと分かりやすくいうとすれば,もし僕たちが何事かを能動的に認識するならば,結果として認識された観念は観念されたものと一致することになるのであって,逆に僕たちが何であれ何かを受動的に認識した場合には,結果としてその観念は観念されたものとは一致しないことになるというように,僕は考えているのです。これは分かりやすくいったまでで,そこに因果関係を認めているわけではありません。
9日に指された第31期女流王位戦 五番勝負第二局。
加藤桃子女流三段の先手で里見香奈女流王位のごきげん中飛車 。⑤の類型から先手の居飛車穴熊になりました。
後手が仕掛けた局面。先手に☗7九銀右と指される前に仕掛けるのは有力な作戦でしょう。相場は☗2六飛ですが先手は攻め合いに出ました。
まず☗2四歩と突き捨てます。後手は☖同角と応じました。次に☗6五歩。これには☖同桂でした。これは後で取られてしまう可能性がありますから,強い応手といえそうです。先手も角が下がれる状況になっていないので☗8六角の一手。☖3六歩が実現したところで☗2四飛☖同歩と角を取り,☗4二角と打ちました。後手は当然☖3七歩成。
ここは先手の岐路で,☗5一角成と☗6四角上があります。選択されたのは後者で,これがやりたかったという感想が残されています。将棋ではやってみたいことをやるというのも大事なことかと思いますので,これについては善悪を問うても無意味でしょう。
合駒をする手もありそうですが☖同金とここも強く応じ☗同角成に☖7三角と打ちました。☗4二馬に☖6三銀は必要な一手のようです。先手はそこで☗7五歩☖同歩☗同馬と進めたのですが,☖6四歩 ☗7四歩☖8四角☗7六金☖7五角☗同金と馬を消され☖7六桂と打たれました。
第3図となっては先手がかなり苦しそうです。第2図から第3図の間で,馬が行ったり来たりしている間に何か別の手段があるのでなければならなかったのではないでしょうか。
里見王位が連勝 。第三局は17日です。
第三部定理三 は,人間の精神の能動 actio Mentisは十全な観念idea adaequataからのみ生じ,精神の受動passioは混乱した観念idea inadaequataのみから生じるといっています。したがって,人間の精神mens humanaが能動という状態,いい換えれば働いている状態にあるときには,その人間は事物を十全に認識します。これに対して人間の精神が受動という状態,いい換えれば働きを受けている状態にあるときは,その人間は事物を混乱して認識するcognoscereのです。なお,ここではこの定理Propositioに合わせて精神の能動といういい方をしましたが,スピノザの哲学では能動と受動は精神にあっても身体corpusにあっても一律ですから,単に人間の能動といっても同じことです。ただ,思惟作用は知性intellectusあるいは精神による作用なので,ここでは精神の能動といわれていると解しておいてください。
人間の精神が能動という状態にあるとき,どのようなことが生じているのか,また人間の精神が受動という状態にあるとき,どのようなことが生じているのかといえば,それは第三部定義二 に示されている通りです。すなわち,ある人間の精神が十全な原因causa adaequataとなって何かを認識するなら,その人間の精神はその何かを能動的に認識しているのです。これに対して,ある人間の精神が部分的原因causa partialisとして何かを認識している場合には,この人間はその何かを混乱して認識しているのです。いい換えれば,もしある人間の精神が十全な原因となってあることを認識するなら,その人間はそのことを十全に認識します。これに対してある人間の精神が部分的原因として何事かを認識するなら,その人間はその何事かを混乱して認識するのです。これが事柄を真に認識するのか誤って認識するかの判断基準となります。すなわち,ある事柄の認識に対して,それを認識している精神ないしは知性が,十全な原因であるのか部分的原因であるのかということが,真理veritasの認識cognitioについての判定の規準となるのです。
一端が固定し一端が運動する直線によって形成される図形という円の定義Definitioによって,現実的に存在するある人間の知性が,この円を認識したとしましょう。このとき,この知性は円の観念に対して十全な原因です。なぜならこの直線の運動motusは,現実的に行われているわけではないからです。
8日に指された第91期棋聖戦 五番勝負第一局。対戦成績は渡辺明棋聖 が0勝,藤井聡太七段が1勝。
振駒 で藤井七段の先手となり,相矢倉 の脇システム。後手の渡辺棋聖が,自身が先手で指した将棋の後手番に,一工夫を入れる将棋に。何らかの研究があったものと推測します。
先手が3八の飛車を寄った局面。ここは端を受けなければなりません。直接的には☖1一香か☖1二香で,先手はその変化を読んでいたようです。しかし☖5七歩と打ちました。これは先手の読みになかったそうです。
☗同角と取って☖4六金の飛車角両取り。☗1三飛成☖同王☗4六角と進みました。さすがに☖4六金を見落とすとは考えられないので,☖5七歩と打たれたときにこう進めるほかないと判断したのだと思います。この順で飛車を取られて苦しくなったと思っていたようですが,実際はこれで先手がよいようです。妙ないい方ですが寄せ合いに進めるほかなくなった分,将棋の決着が早くなったという見方もできそうです。
☖2二王に☗1四桂と迫り,☖2一王に☗1二歩と打ちました。
ここで後手は☖8六香と打って☗8七香☖同香成☗同金として☖1八飛。先手が☗6八金 と受けたところで☖3一王と逃げました。
ここから☗7五香と打ち☖同銀としてから☗1三角成としたのはうまい手順だったと思います。後手は☖4二王と逃げるのが普通でしょうが,それでは手数が伸びるだけだと判断し,☖2二銀という受けの勝負手を繰り出しました。これには☗同桂成☖同金。
後手は☗3三金と打たれて負けと思っていたようですが,☗3三銀だったのでもう一勝負になりました。☖1三飛成 ☗4二金☖2一王☗2二銀不成☖同王☗3二金打☖1二王まで進めて☗7五銀と銀を補充。
ここで☖6五香は小ミスで,☖6七歩が優ったようですが,これは同じ手順で進むならという前提です。実際は先手が受けに回り,詰めろを続けるのは難しいのではないでしょうか。先手は☗1四歩と叩き☖同龍に☗2二銀と詰めろを掛けました。
必至ではないので☖1三歩で受かるのですが,これは一時的なもので先手が攻めきれるそうです。後手は第3図から先手玉を詰ましにいきましたが,3七の桂馬や第3図の直前に打った金銀も働く形で詰みを逃れました。これは将棋を作品としてみた場合には傑作に値する一局だったと思います。
藤井七段が先勝 。第二局は28日です、
観念ideaの形相的有esse formaleの原因causaが,思惟の属性Cogitationis attributumであって観念の対象ideatumではないとするなら,何であれ観念について判定するときには,思惟の属性に依拠して判定するべきであり,観念されたものideatumによって判定するべきではないということになります。第一部公理四 によって,結果effectusの認識cognitioは原因の認識に依存しなければならないからです。よって,ある観念について,それが真verumであるか偽falsitasであるかを判定する際にも,それは思惟の属性に基づいて判定されなければならず,観念の対象によって判定されてはならないと僕は考えます。第一部公理六 は,真の観念 idea veraが観念されたものと一致するということをいっていますが,だからといって観念が真であることを判定するために,観念の対象と一致しているかいないかをその判定の規準としてはならないのです。
では,思惟の属性を規準とした真理 veritasの判定というのはいかなるものでしょうか。これは『エチカ』ではふたつの仕方で示されています。ひとつは第二部定理四〇 です。すなわち原因となっている観念が十全な観念 idea adaequataであれば,結果として生じる観念もまた十全な観念なのです。スピノザの哲学では,観念がその本来的特徴 denominatio intrinsecaからみられる場合には十全な観念ないしは混乱した観念idea inadaequataといわれ,その外来的特徴denominatio extrinsecaからみられるなら,真の観念ないしは誤った観念idea falsaといわれます。よって,原因となっている観念が十全な観念であれば,結果として生じる観念も十全な観念であるというのは,原因が真の観念であるなら結果も真の観念であるというのと同じ意味です。
ただしこの判定の規準は,ひとつだけ問題点を抱えています。結果として生じる観念が十全な観念であるということを判定するために,原因である観念が十全な観念であるか混乱した観念であるかを判定しなければならないのなら,その原因となっている観念が十全な観念であるか混乱した観念であるかということをいかにして判定すればよいのかということが問題として残ってしまうからです。そこでこれを回避するために,もうひとつの別の規準を示しましょう。それが第三部定理三 です。この定理Propositioから,僕たちの精神mensが十全な観念を認識するcognoscereために必要な条件を理解することができます。
昨晩の第56回関東オークス 。
発走後の向正面ではレーヌブランシュとアールクインダムが並んで前に。3番手集団にルイドフィーネ,ミステリーベルン,アクアリーブル,クリスティの4頭。7番手にバブルガムダンサーとセラン。9番手にレイチェルウーズ。ここから概ね2馬身くらいの間隔で,テーオーブルベリー,ミナミン,ノラ,コエミ,ミリミリと続きました。川崎の2100mは発馬後の直線が長いため,一時的に差が大きく開くことが多いのですが,このレースはそれほどでもありませんでした。正面に入ってアールクインダムが単独で逃げる形になり,2番手にレーヌブランシュとアクアリーブル。4番手にルイドフィーネとクリスティ。6番手にミステリーベルンの順に。さらに2周目の向正面に入るところではアクアリーブルが単独の2番手となり,3番手にレーヌブランシュ,クリスティ,セラン。6番手にルイドフィーネとミステリーベルンという順に。後方からテーオーブルベリーが外を進出していきましたが,これはレースの大勢には影響を与えませんでした。ミドルペース。
アクアリーブルは3コーナーを回ってからアールクインダムに並び掛けていき,直線の入口では外から前に出ました。これをマークするように上がってきたのがレーヌブランシュで,直線は2頭の競り合いに。レーヌブランシュの余力が優り,楽に差し切って優勝。アクアリーブルが1馬身半差で4着。レーヌブランシュが進出していったときについていくことができずに離されてしまったクリスティが4馬身差の3着。
優勝したレーヌブランシュ は重賞初挑戦での勝利。新馬,特別と連勝した後,オープンでは10着と5着。ただ10着に負けたレースが1600mで,あとの3戦が1800mでしたので,距離の延長はプラスに出そうでした。JRAから出走した馬の中ではダートでは実績が最も上で,地方で実績最上位のアクアリーブルをマークして差し切ったのですから,結果的には能力的に順当な勝利だったといえそうです。レース全体のレベルは微妙ですが,勝ちタイムは悪くないので,評価するのに難しい面が残ります。父はクロフネ 。母の父はアグネスタキオン 。母の5つ上の半姉に2007年にファンタジーステークスを勝ったオディール 。Reine Blancheはフランス語で白い女王。
騎乗した松山弘平騎手と管理している橋口慎介調教師は関東オークス初勝利。
スピノザの哲学では,真理 veritasというのは真の観念idea veraの総体のことを意味すると僕は解しています。観念というのは思惟の様態cogitandi modiですから,真の観念の総体が真理であるなら,真理もまた思惟の様態でなければなりません。いい換えれば,真理というのは知性intellectusを離れて形相的にformaliter存在するものではないことになります。つまり,真理というのは知性の外に実在する事物,僕たちが認識するcognoscereそうした事物はすべからく物体corpusですが,真理は物体のうちに属するものではないのです。よってたとえば円の真理というのは,存在する,これは神Deusの延長の属性Extensionis attributumの中に包容されて存在するのであれ,現実的にあの円とかこの円といわれる限りで存在するのであれ,円そのもののうちにあるのではなく,この円の観念のうちにあると僕は解します。
これはこれで僕の解釈なのであって,これを強硬に主張するものではありません。どんな事物であれ,その事物が実在的realiterであるならその事物には形相的本性essentia formalisがあります。形相的本性というのを,僕は認識cognitioの対象になるという意味での事物の本性と解します。そして,ある事物の形相的本性を何らかの知性が正しく認識すれば,この知性はその事物の真の観念を有していることになります。したがって僕が形相的本性といっているところのものを,知性を離れた事物に属するものとしての真理であるというように解釈したとしても,僕の見解opinioについて大きな誤りを犯していることにはなりません。ただ,僕はそれを強硬に主張はしないとしても,真理は思惟の様態であると解釈しているということは理解しておいてください。これが,円の定義Definitioによって知性が円を認識するなら,それは円の真の観念であるという見解と大きく関係してくるからです。
第二部定理五 では,観念の形相的有esse formaleの原因causaは思惟の属性Cogitationis attributumであるといわれています。この定理Propositioの意味として重きを置かなければならないのは,単に観念の形相的有の原因が思惟の属性であるということよりは,観念の形相的有の原因は観念されたものideatumではないということです。つまり,円の観念,真の観念であれ誤った観念idea falsaであれ,その原因は思惟の属性なのであって,知性の外に実在するものとしての円ではないのです。
5日に指された第31期女流王位戦 五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流王位が15勝,加藤桃子女流三段が6勝。
振駒 で里見王位の先手となり5筋位取り中飛車。後手の加藤三段は居飛車穴熊 に。後手の8筋突き捨てで得た歩を生かして先手がすぐに端攻め に出る展開。さすがに無理な攻めなのではないかと思ったのですが,そうでもありませんでした。
先手が歩を垂らした局面。後手はこれを放置して攻め合いにいきました。その判断は間違っていなかったのですが,手順に瑕疵があったようです。
まず☖4六歩 と打ち☗3七金と寄らせます。これは先手玉を狭くするので有効な一手。問題は次に☖3三桂と跳ねた手。これも後手玉を広くしているのですが,あっさり☗同桂成☖同銀左と交換されて☗2六桂と香取りに打たれました。
これで香車が助からない形。先手玉を狭くした後手としては,端から逆襲したいのですが,香車を取られるとそれが難しくなります。なので桂馬は交換せず,すぐに☖1六歩から攻め合いにいくべきだったということになるでしょう。第2図以下は後手が盛り返すことができなかったように思います。
里見王位が先勝 。第二局は9日に指されました。
スピノザが示す円の定義 Definitioによって人間の知性intellectusが認識するcognoscere円が,円の真の観念idea veraであるとする場合に注意しておかなければならないのは次の点になります。
何度もいっているように,この円の定義に示される形で,神Deusの延長の属性Extensionis attributumの中に包容される限りでの円が発生するとは限りません。ここではそのようには発生しない場合のことを検討しています。したがって,この円の真の観念は,円の発生についてはそれを正確に表現しているわけではないことになります。ところが第一部公理六 は,真の観念が観念されたものideatumと一致するといっています。したがって,もしある観念がその観念の対象ideatumの発生についてはそれを正しく表現していないとしても,その観念は観念の対象と一致している場合があり得るということを肯定しなければなりません。いい換えれば第一部公理六で一致するといわれているときの一致は,発生の一致を含まないと解する必要があります。もしも第二部定理七 に照合させる形で第一部公理六を解釈すると,それは発生を正しく表現するexprimereことを含まないということはできません。つまり,第一部公理六を理解するために,第二部定理七を援用することはできないということになるのです。
円の定義によって認識される円の観念が,真の観念であるということもできるし,それは円の真の観念ではなく,理性の有entia rationisにすぎないということもできることは分かりました。そしてどちらの解釈にも正当性があり,また弱点もあるということも分かりました。僕はどちらの解釈も論理的に正当性を有すると思いますので,どちらの解釈を採用するべきであるのかということについては結論は出しません。どのように解するのかということは各々の解釈者の判断に委ねます。ただ僕の見解opinioとその理由についてはここで示しておきます。
まず結論からいうと,僕は円の定義によって認識されるのは円の真の観念であるという解釈を採用します。これは,スピノザの哲学において,ある事柄が真理veritasであるということを決定する要素は何であるのかということと関連します。これも何度かいったことがありますが,僕は事物の真理というのは認識されるものであるという立場なのです。
久留米記念の決勝 。並びは山本‐岩津の岡山,松浦‐清水の中国,阿竹‐香川の四国,中川‐坂本の九州で野田は単騎。
岩津がスタートを取って山本の前受け。3番手に中川,5番手に松浦,7番手に阿竹,最後尾に野田で周回。残り3周のバックの出口で阿竹が上昇開始。野田も続き,野田の後ろに松浦がスイッチ。残り2周のホーム,誘導が退避するところで一旦は阿竹が山本の前に出ましたが,山本が突っ張り,バックで先頭を奪い返しました。岩津は離れてしまったのですが,外から追い上げ,山本の番手に入り直して打鐘。3番手に阿竹,5番手に野田,6番手に中川,8番手に松浦という一列棒状に。松浦はすぐに発進。ホームで山本を叩いてかまし先行に。バックでは3番手以下が離れてしまいました。清水は車間を開けて余裕の構え。直線に入ってから踏み込むと松浦を差して優勝。逃げた松浦が半車身差の2着で中国ラインのワンツー。山本の番手の岩津が1車身半差で3着。
優勝した山口の清水裕友選手は2月の全日本選抜競輪 以来の優勝。記念競輪は1月の立川記念 以来の5勝目。久留米記念は初優勝。このレースは松浦と清水の脚力がほかに対して上位。そのふたりの連携になりましたから,どちらかの優勝となることが濃厚。かましとはいえ松浦の先行になりましたから,清水には有利になりました。3番手以下が離れてしまいましたから清水にとってはとくに楽だったでしょう。競輪は選手の移動を少なくするため,ビッグ以外は近隣の地区の選手のみの参加になりました。普段はラインを組んでいる選手たちが戦うようになるので,もしかしたら今日のような単調なレースが増えるかもしれません。
第二部定理一一系 では,人間の精神は神の無限知性の一部であるMentem humanam partem esse infiniti intellectus Deiといわれています。第二部定理一五 では,人間の精神の形相的有esse formaleはきわめて多くの観念ideaによって組織されているといわれていますが,スピノザは第二部定義七 で,多数の個物res singularesによって組織されるひとつの個物があることを認めていますから,人間の精神をひとつの個物としてみることは可能です。いうまでもなく人間の精神は思惟の様態cogitandi modiですから,それは思惟の属性Cogitationis attributumの個物,いい換えれば個物の観念です。この観念の対象ideatumは,第二部定理一三 により,その人間の身体humanum corpusです。
そこでAという人間がいて,Aの精神が十全な原因causa adaequataとなり,Aの精神のうちにXの観念が生じると仮定してみましょう。人間の知性が円の定義Definitioによって円を概念するconcipereというのは,その具体的な例に該当します。Aの精神は神の無限知性の一部なので,この事象は,Aの精神の本性naturaを構成する限りでの神あるいは神の思惟の属性が十全な原因となって,Aの精神の本性を構成する限りでの神あるいは神の思惟の属性のうちにXの観念が生じると説明されなければなりません。Aの精神が神の無限知性の一部である以上は,Aの精神のうちにあるXの観念もまた神の無限知性の一部であるのは当然です。したがって,Aの精神のうちにこの様式で生じるXの観念は,神の無限知性のうちにあるXの観念と同じであることになります。よって第二部定理三二 により,このXの観念は真の観念 idea veraであることになるでしょう。無限知性のうちにある場合は真の観念で,同じものが人間の精神のうちにある場合は真の観念ではないというのは不条理だからです。
Aの精神というのは,Aによって真に認識されることはありません。これは第二部定理二三 と第二部定理二九 から明らかです。人間は第三種の認識 cognitio tertii generisをなす場合に,第五部定理二三 にいわれる「あるもの aliquid」としてそれを認識するcognoscereのが限界です。しかし,人間の精神が神の無限知性の一部である以上は,その真の観念は神の無限知性のうちにあります。このことに注意するなら,Xの観念が真の観念であることは,スピノザが第二部定理四〇 の証明 Demonstratioでいっていることから明らかだといわなければならないでしょう。
4日に指された第91期棋聖戦 挑戦者決定戦。永瀬拓矢二冠と藤井聡太七段は公式戦では初対局。
振駒で永瀬二冠の先手となり相掛かり 。どうも先手の研究通りの進展だったようですが,後手の藤井七段もうまく対応したようで,差がつかないまま戦いが続きました。
第1図は後手が歩を打った局面。8三の歩を突いたというなら,玉の逃げ道を広げるという意味で分からなくもないですが,ここに歩を打つというのは発想として新鮮に感じました。たとえば先手が桂馬を持っていて,相手の打ちたいところに打てというのでも理解はできますが,そういうわけでもないからです。
ただし後手はこの後の先手からの攻めは軽視していたようです。それが☗6五桂と跳ねる手。5三の地点は受からないので☖同金☗5三角成☖7二玉は仕方ありません。先手も歩しかありませんから2枚の馬をうまく使っていかなければならず,☗4三馬引と指して金取り。これも☖6四金と引くのは仕方ないところ。そこで☗4四馬引として2枚の馬を使いにいきました。後手は☖8三玉の早逃げ。
第2図で☗2六馬と桂馬を補充したのがミス。☖8九飛☗7八玉☖9九飛成 と進んで一気に後手の勝勢になりました。第2図は先手も☗7八玉と先に上がっておかなければいけなかったようです。
藤井七段が勝って挑戦者に 。デビューから3年半でタイトル戦初出場を決めました。第一局は今日です。
第一部公理六 で,真の観念 idea veraが観念されたものideatumと一致するといわれているとき,一致というのを第二部定理七 に照合させて解釈するなら,真の観念の原因 causaと結果effectusの連結connexioと秩序ordoは,観念の対象ideatumの原因と結果の連結と秩序に一致していなければならないことになります。したがってもし,延長の属性Extensionis attributumに包容されている限りで存在する円が,一端が固定し一端が運動する直線によって発生するのでなければ,他面からいえば,この直線の運動motusが原因となって円が結果として生じるのでなければ,円の定義Definitioによって知性intellectusが認識するcognoscere円の観念は,円の真の観念であるといえないことになります。よってこの場合はスピノザが,定義されるものが知性によって認識されることに資すればそれはよい定義であるというとき,知性が認識するのは定義されるものの真の観念でなくて構わないといっているということになります。
ただしここで注意したいのは,真の観念でないということと,誤った観念idea falsaであるということが,この場合には等置できないであろうということです。この場合には定義されるものが理性の有entia rationisとして知性に認識されればよいのであって,それは知性を離れた形相的有esse formaleとして存在しなくても構わないとスピノザはいっていると解しておく方が適切でしょう。理性の有というのはその理性の有の対象が外部に,いい換えれば思惟の属性Cogitationis attributumの外部には存在しないがゆえに,実在的有ではありません。つまりスピノザは,ある種の事物は実在的有として認識されるのでなくても構わない,要するに実在的有として認識されなくても学知scientiaの対象とはなり得るといっていることになります。事物の定義というのは,少なくとも公理論の中においては,学知の対象となるべきものとして定義されるのが普通で,そうでなければそれが非実在的であることをいうために定義されることになるのですから,定義されるものが実在的有として認識されるのでなくても構わないというなら,そうしたものが学知の対象となるということも同時に是認しなければならないと僕は考えます。
しかし,これとは違って,円の定義によって概念される観念は,円の真の観念であるという見方もできると僕は思います。
第70回安田記念 。
クルーガーが立ち上がって1馬身の不利。外からダノンスマッシュがハナへ。2番手にミスターメロディ。3番手にダノンプレミアム,アドマイヤマーズ,セイウンコウセイの3頭。6番手にダノンキングリーとヴァンドギャルドでこの7頭は一団。2馬身差でグランアレグリア。1馬身差でインディチャンプ。1馬身差でアーモンドアイとペルシアンナイトでこの4頭も一団。2馬身差でノームコアとケイアイノーテック。3馬身差の最後尾にクルーガー。前半の800mは45秒7のミドルペース。
直線の入口ではダノンスマッシュがまだ先頭。外の2番手にミスターメロディという隊列でしたが,早めに動いてその外に出てきたグランアレグリアの抜ける脚が早く,一気に先頭に立つとそのまま抜け出して快勝。2着は内を回ってグランアレグリアが抜け出た後でその外へ出てきたインディチャンプと,外目を追い上げたアーモンドアイ,そして後方から大外を強襲したノームコアの3頭の争い。中のアーモンドアイが競り合いを制して2馬身半差で2着。アーモンドアイに競り負けたインディチャンプが半馬身差の3着で大外のノームコアがクビ差で4着。
優勝したグランアレグリア は阪神カップ以来の勝利。大レースは昨年の桜花賞 以来の2勝目。桜花賞後のレースぶりからはスプリント戦の方がよいのではないかと思えたので,個人的には軽視していました。今日も抜け出たときの脚はスプリンターのそれだったと感じますが,2着以下を占めた力量上位の相手にこれだけの快勝をするのですから,この距離でも高い能力を有していたと考え直さなければなりません。完成しているわけではなく,まだ成長の途上であるようにも思えます。父はディープインパクト 。Gran Alegriaはスペイン語で大喜び。
管理している藤沢和雄調教師はスプリンターズステークス 以来の大レース制覇。第47回,48回の連覇以来となる22年ぶりの安田記念3勝目。騎乗した池添謙一騎手はマイルチャンピオンシップ 以来の大レース26勝目。安田記念は初勝利。
第一部公理六 では,観念の対象 ideatumと一致する観念ideaが真の観念idea veraであるといわれています。スピノザによる円の定義Definitioによって知性intellectusが円を概念したとき,概念された円の観念は,この意味における真の観念なのでしょうか。もう少し正確にいえば,それは延長の属性Extensionis attributumの中に包容されている限りで存在する円と一致する観念なのでしょうか。
僕は,延長の属性の中に包容される限りでの円が,スピノザの円の定義と同様の仕方で発生する可能性を,全面的に否定しているわけではありません。そこでもしそれが同様の仕方であるなら,円の観念が真の観念であることは当然です。なのでこの場合については考える必要がありません。ただ,直線はそれ自体で運動するわけではないということ,いい換えれば円の定義にあるような直線の運動motusは,直線の本性essentiaや特質proprietasではないのであって,それを概念するconcipere知性を十全な原因causa adaequataとした任意の思惟作用であることは事実なので,実際に延長の属性の中に包容される限りでの円が発生する場合と異なっている可能性も残るわけです。僕が考えたいのはこの場合です。
この場合,円の観念を真の観念であるといい得るとも思えますし,いい得ないとも思えるのです。というのは,『エチカ』にはどちらにも解釈することができる余地があると僕には思えるからです。それぞれの場合を示していきましょう。
第二部定理七 で,観念といわれているのは真の観念のことであり,ものrerumといわれているのは観念されたものideatumのことです。スピノザはこの定理Propositioの証明Demonstratioでは,第一部公理四 だけを援用しています。この公理Axiomaでいわれている認識cognitioというのを,真の観念と解してみましょう。第二部公理三 は,思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものは観念であることを示していて,認識は思惟作用ですから,この解し方に無理はありません。すると,結果effectusの真の観念は原因causaの真の観念に依存するということになります。これを援用して第二部定理七が証明できるのは,観念されたものの原因と結果の秩序ordoと連結connexioに,観念の原因と結果の秩序と連結が一致しているからだということになるでしょう。実際にこの定理は平行論の基礎になるのですから,この解釈が正当であるのは間違いありません。
3日に指された第13期マイナビ女子オープン 五番勝負第五局。
振駒 で西山朋佳女王の先手。後手の加藤桃子女流三段の居飛車穴熊に先手の銀冠という持久戦。互いに前の指し手がよくなかったことを認めるような手が出ていましたが,よい辛抱だったようで,差がつかない中盤戦が続きました。命運を分けたのは次のところだったように思います。
先手が中央の歩を突き出した局面。ここで後手は☖5六歩と打ち☗同金に☖8六歩☗同歩☖7五角という攻め合いを選択しました。
これには☗8八飛が振飛車の常套手段。後手は☖6七歩と垂らし☗7六歩に☖5五歩と打ったものの☗6六金と寄られて☖4二角と引くことに。先手は☗6四歩と打ちました。
第2図となって後手は飛車角を共に押さえ込まれてしまった上に,実戦でも出現した☗5三歩成☖同角☗6三歩成を受ける手段もなく,一気に非勢に転落しました。第1図で☖5二歩と受けるのは屈服のようですが,それで先手から何か有力な攻めがあったわけではありません。また攻めるのなら玉頭方面に手を付ける方が優ったでしょう。
3勝2敗で西山女王の防衛 。第11期 ,12期 に続く三連覇で通算3期目の女王です。
直線は,それ自体で一端が固定しもう一端が運動motusをするわけではありません。いい換えれば,このことは直線の本性essentiaに含まれているわけではありませんし,直線の特質proprietasであるというわけでもありません。このゆえに,一端が固定しもう一端が運動する直線というのを,円とは何ら関連付けずに知性intellectusが認識するcognoscereならば,これはこの知性が直線を表象している,知覚しているか想起しているかそれとも想像しているのかは場合によって異なるでしょうが,いずれにしても表象しているのであって,これは直線についてもあるいは直線の運動についても表象像imagoにすぎません。つまり混乱した観念idea inadaequataなのであって,十全な観念idea adaequataではないのです。知性はこれを能動的に認識する,いい換えればその知性が十全な原因causa adaequataとなってこの条件付けられた直線の運動を認識するがゆえに,その知性は円を十全に認識することができるのです。知性が定義されたものを概念するconcipereのに資するというスピノザによる定義Definitioの条件は,このような知性の作用を前提としているのです。
したがって,直線は円や球がそうであるように,物体corpusとして延長の属性Extensionis attributumの中に包容されている限りで存在するでしょう。このことを否定することはできないと僕は考えます。ですが,円の定義に条件付けられた直線の運動というのは,直線の本性でも特質でもないのですから,延長の属性の中に包容されて存在する限りでの直線がそのような運動をなすということはあり得ないといってもおかしくはないのです。ですから,延長の属性の中に包容される限りで存在する限りでの円が,どのような原因causaによって発生しているのかということは,少なくとも人間の知性によっては認識され得ないのではないかと僕には思えるのです。認識され得ないだけなので,実際に円の定義にあるような仕方で発生するという可能性を完全に否定するものではありませんが,そうでない場合もあり得るということは考えておかなければならないでしょう。
よって,スピノザによる円の定義が,延長の属性の中に包容されて存在する限りでの円の発生を含んでいない可能性は残っていることになります。そこでもしそうであった場合のことを検討していきます。
昨晩の第24回北海道スプリントカップ 。ジョウランが出走取消で14頭。
ノボバカラは発馬後の加速が鈍く1馬身の不利。スピード能力の違いでマテラスカイが楽にハナへ。2番手にハヤブサマカオーとスズカコーズライン。4番手にオールドベイリーとキタアルプスとメイショウアイアン。7番手にスティンライクビー。1馬身差でニットウスバル。1馬身差でフジノパンサー。1馬身差でショームとノボバカラ。1馬身差でソルサリエンテ。1馬身差でガンジーと13頭は集団。2馬身差の最後尾にツルマルパラダイス。前半の600mは34秒8のハイペース。
マテラスカイはリードを2馬身ほどに広げて直線に。そのまま逃げ込みを図りましたが,スズカコーズラインとメイショウアイアンが併せ馬のように追い上げてきて,3頭がほぼ横一線でフィニッシュ。優勝は大外のメイショウアイアン。マテラスカイとスズカコーズラインがハナ差で2着同着という大接戦の決着でした。
優勝したメイショウアイアン は重賞初勝利。このレースはマテラスカイの能力が上位なのですが,これまでの戦績からも分かるように,タイムが早くなるダートを得意としているため,門別のコースは合わないだろうと思えました。メイショウアイアンはすでに10歳なのですが,門別の1200mはきわめて堅実に走っているので,能力は下でも,馬場適性の差を生かせばチャンスはあるとみていました。まさにそういう結果になったといえるでしょう。北海道の馬がこのレースを勝ったのは20年ぶりですが,そのときの勝ち馬も高齢の12歳馬だったというのは覚えておきたいところです。父はマヤノトップガン 。
騎乗した北海道の落合玄太騎手はデビューから2年2ヶ月で重賞初勝利。管理している北海道の田中淳司調教師はエーデルワイス賞 以来の重賞5勝目。北海道スプリントカップは初勝利。
現実的に存在する事物がある学知scientiaの対象とはならないということが,実在的なものが学知の対象とならないという意味でないことは確かです。ただ,スピノザが定義する円なり球なりが,実在的realiterであるといえるかどうかにはさらなる検証が必要です。どちらで考えても同じですから,ここでは円について考えてみましょう。
スピノザによる円の定義Definitioは,一端が固定しもう一端が運動する直線によって作成される図形でした。スピノザは,この円の定義が,現実的に存在する円を正確に表していないということは認めていました。これは,現実的に存在する物体corpusとしての円のすべてが,円の定義と同じように物体として発生するわけではないからでした。したがって,この円の定義によって概念される円は,たとえば現実的に存在するあの円とかこの円といわれるような円ではないことになります。よってこの円というのが実在的であるためには,その円が延長の属性Extensionis attributumの中に包容されている限りで存在する円でなければならないことになります。
一方,スピノザがこの円の定義が,現実的に存在する円を十全に表現しているわけではないと認めている理由からして,もしこの定義によって概念される円が,観念対象ideatumとなっている円を十全に表現しているというなら,その円は円の定義にあるのと一致する仕方で,延長の属性の中に発生するというのでなければなりません。これは,円の定義によって概念される円が円の真の観念idea veraといわれるなら,第一部公理六 からも明らかだといわなければならないことになります。ところが,延長の属性の中に包容されている限りで存在する円が,本当に円の定義にあるような仕方で延長の属性のうちに発生するといえるのかどうかは分かりません。それどころか,僕にはこれをいうのは難しいのではないかと思えます。
スピノザによる円の定義は,円が知性 intellectusによって概念されるのに資する定義なのであって,もしそれが真の観念であるとか十全な観念idea adaequataであるといわれるのなら,円についての真の観念であり十全な観念です。これは当然のことでしょう。そしてそれは,直線のあるいは直線の運動motusの真の観念なり十全な観念ではないということです。
昨晩の第66回東京ダービー 。ブラヴールが右の後ろ脚の蹄の底の内出血のため競走除外。リヴェールブリスは馬場入場後に左の前脚の痛みで歩行のバランスを欠いたため競走除外となり14頭。
かなり押してファルコンウィングが先手を奪いきりました。リードは2馬身。2番手にウタマロ。発馬がよく先手も奪えそうだったエメリミットは控え,ボンモマンと並んで3番手。5番手のコバルトウィングまでの4頭は一団。4馬身差でティーズダンクとアマルインジャズ。1馬身差でマンガンとゴールドホイヤー。1馬身差でチョウライリン。1馬身差でモンゲートラオとマンジュシャカ。1馬身差でブリッグオドーン。1馬身差の最後尾にデスティネでこの9頭も一団。前半の1000mは62秒1のハイペース。
3コーナーを回るとコバルトウィングがウタマロの外に並び掛けていき,単独の3番手に。大外から勢いよく捲り上げてきたのがティーズダンク。直線に入るとコーナーでは内を回っていたエメリミットが伸び,中を割ってきたマンガン,捲ってきたティーズダンク,さらに後方から追い込んできたブリッグオドーンの4頭の争い。このうち抜け出したのはエメリミットとマンガンで,最後は2頭の競り合い。先んじていたエメリミットが凌いで優勝。マンガンがクビ差で2着。ティーズダンクが2馬身差の3着でブリッグオドーンがクビ差で4着。
優勝したエメリミット はこれが6勝目で南関東重賞初制覇。クラウンカップは4着,東京湾カップは2着でしたが,内容的には強い競馬でしたので,力があることは分かっていました。ただ,雲取賞や京浜盃,羽田盃を使っていた馬たちとは差があるとみていたので,この結果は個人的には意外でした。2着馬とはいい勝負を続けていたので,自身の力量を出しての結果だったのではないかと思います。距離が伸びたことが,主力路線の馬たちよりプラスに作用したのかもしれませんし,あるいは別路線組の方が能力的に上だったという可能性もあるでしょう。数多くのレースを使っていますので,この後の成長力については少しばかりの不安も残ります。父はシンボリクリスエス 。母の父はキングカメハメハ 。馬名の表記はAime Limite。イタリア語でLimiteが限界。
騎乗した船橋の山口達弥騎手はデビューから16年2ヶ月で南関東重賞初制覇。管理している船橋の林正人調教師は第59回 以来7年ぶりの東京ダービー2勝目。
ここで注意しておかなければならないのは,スピノザの哲学の場合は,現実的に存在する事物が考察の対象にならないということと,実在的なものが考察の対象にならないということは,別のことであるということです。もし実在的な事物が考察の対象とならない何らかの学知scientiaが存在するとすれば,その学知は非実在的なものを対象とすることになります。事物は実在的realiterであるか非実在的であるかのどちらかでしかないのですから,これはきわめて当然のことといえるでしょう。したがって,現実的に存在する事物が考察の対象とならないということが,スピノザの哲学においては,直ちに非実在的なものが考察の対象となるということを意味するわけではないのです。
これはスピノザが,事物が実在するということを二様の仕方で解しているからです。これを最もよく表しているのは第二部定理八系 です。すなわち事物は,神 Deusの属性attributumの中に包容されている限りで存在するといわれる場合と,時間的に持続するdurareといわれる限りで存在する場合の,ふたつの仕方で存在することが可能なのです。そして当然ながらどちらの場合も存在するのですから,どちらも実在的であるといわれなければならないことになります。このうち,事物が現実的に存在するといわれるのは,時間的に持続するといわれる限りで存在する場合に該当します。したがって,ある学知が時間的に持続するといわれる限りで存在するものを対象となしなくても,神の属性の中に包容されている限りで存在するものを対象とする場合があり得るのであって,その場合には,この学知の対象は実在的なものであるということになります。
スピノザは第五部定理二九備考 において,これらの実在を,持続するものと永遠の相species aeternitatisの下に認識されるものとに分類しています。つまり,持続duratioのうちに実在するものと,永遠aeterunusから永遠にわたって実在するものに分類しています。よって,持続するものが学知の対象とはなり得なくても,永遠に存在するものが同じ学知の対象となるということはあり得るわけで,ここからも,現実的に存在するものが学知の対象でなくても,実在的なものが対象である場合があるということが分かります。
僕がいう羨望 という感情affectusを強める要素は,羨望する相手に対しては同類意識 の高さで,何に対して羨望するのかということについては入手の困難性 です。このうち,同類意識に関しては『エチカ』の定理Propositioによってほぼ直接的に説明することができるのですが,入手の困難性についてはそれを簡明に説明する定理が『エチカ』には存在しません。なので何らかの定理を援用して説明することになるのですが,その前に,直接的に説明することができる定理がないということには理由がありますので,羨望に関係する説明とは関係ありませんが,このことを説明しておきましょう。
基本的に『エチカ』には,何事であれそれが困難であるとか容易であるといった形容が出現しません。これはすでにいったように,困難であるとか容易であるといったことが,対象となる事物の本性essentiaに属するわけではなく,事物を認識するcognoscere人間の知性intellectusにのみ関連するからです。
『デカルトの哲学原理 Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae 』の第一部定理七備考で,この事情が説明されています。そこでスピノザがいっているのは,どんなものであれ絶対的な意味で困難であるとか容易であるとかいわれるわけではないので,同じものが同じときに,困難であるとも容易であるともいわれ得るということです。これは『エチカ』でいえば第三部定理五一 に類似したことだといえるでしょう。たとえば,同じ事柄が同じときに,ある人間にとっては困難であるといわれ得るけれども,別の人間には容易であるということもできるということです。
ただそれでも,何事にであれ人間がそれを困難であると感じたり容易であると感じたりすることがあるのは事実です。よって同じ事柄を,ある人間は強く羨望するけれども,別の人間は大して羨望しないということは生じ得るのです。
スピノザによる円の定義 Definitioというのは,一端が固定しもう一端が運動する直線によって形成される図形,というものです。球の定義というのは,直線部分を軸として回転する半円によって作成される図形,というものです。なぜ円の定義および球の定義がこのようなものでなければならないのかといえば,これらの定義には円のまた球の,発生が含まれているからです。その定義に定義されるものの発生が含まれている限り,その定義からは定義されたもののすべての特質 proprietasが,定義されたものの本性 essentiaから流出するので,これらの定義はスピノザによってよい定義であるという認定を受けるのです。これに対して,たとえば円について,中心からの距離がすべて等しい平面上の図形,という命題を立てたなら,この命題は円の発生を含んでいないがゆえに,この命題はよい定義であるという認定を受けることができません。むしろ円にとって,中心からの距離がすべて等しいということは,本性であるのではなく特質なのです。いい換えれば中心からの距離がすべて等しいということは,一端が固定し一端が運動する直線ということから流出してくる事柄なのです。
このときにスピノザは,これらの定義は円の場合も球の場合もよい定義ではあるのだけれども,だからといってそれは現実的に存在する円や球を反映しているわけではないということも同時に認めるのです。これを認めなければならないのは当然といえば当然です。実際に円とか球といったものは現実的に物体corpusとして存在しているわけですが,それら一つひとつの円のすべてが,円のよい定義に示されたような仕方で発生するわけではありませんし,各々の球が球のよい定義として示される仕方で発生するというわけではないからです。一方で円とか球というのは明らかに数学的考察の対象となり得るようなものなのですから,その場合に円や球がこのような定義によって示されなければならない,つまりそれが円のよい定義でありまた球のよい定義であるというのであれば,数学の考察の対象となっている円や球は,現実的に存在しているあの円とかこの球といい得るような円や球ではないと,スピノザは考えていることになります。
天龍の雑感④ の最後に示した,天龍源一郎 のジャンボ・鶴田 に対する不満というのは,次のようなものです。
天龍からみた鶴田は,プロレスラーとしては最高でした。だから,人の上に立って引っ張っていく立場であるべきだと思えました。ところが鶴田は,リングの上では自分が一番であるということを出す,必要以上に出すのだけれど,リングを降りるとことさらに目立たないようにしていると感じられました。つまり天龍にとっての鶴田は,リングの上とリングの下では両極端な人間だったのです。天龍は,リングの上でエースとしてやっていくのであれば,リングを降りても自己発信をして,ほかのレスラーたちをぐいぐいと引っ張っていってほしかったのですが,鶴田はそれをひどく嫌がったそうです。この点が,鶴田に対する天龍の不満の核心になっています。
僕にとって興味深く感じられたのは,この不満を天龍自身が,自分が相撲界の出身であるということと結び付けていることです。つまり天龍は,トップに立つ者が常に下の者を引っ張り,組織をよい方向へともっていくのがエースの責務であるという考え方を,相撲界で培ったものと認識しているのです。天龍が相撲界出身であるということにある種の誇りをもっているということはすでにいいましたが,このような認識にもそれが影響しているようなのです。
天龍がいうように,それが相撲界に独特のものであるのかどうかは僕には何ともいえません。ただ,馬場は野球界の出身で,相撲界出身の力道山の下での修行時代には,辟易とする部分はあったようです。馬場はどちらかといえば相撲界の風習を排除する方向へ全日本プロレスを組織づけようとしていた部分はあり,鶴田がその流れを汲むタイプだった可能性はあるでしょう。
鶴田は就職すると言って入団した選手です。新入社員のすべてが出世を望んでいるわけではないのは当然ですが,プロレス入りする際にこのことばを使った鶴田にはその傾向が顕著だったようには思えます。ただこれは人間性の差異なのであって,その部分では鶴田と天龍には相容れないところがあったのでしょう。
スピノザが公理論的集合論の公理系を目にしたとき,それを存在論的な公理論であるとはみなさないということは,逆にいえばスピノザはそれを数学の公理論であるとみなすだろうということです。バディウAlain Badiouにとっては数学と存在論は同じものですが,スピノザにとっては異なるものですから,スピノザがそのように解することは不思議ではありませんし,むしろ自然だといえるでしょう。
この場合には,スピノザが公理論的集合論を学知scientiaとして認めないとか,真理veritasを明らかにしているとは認めないというように断定することはできないと僕は考えます。これはどういうことかというと,もし非実在的なもの,公理論的集合論においてはそれは空を意味するのですが,そうしたものが公理論の内部に組み入れられ,かつそれがある,非実在的なものについてそれがあるといういい方は本来的には不条理ですが,ここではそのようないい方を用いるとして,非実在的なものがあるとされている場合に,それが存在論的文脈においていわれるのであればスピノザはそれが真理であることを認めませんが,数学的文脈においても同じようにいえるかということは,検討してみなければ不明だと僕は思うのです。いい換えれば空あるいは非実在的なものは,存在論においてはスピノザにとって考察の対象とはなり得ないものですが,数学の場合にもそれが考察の対象となり得ないといっていいのかどうかは分からないのです。
実際のところスピノザは,実在的なものというのが現実的に存在するものということだけを意味するのである限りでは,そうではないものが数学の対象となるということは認めていると僕は断定します。これはスピノザが定義Definitioの条件を説明するときに,定義が定義されたものを知性intellectusが十全に概念するconcipereことに資するのでありさえすれば,それは現実的に存在している定義されているものを正確に表現するexprimereのではなくて構わないという場合に,円とか球といった,明らかに数学の対象となり得るような事物によって具体的に例証していることから明白だと僕は考えます。いい換えれば数学の対象となる円や球を,スピノザは現実的に存在する円や球とは規定していないのです。
明治時代の新聞 というのは,現在のように各々が黙読するものではなく,基本的にはだれかが音読 をして,それを何人かで聞くものでした。音読されるのは新聞の記事だけではありません。新聞に掲載されているものはすべてそうでした。ですから,掲載されている新聞小説も,基本的にこのような仕方で人びとに伝えられていたということになります。
この時代,インターネットやテレビが存在しなかったのはもちろん,ラジオも存在していませんでした。つまり,現在と比較すると娯楽というものがとても少ない時代だったのです。そのような時代背景もあり,新聞というのは単にニュースを伝えるという役割を有していただけでなく,娯楽としての役割も有していたのです。というか,現代でも新聞が娯楽としての役割を果たしていないというわけではないでしょうが,娯楽として市民に果たす役割の大きさは,現代とは比べ物にならないくらい大きかったのです。もちろんそれは,インターネットもテレビもラジオもなかった時代に,ニュースを人びとに伝える役割の大きさも,現代とは比較にならないくらい大きかったであろうということです。
新聞小説は,ニュースを伝えるという役割よりも娯楽としての役割を果たします。したがって,面白い新聞小説が掲載されるということは,新聞の売り上げに直結する面がありました。これもすでにいったように,当時は新聞の宅配制度があったわけではなく,どこかで購入してもらうものであったわけですから,同じ新聞を続けて買ってもらうためには,続きを読みたくなるあるいは聞きたくなるような新聞小説が果たす役割というのが非常に大きかったのです。このために当時の新聞社はこぞって,人気作家を自社の社員として雇い,新聞に小説を掲載してもらうことに躍起となっていたのです。
これが新聞社の事情 です。大学教授を辞して朝日新聞の社員として小説を書くということは,漱石にとっても悪くない条件だったでしょう。そしてそれは,朝日新聞にとっても大きな利益を生み出し得ることだったのです。
確実にそうであるとは僕には断定することができないまでも,公理論的集合論のうちに,スピノザが求める条件の下に空を定義することは可能であると思われますから,スピノザが公理論的集合論を公理論として否定することは,この条件すなわち非実在的である空が組み込まれているという条件によって否定することはないでしょう。もちろん公理論が公理論として成立するための条件はこれだけではないのであって,本来は公理論的集合論の公理系のすべてを検証する必要があるのですが,そうしたことは僕の能力では不可能なので,今はこのことだけに注目して,スピノザは公理論的集合論を公理論として認めるとしておきます。他面からいえば,公理論的集合論のこれ以外の部分のすべては,公理論が満たすべき条件を備えているということを前提とします。
次に,もしこの公理論的集合論を存在論の観点からみれば,スピノザはそれを学知scientiaであるとみなす可能性はきわめて低く,少なくとも真理veritasを明らかにしているとは認めないでしょう。バディウAlain Badiouにとって最大の問題はこの点にあったのだと僕は解します。スピノザは空が存在論的な意味において実在するという主張は真理とは認めないのですから,もしも公理論的集合論が存在論的な公理論であるとするならば,スピノザはただ単にそれが公理論であるということだけを肯定するのであり,それが真理を明らかにする公理論であるということは否定することになります。僕はこの場合には,それが学知であるということも否定されると考えますので,僕の見解opinioでは学知であるということも否定されるのですが,公理論であるということ自体は是認されるので,学知として否定されると断定することは避けておきます。
ただ,数学は存在論であるというテーゼは,バディウが固有に立てているテーゼなのであって,僕はその立場は採用しませんし,それはおそらくスピノザも同様であると思います。実際にはスピノザはカントールGeorg Ferdinand Ludwig Philipp Cantorを知らなかったわけですから,この仮定を立てることには意味がないかもしれませんが,もしスピノザが公理論的集合論を目にしたとしても,それを存在論であると解することはないでしょう。