書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

2V電源。

2012年08月01日 19時58分13秒 | 日記

○2V電源。

 ニッケル水素充電池2本に FairchildeSemiconducter 製 1N4728A っつう3.3V型ツェナーダイオード(千石電商で\20-)を直列につないだら最大で2.2V、平均的に1.97Vが得られた。

 ほぼ2V前後になるので、黄色とか赤色のLEDを点灯させるには丁度いいかも知れない。

 ニッケル水素充電池はフル充電状態だと2本直列で2.77V程度になってしまうので、砲弾型LEDならまだしもパワーLEDだと熱で壊れそうなので、何らかの対策が必要だと思っていた。

 まだ試した訳ではないんだけど、もしかして直結でもいけるのかもしれないし、そのうち試してみようと思う。

 元々は白色LED用の電源素子として購入したものだけど、偶然にも赤色や黄色LED用として流用出来そう。

 ちなみに日立製の HZ3C-1E っていう2.9V型ツェナーダイオードだと最大2.18V、平均1.15Vで急激に低下する。

 リチウムイオン充電池につないだ時はFairchildeSemiconducterが2.91Vで、日立は2.9Vと、0.01Vしか差がなかったので、元の電圧でかなり違う特性を示すらしい。



 そういえば、まだ3端子レギュレータっていうのも試してなかた。秋月電子通商は八潮にもお店があるらしいので、一回行ってみたいな。距離的にはほとんど同じくらいなんだけど、売り場の広さが二倍くらいあるらしい。

 リチウムイオン充電池っていうのは小型軽量でエネルギー密度が高いのが特徴だけど、温度の高いところに放置プレイすると寿命が縮まるらしいので、自転車のライトとかに用いるにはニッケル水素充電池の方が適しているかもしれない。

 ニッケル水素充電池って充電するとき凄い熱が出るけど、熱が出ないと充電されないものなんだそうです。なので冬場は保温しないといつまでも充電が終わらないとか。でも夏場は熱が出すぎなんじゃないだろうか。熱が下がるまでは使っちゃいけないらしいしので微妙だな…。

 あ、ちなみに「…」の区点コードは0136でした。


 区点コードで余談。
 
「。」は0103。
「゜」は0112。
「°」は0175。
「゜」っていうのはどうやら1バイト文字らしい。おいらのPCだと出し方がわからない。
「o」ってのもあるけど、コード表では見つけられなかた。


゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜

 文章の区切りとかにつこたらかわういかな。

゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜


「゜°。゜」←これをコピペしてつこて。(゜μ゜)

 コピペ方法はカーソルを文字の端に持ってきて、SHIFTキーを押しながらカーソルキーで選択し、SHIFTキーを押しながらC(そ)キーを押ししておいてから、エディタの貼付けたいところでSHIFTキーを押しながらV(ひ)キーを押しします。

 SHIFTキーを押しっぱにしといてV(ひ)キーを連打すれば

゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜゜°。゜

 っていう風に任意の長さにコピペ出来ます。

 説明下手かな。そもそもがPCのキーボードってややこしいのよね。



Ende;
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卑屈の正当化。

2012年08月01日 19時56分54秒 | 意識論関連

○卑屈の正当化。

 無意識な者というのは、自分よりも強そうな相手、暴力的で恐そうな相手に対し、服従迎合して仲間になることで気分的安心を得ることも出来る。

 しかし、こうした行為が人間個人としての尊厳がなく卑屈な態度であることは理解してはいる。それでも暴力的な相手に服従迎合するのは、「自分は下らない人間だ。」などと勝手に規定し、固定観念化することによって、あたかも人間性の欠落した卑屈な行動選択が正当化出来るものであると錯覚しているからである。

 「自分だけが卑屈なわけではない。」として、安心して卑屈になることが正当化できたと錯覚し、安心するのである。

 過剰なまでに「安心」したい原因というのは、主体的に自分の個人的に好きな純粋行為に熱中するという心的余裕がないための不安であって。こうした不安「心の穴」というのは、自分で自分の感情本能を抑制することが出来ないという不安をもたらし、「自分は下らない人間だ、だから自分では治すことが出来ない。」という思い込み、マインドセット、自己暗示をかけることで、人間としての尊厳を意識から外し、無視し、「なかったこと。」にしたがるための過剰な「安心」追究である。

 自分の感情を自律的には抑制できない者同士で、自分の感情本能を抑制出来ないことを共有しておけば気分的に安心することが可能なため、安心して固定観念上正当化出来たような錯覚に陥ることが出来るのである。

 「自分はこういう人間だから。」とか、「自分はバカだから。」といった勝手な決め付けというものは、「どうしたらバカに陥らないように出来るのか。」という自発的探究心を放棄するための言い逃れ/取り繕いである。

 自分というものを固定観念化しておくことによって、自分自身を自己検証することを放棄し、バカな行為を正当化できたような錯覚に陥って気分的に満足したいからである。

 こうして無意識な感情が促す思考停止のまどろみに浸り、ますます安心満足して尊厳を放棄し、目先の快楽に溺れるようになるのである。



 ヒトは皆、自由でありたいと願うものである。それは禁欲的な研究者であっても、欲望に溺れる怠惰な者であっても同じであるが。何をもってして「自由であるか。」の基準が異なることによって分かれるのである。

 自発的で多数他者からの評価報酬を必要としない純粋な動機に基づく研究者というのは、自分自身の欲望を自分で賄うことが出来るため、結果的に外見上禁欲的で、心理的余裕があるため他人への配慮にも意識が働くようになるのである。

 従って、その正反対の者というのは、多数他者からの評価報酬という不純な動機でしか自分の欲望を満たす術を知らぬため、どんなに世間的評価報酬を得たとしても、心理的余裕がなく、客観的に自己検証することも出来なくなるのである。

 たとえ卑屈な行為によって自己の尊厳を喪失するとしても、心理的余裕が全くなく「脳が餓えて。」いるため、目先の欲望本能が優先してしまい、本能習性の結果にしか陥ることが出来なくなるのである。

 狭い意識の中において、自由とは目先の本能欲望に流される以外に何も見ることはできない。しかし、一旦意識狭窄状態に陥いりそれに「慣れて」しまうと、統合的に広い視野を持つことを観念的に恐れ、拒絶し、ますます盲目であろうとするようになる。

 心理的に不自由である者にとって、自由とは目先の欲望以外に見ることが出来ない。そのため欲望に流された結果がどのようなものであるかの予測がつかず、破綻に至るまで暴走を続ける以外に何も選択することが出来ないのである。

 予測や想像といったものは、検証する自発的意思がなければ働くことはない。

 暴走や破綻に至る可能性があるとしても、自発的意欲のない自暴自棄な者にとってはどうでも良いことである。「どうせみんないつか死ぬのであれば、たとえバカげた価値観であっても優位に立ちたい。」と願うようになるため、歪んだ願望の結果は暴走破綻であっても構わなくなるのである。

 勝ち負けだの他人との比較による優位性だのといったものは、そもそも多数他人からの世間的観念に基づく評価を求めているのであって、これは個人の主体的目的ではなく、世間から刷り込まれた固定観念に過ぎない。



 「暴力はセクシー。」と論じたのは伊勢崎賢治だったと思う。暴力と性的欲求は本能的に深く結びついているが、本能というのは誰の意識的選択も介さない、単なる自然淘汰の「結果」に過ぎず。意味など最初からない。

 自然選択の「結果」以上の意味が原理的に存在しない本能に対し、現在の生物学は事後正当化のためのこじつけを行うばかりで、意識的に選択されるべき「目的」とは何かを区別することも、言及することもない。

 原始に近い生活を送る民族の結果的行動だけを取り上げておいて、あたかも「ヒトとは本来平和的で友好的なものである。」などと勝手に規定することで安心満足するばかりで。何らヒトという種の危険性について検証することはない。



 集団生活によって集団の規範を無意識的に植え付けるというのは、いうなれば「サル回し」に過ぎず、どんなに高度な迎合性という特定能力「芸」を獲得させても、所詮は評価という抽象化されたエサと引き換えでしか行われることはないのである。

 どんなに高度な「芸」を覚えさせても、サルはサルである。ところが文系大衆観念上では「芸」を動物行動学習的に身につけることを「賢くなった。」と形容する。こうした無責任な文系大衆観念こそが、あらゆる問題の論理検証を撹乱し、あらゆる「人災」の根源となっているのである。

 遺伝子自体は人間性の論証には全くならない。ヒト科ホモ・サピエンスでありさえすれば「人間」であるとは言えないのである。通り魔でもテロリストでも遺伝的にはヒトであり、むしろ生物身体的には「健康」ですらあるのだ。

 遺伝的にどのような本能的行動習性を示すのかを都合よく枚挙しても、ヒトの残虐性や無責任性という危険性の反証には全くならない。監獄実験と全く同じことが日本の学校では行われているのであり、これを無視してご都合主義的に遺伝的習性を正当化する事後こじつけばかりを繰り返す生物学は悪質で無責任なのである。

 どんなに偏差値が高くても、こうした基本的間違いに誰も気付かないというのは、それが単なる高学力なバカに過ぎず、学力成績という「芸」を覚えたに過ぎないからである。


 文系大衆観念上では、外見上従順に服従する者を「社会性や規範を身につけた。」と錯覚するが。これは単に服従させているだけであって、自律的な社会的責任判断能力が身についているわけではない。

 刑務官や教師の前でだけご機嫌を窺うように服従しても、本質的な自己の意思による自律的社会的責任判断が身につくわけではない。統計的にも特定の者に対して従順であることが自律的社会的責任判断能力とは無関係であることは明らかである。当然論理的根拠も全く存在しないばかりか、むしろ従順さこそが自律を喪失させるのである。

 暴走族を検挙すると、警官に対して急に従順になることを、警官は「素直な子供」だと錯覚する。実際にはその場限りの本能的な服従対象の転移の結果的服従習性に過ぎないのだが、目先の服従迎合性を短絡的に「素直」だとか「賢い」などという錯覚で判断する文系大衆観念に過ぎず。何ら個人の人間性とは無関係なのである。

 衆人環資下において、その場限りに多数や権威に服従しておくことは。逆に言えば仲間内で群れている場合には仲間内での統率者(首謀者)に服従迎合するということでもある。

 服従対象をその場限りに転移させておけば生存に価する可能性は高いかも知れないが。それを正当化するならシエラレオネの少年ゲリラも正当化される。それを「賢い」と形容するのは、形容している者が無思考でバカだからに過ぎない。

 生存は「結果」である。結果を事後的に正当化していれば、目的意識の意義が無視されるのは当然であろう。

 大人にとって従順で取り扱いやすいバカを大量生産しておけば、バカな大人にとっては便利で気分的に安心でもあろうが。誰にも目的意識のない社会の結果は常に暴走破綻にしか至らない。

 外見上の個人に対する従順さを、普遍的な人間性と錯覚するのは。服従させている教育者が自分を絶対的人格者であると勝手に倒錯しているからに他ならない。自分を絶対的人格者だと倒錯していれば、自分の過ちも認めることはなく、目の前で起こる現象についての論理検証も全くされることはない。

 こうした自己絶対倒錯は、倒錯している当人に自己検証を行う意識が存在しないための結果として生ずるものである。

 これはカルト宗教の教祖の倒錯と同じ構造原理である。

 人工的な権威、力を用いた強制的服従というものは、生徒個人から本質的自発性を奪い、結果的に自律的な社会的責任判断能力をも奪うことで、無責任で従順な臣民を大量生産することになるのである。

 無意識で目的意識のない無責任な者しかいない社会からは、暴走破綻という「結果」しか導き出されることはない。

 本当の人間らしい社会とは、個人が主体的に社会を切り開き、自発的に自己や社会の問題を解決出来る本質的な意識/論理検証性を持つ社会である。

 目先の気分的安心ばかりを追究していれば、巨視的な社会安全性や持続可能性を見失うのは当然である。

 教師大人が目先の気分的安心ばかりを追究しているから、生徒子供が目先の気分的安心ばかりを追究するようになってしまうのである。

 日本人はやたらと精神的に「悩む。」ことを努力であると錯覚したがるが。気分的にどんなに一生懸命「悩んで。」も、そこから合理的で効果的な「考え。」が出てくるわけではない。

 何の効果も存在しない気分的苦痛で「悩んで。」も、無駄な努力にしかならないのである。少年院の教師が生徒に何度裏切られても「信じる。」などというのは、根本的に「信頼」だの「裏切り」などという動物習性的な仲間意識本能を植え付けているだけであって、全く生徒個人の自律的な思考判断能力の育成になっておらず、その場限りの環境に依存した行動しか出来なくさせているだけなのである。

 「裏切り」というのは、現在の生物学上における生存価にとって有効な行動であり。生物生存においては「正しい。」行動選択なのであるが、これはそもそも「生存」という「結果」だけを絶対視する前提が間違っているからである。生存してさえいれば良いというのであれば嘘でも裏切りでも正当化されるのである。そこにあるのは生存価という「サルの正義」だけであって、人間としての尊厳もすったくれもあったものではない。

 ヒトという種の生物には、本能的な社会形成習性が存在し、感情的に利己を他人に押し付けるような統率者に多数のヒトは観念して服従する。暴力団などという訳のわからぬ集団が形成されるのは、それが本能習性の「結果」であるからに他ならない。生物学はこれに対する論理的反証を一切持たないにも関わらず、ご都合主義的に本能習性結果の枚挙から人間性を論証しようとしている。

 それは大衆の大脳辺縁系にとってウケが良く、思考停止に陥れることが出来るからである。

 「ヒトという種の生物には、本能習性的に平和的で安全な社会を形成する傾向がある。」ことを断片的証拠の枚挙から論証しても、それがヒトという種の生物の危険性の反証には全くならないのである。

 白いスワンをどんなにたくさん集めて来ても、「この世のスワンの全ては白い。」ことの科学的論証には全くならないのである。(:科学哲学者 カール:ライムンド:ポパー)

 既に「黒いスワン。」が大量に見つかっているにも関わらず、「白いスワン。」だけを抽出枚挙するというのは科学者としての客観性がなく、極めて思考バイアスのかかった偏った論証に囚われているからである。




 生存自体は生物的な結果に過ぎないという理論的証明は、大衆にとっては気分が悪く、あたかも自殺者を増やすことにしかならないと「思う。」であろうが。実際には社会を構成するヒトの多くが無意識で無責任な結果として自殺者が生ずるのであって、目先の対処療法に意識を奪われ、根本的治癒策を無視放棄することの方が自殺志願者から望みを奪うのである。

 世の中が多少は改善する余地が期待できるのであれば、自殺は防げる。しかし、目先の生存だけを目的とした対処方法では、自殺志願者の根本的な将来への希望には全くならない。

 将来への希望という尊厳なくして、人間として生きることは出来ないのである。

 生き続ける権利と死ぬ権利は等価であり、「頑張って。」生かされる必要など全くないのである。

 バカで無神経な生物的優位性ばかりを追究する、人間性の欠落した社会に個人の尊厳など存在しない。だからこそ自殺が減らないのである。この根本的原因から目を逸らせ、意識から外し、無視し、「なかったこと。」にしておけばバカは安心満足して利己的欲望の追究が可能であろう。それこそがバカがバカたる所以であるからだ。



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