書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

左脳半球と短絡性傾向。

2012年08月06日 15時24分10秒 | 意識論関連


○大脳半球。

 大脳の右半球の損傷で左側無視は発生するが、左側半球損傷では右側無視は生じない。 右半球が損傷していなければ半側無視はまれである

 

多くは右の脳が損傷を受けたときに生じる、左側を無視してしまう左半側空間無視ですが、まれに右側のこともあります。症状が軽ければ日常生活に支障がないこともありますが、程度によっては歩く際に左側の物にぶつかりやすく危険であったり、左側に曲がれないために部屋に戻れなかったり、食事の際に左半分に全く手をつけないといった日常生活上の問題を呈することがあります。

 

 ↗出典:高次脳機能障害のリハビリテーション -慶應義塾大学病院



 左半球というのは神経軸索が短い傾向があり、短絡的で高速な処理を行うのに適しており。これが時間制限を伴なう数学的思考において優位だと考えられる。

 「数学=論理思考。」という方程式は、一面的には間違ってはいないが、論理思考の全てが数学だけで賄われるわけではなく。爆笑問題の太田光のように、数学が全くといって良いほど出来ない者であっても、社会の問題については論理的分析が出来ることもある。

 論理的思考というのは、必ずしも左脳の専売特許というわけではなく、右脳による広い視野に基づいた統合的論理思考というものも存在し、統合的論理思考というのは数学能力や左脳半球優位性だけで説明されるべきものではない。



 左脳半球の大脳皮質では、脳神経軸索が形成される層の厚みが薄い傾向があり、神経回線が狭い範囲でしか形成されにくい傾向がある。運動神経などの無意識的学習能力の獲得には左脳半球の方が獲得が早く、右利きが多いのもそのためではないかと考えられる。

 半側無視などの現象というのは、いうなれば当人のマインドセット「思い込み」の激しさによる結果である。意識が狭窄な状態に「整理」されたまま、「気付く。」ことが出来なくなるというのは、神経回路の狭さによる短絡的演算終了性によるものであろう。

 短絡的に思考が終了してしまえば、論理検証が途中放棄されてしまうのも当然であろう。

 純粋数学というのは、基本的に数学の文法規則を鵜呑みにすることから始まるものであり、「これは一体何の役に立つのか?。」という疑念を抱いてしまうと集中できないものでもある。

 数学が得意な者というのは、単純に個人的主体的に数学的パズルが好きな場合か。或は教師からの学力評価成績という抽象化されたエサに対する条件反射に過ぎない場合が考えられる。どちらにせよ、数学思考というのは短絡的論理思考であって、どんなに高速大容量の暗算が出来たとしても電子回路で実現可能な機械的能力に過ぎない。

 カントが批判しようと試みた純粋理性は、実際には特定の利己的欲望が動機の理性的判断のことであって、理性自体を批判するのは間違っている。理性に照らして欲望を選択すれば、利己的欲望に流されていては人間としての社会性が失われることに気付き、利己性を放棄する統合的論理思考にまで到達できるはずであり。そのことに気付かないというのもまた、短絡的論理判断による思考検証放棄によって気付くことが出来なくなるのである。

 半側無視ではなく、統合無視とも言えるこうした現象は、左脳半球の短絡的能力獲得性ばかりを追求する現在の教育手法の結果であろう。

 クボタ式などの「サル回し」的な短絡的「芸」の刷り込み学習の結果を「天才」だと思い込む大衆の短絡性もまた、短絡的教育手法を加速暴走させている。クボタ式的な能力獲得手法というのは、意識狭窄を促し、短絡的に特定能力「だけ」を伸ばす非常に危険な学習である。

 クボタ式的手法というのは、子供の本能習性を利用した一種の洗脳であり、環境依存的に誰でもできるようになる短絡的手抜き教育であり。自発的に深く「考え」る余裕を与えず、バカな大衆にとっての「こういう子供は頭が良い。」という観念に迎合した外見上の断片的能力獲得に過ぎないのである。配偶者が脳神経学者であるからといって、必ずしも認知科学的検証がなされているわけでもなく、実際には現在の脳科学者の多くは脳トレーニングだのアハ体験だのといった短絡的人気取りによる金儲けしか考えておらず、本質的知能が何かには全く言及していない。そもそも生物学における「結果」と「目的」の明確な区別すら誰も言及していないではないか、そんなバカに一体何の論理検証が可能であると思っているのであろうか。

 「これさえやっときゃ、頭が良くなる。」だの「これをやっとかないと認知症になるぞ。」といった強迫観念を植え付け、大衆迎合による金儲けにばかり邁進しており、誰も論理検証を全く行わない現在の脳科学界というのは、もはや単なる詐欺集団と化しており、全く科学としての機能、社会的役割要請を果たしていない。

 マスコミもまた、脳トレーニング類による視聴率利益ばかりを追求し、無責任に現在の脳科学界の腐敗体質を放置しており。共に悪質と言わざるを得ない。

 ヒトという種の生物が、人間たりうる所以とは。機械では再現出来ない統合的論理検証判断能力であり、「気付き。」による予測能力、想像力による社会持続可能性や安全性を「目的」とする自発的個人の意思の有無である。

 制度法手続きに従うだけの、いわば規範意識による盲目性というもので満足してしまうのは。統合的論理検証判断が働いていないための結果であり。危険性があるとしても自律的判断を全く行わずに暴走破綻を放置する思考停止性こそが「人間としての社会性」を伴う本質的知能の欠落を促すのである。

 短絡的論理思考というのは、短絡的な言葉で説明することが可能なものであり、短絡的に「わかった。」ような錯覚を促すものでもある。短絡的断片的な論理的説明だけで気分的に「納得。」してしまい、それ以上の検証にまで考えが及ばないというのは、統合的論理思考が働いていないからである。

 安全性に関わる技術の場合、あたかも制度法律に対して規範意識的に漫然と鵜呑みにして服従してさえおけば責任逃れが出来ると錯覚しがちであろうが。実際には常に予測や検証に基づいて創造的に改善していかなければならない分野であって、「想像力の欠如。」というのは技術者として重大な欠陥なのである。

 想像力というのは、機械条件反射的に他人から与えられた制度法律に従うのではなく、場合によっては制度法律に問題があると判断された場合には、それを改善する自律的自発的創造性を必要とするものである。個人の自発性なくして想像力というのは働くことはなく、目先の保身や責任逃れにばかり意識を奪われているから想像力の欠如を招くことに陥るのである。




 思考を「整理」するのはドーパミンの持つ常習性であり、気分的安心である。半側無視などの意識狭窄というのは、気分的に安心してしまうために自己検証が停止してしまうための結果である。

 半側無視などの症状は、当人に指摘すると観念的拒絶反応を示すものであり。左脳半球の論理性というのは、あくまで短絡的論理思考で満足してしまう気分的な思考「整理」の結果であり。論理思考の全てが左脳半球だけで行われているわけではなく。むしろ左脳半球というのは、短絡的論理思考で収束してしまい、統合的論理思考にまで考えが及ばないようにさせてしまう性質を持っているのである。

 理性というものへの短絡的拒絶反応というものも、結局は論理検証性自体が短絡的であるための観念的拒絶反応に過ぎず、論理的反証がないにも関わらず本論の世間的認知が進まないのはそのためである。




 子供に対して短絡的論理性で思考が整理収束しないようにするためには、短絡的に評価可能な目先の能力獲得を求めず、自発的で自然な脳の思考を促すようにする必要性がある。

 クボタ式などの人工的権威、力を用いた強迫観念的強制性というものは、個人の自然な脳の働きを阻害し、目先の欲望にだけ忠実な短絡的バカを大量生産するだけである。

 短絡的に学力が高く、大人にとって忠実に服従する取り扱い易い子供を生産しておけば、その大人、大衆凡民にとっては「頭が良い。」だの「賢い。」だのと短絡的に規定することも可能であろう。それに対して何の疑問も抱くことはないであろう。当然誰も何も検証することなく多数で共有することで安心するであろう。

 何の批判精神もなくクボタ式を「その手があったか。」などと迎合する茂木健一郎というのは、科学者としてはポンコツとしか言いようがない。現在の生物学や脳科学における論理検証性の欠落を放置しておいて、何をもって「頭が良くなった。」のかすら厳密には検証されることはない。

 無思考な大衆観念の多数決人気を集計しても、認知科学的な本質的知能の論証にはならない。ところが現在の脳科学界というのは大衆迎合による人気取り、金儲けしか追求しておらず、何ら本質的知能とは何かという検証を全く行っていないのである。アハ体験だの脳トレーニングで原発の暴走を止めることが出来たわけではないことくらい、バカでもわかりそうな話ではないか。

 ヒトという種の生物における、無責任性、意識や思考の狭窄性による危険性に言及すれば。大衆の気分的安心満足を得られないために人気がないのは当然である。

 本質的知能による自律的な社会的責任判断を行ったからといって、腐敗した組織や体制を批判しても世間的な評価が得られるとは限らず。利己的欲求を満たすようなものではないため、大衆観念的人気が得られないのも必然的結果である。

 アハ体験だの脳トレーニングだのクボタ式で「賢くなった。」と勝手に思い込んで気分的に満足しているから、原発暴走などの破綻結果を導くのである。

 思い込みというマインドセットこそが原発を暴走させたことを誰もが忘れている。

 そりゃバカとしか言いようがないでしょ。




 右脳優位であろうが左脳優位であろうが、これは傾向性の問題に過ぎず、思考が停止するのは気分的満足によるものであることに変わりはない。要は気分的満足によって思考が停止しているかどうかを自己自身で検証する自発性があるのかどうかが重要なのである。

 右脳優位な者の場合、短絡的でバカでも気分的納得安心できるような安易な説明が困難なのは当然である。そんなに単純で安易な思考で脳が整理されているわけではなく、説明に時間や量を要する深い思考に基づいているためである。

 一般的に右脳優位な者は感情的と言われるが、これは外見的な結果を述べているに過ぎず、単に左脳優位な者特有の短絡的で安易な結論への批判精神の結果であって。実際には左脳優位な者の短絡的で安易な思い込みによる外見上の精神的安定性を形容して「理性的」「論理的」に見えるだけのことに過ぎない。

 思考が短絡的に整理され、意識狭窄に陥っている者であれば、気分的には安心で満足なので、感情的に表に出ないだけであって、気分的安心満足という感情自体こそが意識狭窄性を作り出しているのであり。オウム信者達に見られる外見上の冷静さだけを抽出して「理性的」と形容するのは、あまりに短絡的で非科学的である。

 若しくは、統合的論理思考による説明というものが、短絡的論理思考しか出来ないバカにとっては理解困難であるために。あたかも右脳優位な者が感情的なように「見える。」だけなのかも知れない。理解能力の欠如した者に対して説明することは、非常に面倒臭くバカらしいことであるからだ。




 本質的な意識に基づく論理思考というものは、統合的論理思考を伴うものを指す。従って短絡的思考しか促さない左脳優位性とは無関係であり、数学的思考とも無関係である。

 左脳優位とか右脳優位であっても、これもまた傾向性の話に過ぎず、絶対的なものではなく、あくまで重要なのは感情気分による思考の途中放棄を回避する論理検証性なのである。傾向や習性に流されることこそが無意識であり、この無意識を促すのが本能由来の感情であるからだ。

 社会全体の持続可能性や安全性に基づいた論理検証を行うためには、断片的で短絡的論証しか求められない数学能力だけではダメで、問題に対する意識の広さというものが必要である。

 「数学=論理思考。」という方程式には論理的根拠はなく、外見上の雰囲気的結論でしかないのである。実際、数学がどんなに得意でも、ニーチェや養老の論理性欠落を誰も指摘することは出来ないのである。

 無論、原発の危険性においても同様である。(*後述)

 ヒトが引き起こす「人災」を回避するためには、思考可能なあらゆる思考探索性というものが不可欠である。断片的で短絡的論理思考はこれを阻害するだけであって、むしろ統合的論理思考を停止させる原因にしかならない。

 思考探索というのは、外的環境に左右されずに、自発的に検証する意思や意欲が不可欠である。「エサ」に対する条件反射では、本質的な自発的論理検証は構造原理的に行われることはないからだ。

 脳というのはシンボル化/抽象化によって思考を「整理」する。この「整理」こそが意識狭窄性を生み出し、統合的思考検証能力を失わせるのである。

 「整理」するのはドーパミンという脳内麻薬であって、これによって促される気分感情が思考を「整理」するのである。従って、何が気分的安心満足で、何が論理的検証であるかを区別認識するのは論理的検証であって、気分的安心満足を動物的に優先してしまうから盲目暴走状態に陥る結果になるのである。



 ここまで説明して改めて言うのもバカらしいが、「論理思考=数学=左脳」という方程式には論理的根拠がなく、風説に過ぎない。

 原発の危険性を放置した技術者の多くは、数学は得意であったはずである。断片的計算だけは得意で、目先の金儲けにしか興味がないからこそ原発技術者になったのであろう。だから原発技術者というのは何が何でも原発を温存させようとしたがるのである。彼らにとって原発は飯のタネであって、「エサ」であるから、事後正当化の屁理屈を枚挙したがるのは本能的な必然結果である。

 事後正当化の屁理屈の動機である「エサ」とは、世間環境依存的な報酬のことである。チンパンジーがエサを貰えなくなった途端に暴れ出すのと同様、事後正当化のための屁理屈に異常な執着をするのである。

 目先の学力や特定能力の獲得で「賢くなった。」などと短絡的に安心していれば大衆は満足であろう。しかし、その気分的満足こそが論理検証を放棄させていることに「気付く。」意識を喪失させているのである。

 ヒトが本来持つ人間としての知能、統合的論理思考による社会全体の安全性や持続可能性検証というものは。多数他人、世間などの環境に依存せず、本質的な自発性によって行われる純粋な探究心、好奇心によって育まれるものである。

 他人と同じである必要性はなく、あくまで個人の主体的行動選択判断の積み重ねによって、自律的な社会的責任判断能力というのは育まれるものなのである。

 しかし、ヒトという種の生物は、その本能的な社会形成習性によって統率的協調性、均一化こそに気分的安心を抱く性質、習性、傾向性があるため。気分的行動バイアスに無意識に流されてしまうことによって、本質的自発性を喪失し、多数他人からの評価報酬に対する条件反射的行動選択しか出来なくなってしまうのである。

 本能習性バイアスに基づく無意識的条件反射選択しかしていなければ、意識的な目的行動選択が出来なくなるのは必然的結果である。



Ende;

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大切にするということ。

2012年08月06日 15時22分24秒 | 意識論関連

○自分を大切にする。

 「自分を大切に出来ない者は、他人も大切にすることが出来ない。」

 これは定理である。しかし、本質的な意味においての「自分を大切にする。」というのは、決して無意識的に利己的本能欲望に従うことではなく、本質的な自発性を持った純粋な探究心、好奇心を意識的に選択することである。

 振り込め詐欺師が自分達の利益のために振り込め詐欺を続けるというのは、何ら本質的な「自分」を大切にはしておらず、与えられた周囲の状況環境に無為に無意識に流されているだけであって、本質的には「自分を大切に。」はしていないのである。

 自発的探究心や好奇心であっても、これもまたある種の本能ではあるが。様々な本能欲望の中から自分自身にとって最も大切だと意識的に、合理的な検証に基づく選択をすることによって、はじめて他人も大切にできるようになるのである。

 外見上「自分本位」というと、あたかも本能欲望のままに他人の迷惑も考えずに行動することだけであると勘違いしがちであるようだが。これは本質的な自発的意欲を持たない文系大衆観念に他ならない。

 自分自身が純粋に探究出来る行為に対し、自分自身の価値を置く場合。外見上は禁欲的で、決して身勝手で他人の迷惑を考えないような者にはならず。むしろ、自分自身で自分の精神的満足を充足することが出来るために、他人や世間に対しての過剰な評価報酬を求めたりしなくなり、結果的に外見上禁欲的な行動選択も、自律的な社会的責任判断をも出来るようになるのである。



 文系大衆観念上では、多数他人や多数によって規定された権威に服従するという、規範意識さえ満たしておけば、全てはうまくゆくものであると勝手に安心し、錯覚しているが。これはとんでもない大間違いである。

 多数が大間違いをしでかしておけば、規範自体も大間違いとなるのは必然である。ナチス政権や戦時中の日本も多数で大間違いを放置したからこそ無謀な暴走破綻へと邁進したのである。

 多数が間違っている場合は権威がどうにかしてくれると勝手に勘違いし、お任せパターナリズムを発揮して自律的には誰も何も検証せずに放置しておくことの方が、気分的に安心で満足を得ることが出来るのである。

 こうした行動バイアスというのは、本能的な社会形成習性による封建的統率協調行動傾向の結果である。

 権威だの英雄だの天才といった、特定のカリスマだけにあらゆる問題解決を期待することで、多数の大衆は無為無策に多数迎合して安心するだけで満足なのである。

 特定の「誰か。」への過剰な期待を持つことによって、自分達の頭の悪さを正当化し、免罪符にすりかえようとするのである。

 「自分はバカだから。」などと自慢げに主張しておいても、多数がバカであれば気分的に安心であるため、あたかも正当化できたような錯覚に勝手に陥るのである。

 自分の主張していることに論理的根拠があるのかを自己検証する者はとても少ない。むしろヒトの行動習性的には、論理的根拠のない固定観念ほど感情的でヒステリックに主張したがるのである。理性を伴わない思い込みであるからこそ感情的に主張するものであるからだ。


Ende;
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疑念。

2012年08月06日 15時19分28秒 | 意識論関連

○疑念。

 主観を意識と分類するのは間違いである。個人的主観は無意識であり、何ら論理検証性を必要としない固定観念的区別分類でしかないからだ。

 振り込め詐欺師からの電話を信じ込む被害者は、個人的主観として相手を詐欺ではないと論理検証出来ずに固定観念的区別分類の絶対化が生じているために騙されるのである。

 客観的論理検証こそが意識の本質である。

 「A」という文字記号を「A」であると認識することは論理検証を必要としないものであり。文字認識というのは無意識な認知能力である。ゲシュタルト心理学というのは論理検証を必要としない人工的規則「決まりごと」に対する認知能力を論じているだけであって、本質的な意識とは無関係である。

 ゲシュタルト心理学が取り扱うのは、動物的な認識識別能力だけであって。動物的な認識識別能力自体は通り魔でもシエラレオネの少年ゲリラにでも可能な能力であり、本質的な人間としての知能を伴う認識能力とは無関係なのである。

 ゲシュタルト崩壊が起こるとヒトは違和感を感じ、観念的疑いを抱く。疑う必要性のない文字の形に疑念を抱いてしまうのである。こうした意味のない感覚的疑念もまた錯覚の一種である。

 現在の認知科学においては、デジタルカメラの顔認識程度の機能を「高次認知機能」としており、サルでも可能な認知機能をして「高次」だと論じているのである。顔認識であればシエラレオネの少年ゲリラにでも可能な能力であって、何ら「ヒトが人間」たりうる論証とは全く無関係である。先天的に視覚障害があって顔認識が出来なければ人間として不完全であるわけもなく、どうでも良い話なのである。

 適応的進化というのは結果である。結果以上の何物でもないものを抽出枚挙したところで目的意識的行動選択とは関係がないのである。

 相手が嘘をついているか、それとも本当のことを言っているのかを判断するのは、本来論理検証性であるが。ヒトの多くは雰囲気的に本当「らしい。」かどうかを判別しているだけであって、権威性「らしさ」を演出することによって簡単に騙すことが可能になるのである。

 ヒトという種の生物には、「権威とは、こういうものである。」といった固定観念、権威「らしさ。」の外見を装うことで、多くのヒト達は権威らしいと「思う。」ことで、相手が服従するに値するかどうかの論理検証をパスして盲目的に服従してしまう習性がある。「権威に服従することは人間としての義務である。」という論理的根拠のない観念、「神話」類に取り憑かれ、「権威に服従しない社会は崩壊する。」などと勝手な決め付け、ヒトの多くは本能的に安心満足なことと、論理的安全性を区別することが出来ず、大抵の場合本能的安心満足による観念を優先してしまうのである。

 「ヒトとは、そういうものである。」が、これは傾向性や習性を論じているだけであって。別に傾向習性に流される以外の選択が絶対に不可能であることの論証ではない。難しいことを観念的に拒絶することと、論理的不可能性証明を混同すべきではない。

 個人的、主観的に「権威に服従してさえおけば気分的に安心で精神的に満足。」できることを、あたかも論理的安全性の証明であるかの如く錯覚するのである。こうした錯覚こそが心理学上における「甘え」の構造(:土居健朗)を作り出しているのである。

 権威への盲目的服従による安心満足というものは、動物本能的な社会形成習性による統率的封建社会形成を促す「結果」的な条件反射であり。動物的行動バイアスである。

 このような動物的行動バイアスの結果として、ヒトの多くは条件反射的に権威者の命令に服従「してしまう。」のであり、「してしまう。」ということこそが意識的行動ではない証明であり、当人の意識的な行動選択を介していないがゆえに「してしまう。」のである。



 自然界における生物進化というものは、全て「結果」であって、「結果」の全てが常に正しい結果をもたらす論証はなく。むしろ無意識による「結果」しか導き出すことはない。過去の「結果」を教訓にし、どのような選択をするのかの判断が伴ってこそ意識的「目的」となるのであって、結果の全てに後から意味をこじつけていれば意識的目的を見失うのは当然である。

 現在の進化生物学的には「結果」こそが全てである。淘汰の結果として生き残ったものを「生物」と分類しているからであり、その結果的分類という本来手段であるはずのものが目的へとすりかえられているからである。

 ヒトの多くは本能によって促される感情こそが意識であると錯覚しがちであるが、感情という大脳辺縁系の反射自体は自己の意識的選択によって促されるものではなく、これは意識ではない。ヒトの意識の9割以上は感情に基づく条件反射という無意識であることを忘れるべきではない。

 現在の生物学が生き残っているヒトの本能習性の全てに意味があると言い張るのは、生存という「結果」があたかも絶対的「目的」であると勝手に決め付けた上での論証しかしていないからである。生存という結果だけを絶対視し、生存しているヒトの遺伝的本能の全てに何らかの意味があると決め付けるのは、生物学上の「神話」に過ぎない。

 現在の生物学が優生学の間違いを指摘出来ないのは、「神話」に基づく「結果の全てに意味がある。」とするこじつけこそが科学的論証であると錯覚しているからである。

 感覚的違和感に基づいた疑念には論理的根拠はない。「自分だけが、なぜ自分なのか。」という感覚的違和感同様、それは疑う必要性のない感覚的違和感でしかないのである。


Ende;
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