○独裁洗脳。
国家単位での独裁だけを考えても、独裁の構造を知ることは出来ない。
東電内部における統率的な危険性放置というものも、イジメにおける統率的暴力も、これらは全て独裁の雛形である。
ヒトという種の生物は動物本能的な社会形成習性によって、封建的な統率による協調行動を採ることによって、誰にも意思目的のない暴走集団と化すのである。
シエラレオネの少年ゲリラにせよ、ナチスやポルポトにせよ、暴力による統率に対して誰も批判しなくなれば、ヒトは恐怖によって行動が整理され、目先の安心だけを求めて統合的論理検証を放棄するようになる習性がある。
ヒトは、行動を決定する場合に気分感情が優先されがちである。統合的な論理検証による自律的判断を「自分勝手で集団の規範意識に反するもの」であると錯覚するのは、それを気分的な思考バイアスだけで判断しているためである。
規範意識というのは、ヒトの脳の報酬系が持つ条件反射性を利用した、気分的な恐怖と安心を用いた条件反射的な動物的行動学習「シツケ」であり。無意識である。「多数から罰を与えられる。」ことに対する気分観念的拒絶反応を用いて、盲目的に統合的論理検証をパスして短絡的に多数権威への服従迎合性を刷り込み学習しているだけである。
動物的な行動学習による行動選択というのは、気分感情によって選択されるようにしているだけであって、個人が自発的に統合的論理検証を行っている訳ではない。
誰にも自発的論理検証が行われることなく、無意識的条件反射による気分的行動バイアスだけで行動が決定されていれば、あらゆる危険性は放置され、暴走破綻に至ってでも本質的意識である論理検証性は発揮されることがない。
ヒトという種の生物は、本能的に組み込まれた報酬系によって促される行動バイアスによって行動を左右されがちである。報酬系とは気分感情のことであり、脳内麻薬のことである。
いうなれば、ヒトという種の生物というのは、独裁暴走状態への快楽誘導システムが予め組み込まれているようなものなのである。
予め組み込まれた本能的な快楽誘導に流されるのは、そこに本質的な主体性のある統合的論理検証と、それによる批判精神が欠落しているからである。
規範意識という無意識的行動バイアスこそが人間としての社会性であると言い張る生物学や認知神経科学界は、組織内部に自己検証性が全く欠落しており、明らかに統率的独裁暴走状態に陥っているのである。彼らは脳トレ類による権益を温存することばかりを優先し、脳トレ類における実質的な「頭が良くなる根拠」が間違っていたことを黙殺隠蔽しようとしているのである。マスコミも視聴率という組織の利益を優先し、科学的論証を無視して黙殺隠蔽に加担しているのである。
これはもはやキチガイ集団としか形容できない。
東北大:川島隆太による脳トレというのは、認知症の治療や、特定能力の向上にはなるものの、「頭が良くなる。」ことの論理的根拠は存在しないのである。「○○認知能力。」などと専門用語をでっちあげておけば大衆観念的には「頭が良くなる。」と勝手に勘違いすることも可能であろうが、これは単なる権威性を利用したペテンに過ぎない。
強迫観念を利用した特定能力の行動学習というものは、個人の主体的論理検証性を失わせ、気分感情による無意識行動だけに行動を整理してしまうことになるのである。その典型が「偏差値の高い無差別殺人犯。」なのである。
ワーキングメモリーの拡大といっても、これを算数暗算だけに特化してしまえば、暗算以外に応用が効かなくなる。ワーキングメモリーの汎用性を獲得するためには、強迫観念を利用した「これさえやっときゃ、頭が良くなる。」的な短絡的鵜呑みをするのではなく、それが本当に「頭が良くなるのか。」を論理的に検証することも必要なのである。
何でもかんでも権威マスコミの扇動を鵜呑みにするからバカなのである。
こういった話は動物行動習性的な「社会性」には欠けるであろう。相手のご機嫌を窺って、相手の気分が悪くならないように、相手の感情にとって都合の悪い話、「お前さんは、こんなに頭が悪いんだよ。」という認識を一切させず、短絡的に「これさえやっときゃ、お前さんは頭が良くなるんだよ。」的に誘導してバカに陥らせていた方が人気も出るし金も儲かるのである。
それを「社会性」だというのであれば、洗脳も独裁も「社会性」である。それは無能で無抵抗なバカの集団に過ぎない。
マキァベリの言葉というのは、ヒトの頭の悪さを鋭い観察によって分析したものであり、自分というヒトの頭の悪さを認識させるのにはとても素晴らしいものである。ヒトというのは習性を利用すれば簡単に欺くことが出来るものであることを認識し、同時に自分自身が騙されないよう検証する心が大事である。
マキァベリの時代というのは戦争虐殺が横行していた時代であるから、これを外交に利用乱用しなければならなかったという現場の判断も必要だったであろう。それをただ観念的に拒絶し、気分的に嫌な話として無視し、意識から外し、「なかったこと。」にするからヒトという種の動物はいつまでもバカなのである。
もしマキァベリがただの悪人であれば、自分の手の内を開陳したりせず、自分の利己的利益のために利用していたはずであり。本当の嘘つき悪人というのは相手の気分を害するような嫌な話は一切しないものである。
本当の嘘つきや占い師というのは、「他人の話を信用しないのは、心の狭い態度だ。」などと「心=感情」という錯覚を利用して盲目的に論理的根拠を考えさせずに信用させようとするものである。
詐欺師というのは外見上「正直者」を装うのである。その装い外見という「見た目」に意識の9割以上を奪われているからこそ、論理的思考が1割以下になってしまい、結局は気分的行動バイアスとして論理検証が放棄されるのである。
「見た目」の印象というのは、無意識下に刷り込み行動学習された気分的バイアスに過ぎない。育った環境に依存した固定観念、マインドセットに過ぎないのである。
子供が大きな声で挨拶をしていれば、文系大衆観念的には「元気な良い子供である。」と論理的根拠もなく勝手に思い込み、裏でイジメを実行していても誰も気付かないのである。
挨拶というのは連続殺人犯の多くは普通に出来るものであり、当人の人格とは全く関係のない見た目の印象を用いて動物的な「社会性」として、相手を気分的に安心させるだけのものに過ぎない。
気分的安心を優先してしまうから安全性が蔑ろにされるのである。
東大学長が述べた「全てを疑え。」というのは、気分観念的に誰彼構わず猜疑心を持てということではない。先ずは自分自身の固定観念マインドセットを統合的に論理検証することからはじめることである。論理検証なくして学問もすったくれもあったものではないのである。
あらゆる可能性の全てを、考えられうる限りに検証して初めて学問としての価値があるのであり、これは自発的に考えること自体が好きでなければ出来ないものである。従って学力成績という抽象化された「エサ」報酬につられて、強迫観念的に学力成績を獲得しただけの者には自発的思考が存在せず、何も自発的には論理検証出来ないのである。
東大学長の「全てを疑え。」というのは、いきなり大学に入ってから唐突に言われて出来るようなものではない。小さい時期から自発的に行動を選択出来るように育てられていなければ、自発的な論理検証というのは困難を極めるのである。
「自分は自発的に物事を検証するよう育てられていない。」などと言い出すのも、これもまた「甘え」に過ぎない。自分の頭の悪さを自分以外の原因になすりつけるというのは子供の論理である。「何のための学力であるのか。」を自己検証せずに、ただ環境に流され無意識に行動学習していた頭の悪さ、自分の自発的な「気付き。」の欠落性を認識することから始める必要がある。
「自分は頭が悪い。」と称して、気分的に凹むだけでは論理検証には全くならない。なぜ気付かなかったのか、その理論的分析によって、どのようにすれば気付くことが出来るようにできるのかという「バカさの再発防止策」を確立すれば、充分学問として成立するのである。
まあ、大学職員がバカなら学問として認定されないかも知れないが。そんな世間的な評価成功を目的にしてはならないのである。あくまで自発的に研究をすることが学問の真髄であり、現在の生物学や認知神経科学のように流行に流されるばかりで何ら論理的検証を全くしない公的組織というのは社会的負担にしかならないのである。
Ende;