書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

返事がない。

2012年08月30日 17時41分55秒 | 日記
 ブログ記事をうpすると、プロキシエラーとかって表示されて、リモートサーバーから返事がない。

 でもこのキャプチャ画像はちゃんと返事があった。

 記事も返事はないけどうpは出来る。どうしたんだろ、ツイッタとの連携にも不具合が出てるらしいし。

 がんばれNTT。
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推す。

2012年08月30日 17時39分00秒 | 日記

○推すプレイ。

 防衛相はオスプレイに関わるアメリカの主張を鵜呑みにするつもりなのかしら。

 米軍は操縦士の人為的事故だとか主張しているけど、特殊技能が必要な機体であるなら、それは機体の根本的欠陥とも言えるでしょうに。

 試乗会を開いても論理的安全性が保証されるわけでも何でもなくて、単なる世間的ポーズにしかならない。地方知事さん達がしっかりしないと、米軍組織の利益誘導にそそのかされる可能性は高いです。

 航空機の安全性に関しては畑村洋太郎が専門なんだから、畑村が安全性検証を主導すれば良いのに。チルトローターVTOL航空機っていうのは、軍用のみならず民間でもこれから発展する可能性のあるものかも知れないから、キチンとした安全性検証はやっておいても損はないと思うのだけど。

 ナセルを前方に倒した時に後ろから風が吹くと失速墜落するとかって話なので、一定の対地高度が得られるまでナセルが倒せないようにするとか、後ろにも対気速度計が付いていて後ろから風が吹いて来たらナセルを上に戻すようにするとか、色んな対策が出来るのではないだろうか。

 何だったら一機自衛隊で購入して検証しても良いのではないだろうか。それとも売るつもりはないのかな。



Ende;
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苦い。

2012年08月30日 17時35分20秒 | 意識論関連

○苦い。

 ヒトの多くは本能的に、より目先の利己的利益を優先しがちな性質がある。そのため自分や自分が所属する集団にとって利己的利益が得られそうな場合には、簡単に社会全体の持続可能性や安全性を蔑ろにする傾向がある。

 これは行動が脳の報酬系が促す気分的バイアスによる条件反射的無意識選択しか出来ないためであって、ヒトというのは本能的には意識が狭窄になるような仕組みが組み込まれているのである。

 クボタ式「サル回し」で満足する親というのも、子供が強迫観念的に親大人に服従迎合することや特定能力を獲得したことに満足しているだけであって。子供自身の本質的自発性による自律的人間性が欠落する危険性を無視しているのである。



 ヒトの多くは無意識本能的に行動していても概ね安全である。しかし、特殊な状況や環境に置かれた場合には無意識的な本能的行動だけでは本能が促す危険性を抑制することは出来ないのである。

 あらゆる「人災」や犯罪というものは、当人に自律的な社会的責任を取る意欲や意思が欠落しているためであり、結果的にも統合的な論理検証性も欠落することに陥るのである。

 他者や世間からエサを提供されることと引き換えに獲得するあらゆる特定能力というものは、目先の気分的満足を追求するような意識の狭窄性を醸成するものであり。幼少期からクボタ式「サル回し」という脳の報酬系の機械学習性を用いた特定能力「学習」をさせておけば、自律的には何も考えない典型的バカが出来上がるのである。

 現在の大人の多くが、規範意識という多数他者への迎合服従こそが人間性であると錯覚しているため。いわば「バカを連鎖」する形で子供にもバカげた無意識的刷り込み学習をしなければ不安に陥るため、強迫観念的に規範意識の刷り込み学習に執着してしまうのである。

 大人自身が多数他人や権威への服従迎合(規範意識という無意識)によってのみ反社会的行動が抑制されている場合、子供の反社会的行動を抑制するためには多数他人や権威への服従迎合でしか実現出来ないものであると錯覚することになるのである。


 気分によってでしか行動が決定しないのであれば、論理検証的な自律行動は選択されることはない。科学的安全性の検証よりも、多数や現状権威者への服従による気分的行動バイアスでしか行動が決定しないからである。

 本論が世間的に周知されないのは、気分的に嫌な話を含むからであり。嫌な話を意識から外し、無視し、「なかったこと」ことにするのは本能的行動バイアスによる必然的結果でもある。

 「良薬口に苦し。」とも言うように、薬というものは必ずしも快楽を与えるようなものではない。逆に快楽を与える麻薬であれば、簡単に中毒に陥るものなのである。

 現在の脳科学界というのは、脳トレだのアハ体験だのクボタ式「サル回し」さえやっておけば大衆のご機嫌を取ることが出来、テレビの視聴率やスポンサーの売上だけが優先されるという「組織の利益を優先し、安全性を蔑ろ」にしているのである。

 現在の脳科学界というのは生物学における、報酬系によって本能的に獲得する動物的行動学習こそが知能の全てであるというとんでもない大間違いに基づいた知能論を展開しており、極めて非科学的なのである。

 報酬系によって本能的に獲得する能力を知能とするのであれば、振り込め詐欺であろうと、無差別殺人能力であろうと、原発の危険性を放置してまで組織の利益を優先することも「知能」であるということになる。こうした利己的行動というものこそが、生物学上の絶対的正義、「生体にとって有利」な行動学習だからである。

 社会や地球環境を喰い尽くしてでも目先の「生体にとって有利」な行動を採っておいて、持続可能性も安全性もすったくれもあったものではない。

 そもそも本能の全てが生体にとって常に有利な行動を必ず促す論理的保証があるわけではなく、高血圧患者が塩分を欲したり、麻薬中毒患者が麻薬を欲するように、本能的習性の全ては「結果」以上の何も及ぼすことはないのである。

 あらゆる本能的な「結果」を踏まえ、社会全体の安全性や持続可能性を確立するのかを統合的に検証するのが本質的意識である。

 ところがヒトの多くは目先の欲望の意識を奪われ、簡単に自分や子孫が生活維持していかなければならない社会全体の持続可能性や安全性を見失うのである。



 自分の論理的思考の欠落を棚上げにしておいて、気分が悪くなったことだけを理由に他人を無神経呼ばわりするのは支離滅裂である。

 ヒトの多くは自分の気分が悪くなる話に対し、自分の気分が良くなるように相手の悪口ばかりを考えることによって事後正当化し、自分自身の過ちから意識を引き剥がし無視するのである。

 自分の気分が良くなるためには異常に頭が働くが、自分自身の頭の悪さは一切認識することはないため、論理的思考は全く働かないのである。

 バカがバカたりうる所以とは、自分自身の頭の悪さを自分自身で論理的に認識しないからである。


○小さな子供。

 小さな子供に規範意識を植え付けることは致し方ないことである。小さな子供に対して社会全体の持続可能性や安全性について説明しても理解させることが困難であるため、報酬と罰、すなはち「アメとムチ」による気分的行動バイアス利用した暫定的統率を行わざるを得ないからである。

 しかし、報酬と罰という気分的な快楽や恐怖を用いた刷り込み学習的な規範意識というものは、個人の自律的な社会的責任判断能力を喪失させ、無為無策に多数派迎合することによる、集団洗脳状態を招く危険性がある。

 短絡的に子供を服従させることを主眼とせず、自発的に物事を判断できる大人へと育てるためには、単なる他人との競争ではなく、主体性ある個人の純粋行為というものが欠かせないのだ。

 小柴昌俊が勧める「これなら一生続けることが出来る、そういうものを見つけなさい。」という話は、主体的純粋行為というものは他人からの評価報酬によって見つけられるようなものではなく、主体的純粋行為というものは主体的に自分自身の意思によって見つけ出さなければならないものなのである。

 他人の顔色ばかり窺っているというのは、謙虚なのではなくて、他人からの評価を欲する卑屈さから生ずる行動なのである。多くの親達は自分自身の卑屈さを正当化するための屁理屈ばかりに意識を奪われ、主体性ある自発的思考というものの価値を蔑ろにするため、多くのヒトから自律判断が失われることに陥るのである。

 バカの連鎖を止めるためにも脳科学や生物学の怠慢を放置すべきではない。


Ende;
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サル回し。

2012年08月30日 17時32分37秒 | 意識論関連

○サル回し。

 チンパンジーの瞬間記憶能力というのは、エサを用いて脳の報酬系が促す条件反射による動物的な行動学習である。

 文系大衆観念的には記憶容量や計算速度といった断片的能力の向上こそが知能であるとされているが、これは大衆観念に基づく錯覚に過ぎない。

 偏差値が高い無差別殺人犯というのは、チンパンジーが充分なエサを獲得できなくなった時に暴れる、脳内麻薬の禁断症状である。

 エサを用いた脳の報酬系によって促される行動というのは、気分的な行動バイアスを用いた意識誘導である。そのため本質的な自発性や主体的判断は失われ、自律的な社会的責任判断は出来なくなってしまうのである。

 クボタ式「サル回し」学習や、それに類する学習手法というのは、物質的なエサは提供していないが、抽象的な偏った価値観を植え付け子供の意識を誘導することによって強引に特定能力を獲得させる手法であって、特定能力をどんなに獲得させても、これは人為的サウ゛ァンを作り出しているようなものであって、天性の才能とは言えない。

 サウ゛ァン症候群の場合は当人の自発性があるので、環境他人から与えられるエサの禁断症状は出ないが。環境依存的に獲得させるクボタ式「サル回し」の場合は、いわば偏差値の高い無差別殺人犯の大量生産を促しているのと同じである。

 しかし、脳科学者達は自分達が脳トレだのアハ体験だのといった断片的能力獲得を「頭が良くなる。」と言い張っていたことを事後正当化しているために、クボタ式「サル回し」を否定する訳にはいかなくなっており、その危険性を隠蔽黙殺しているのである。脳トレ類にはゲーム会社などのスポンサーの利益が介在するために、民放各社も情報隠蔽に加担しており、悪質である。



 大衆観念的には子供が大人のように振る舞っておけば気分的に安心で満足であろうが、クボタ式「サル回し」によって促される行動というのは、極めて表面的で主体性ある自発的行動の結果ではない。

 オウム教団によるマインドコントロールによって、教団にとって都合の良い、統率的で無批判な信者を作り出すことは非常に簡単なことである。クボタ式「サル回し」というのは子供のマインドコントロールによって表面的に「大人のご機嫌が良くなる行動」を強迫観念的に刷り込み学習しているだけであって、子供同士で自然発生する本能的イジメ行動を止めるような自律的判断能力を喪失させる極めて危険なものなのである。

 バカな親なら表面的にご機嫌取りをしてもらえば簡単に「頭が良くなった。」と錯覚するであろうが、これはイヌがシツケ訓練によって扱い易いイヌになり、自分の気分が良くなったことを短絡的に「頭が良い。」と錯覚しているのと同じである。

 ヒトの多くは脳の報酬系が満足し、自分の気分が良くなりさえすれば、相手の頭が良いものであると錯覚する性質があり。それゆえヒトにとって気分が良くなるようにシツケがされたイヌであっても「賢い」と形容するのである。

 イヌは所詮イヌである、原発を暴走させた東電社員というのは、権威に対して従順さを発揮するだけで、自律的な社会的責任判断が喪失していたための結果であり。大衆観念的な規範意識という感情を用いた行動バイアスによる無意識的集団迎合性を「社会性」であると勝手に錯覚しているための結果でもある。

 規範意識という大人から強制された抑圧のはけぐちとして、子供集団内部でのイジメという差別排除が醸成されているとも考えられ。子供自身の自律的判断による抑制が働かない程に大人が子供を無意識に抑圧してしまっているのである。



 ヒトの多く、大衆の多くは本質的意識による自律的な社会的責任判断能力など、自分だけは必要のないものであると勝手に思い込むのであろう。故に放送大学では「技術者倫理」などという科目があり、あたかも技術者だけが自律的に社会的責任判断をしておけば良いものであると錯覚しているのである。

 無意識的に目先の気分的安心を追求するだけで、合理性ある論理検証という本質的意識による自律的な社会的責任判断というのは、本来例外など認められるようなものではない。

 どんなに過去に偏差値が高くても、本質的意識とは何かを認識したがらないというのは人間性自体の怠慢であり、人間として出来損ないである。

 人間として出来損ないな社会集団であれば、あらゆる「人災」は原理的になくなることはない。バカの集団だからこそ問題がいつまでも解決出来ないのである。自分自身の頭の悪さを認識出来なければバカも「人災」も原理的に治らない、

 ヒトの多くは気分的に恐くない危険に対しては意識から外し、無視し、「なかったこと」にしておきたがる傾向がある。逆に気分的に安心で満足であれば危険なことを統率暴走的に邁進することも少なくないのである。

 気分感情だけで行動が決定しておいて、他人に責任云々を求める権利はない。他人に責任判断を求めるのであれば、まず自分自身が合理性ある論理検証をしなければならない。

 多数派同調バイアスというのは、多数派に逆らうことが気分的に嫌であるという本能的な社会形成習性によって促される「結果」であり、こうしたバイアスによってヒトという種の生物は自律的な論理検証をしなくなる習性として現れるのである。

 本能習性に無為無策に流されている自己の無意識性を放置しておいて「自由」もすったくれもあったものではない。



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逸脱と同調。

2012年08月30日 17時25分20秒 | 意識論関連

○逸脱と同調。

 ヒトが本来逸脱的であるのか、それとも調和的であるのか。この議論には構造的問題がある。

 シエラレオネのゲリラ集団の内部で育った少年にとって、ゲリラの価値観に迎合することはゲリラ内部においては逸脱的とは言えない。

 東京電力内部において、原発の危険性を放置することは東電内部においては同調的、調和的であると言える。

 逆に言えば、ナチス政権下においてナチズムに反対することは第二次世界大戦下のドイツ社会にとっては逸脱的であると言える。

 ガリレオ:ガリレイによる地動説であっても、当時の社会においては逸脱だったのである。

 単なる逸脱性や同調性だけを論じても、自律的な社会的責任判断とは無関係である。

 逸脱とか同調というのは多数派を基準にしているだけであって、少数派は常に逸脱として扱われることになるため、多数派と少数派のどちらが人間としての本質的社会性に値するのかの議論が欠落しており、多数派だけが常に正しいという勝手にな前提に基づいた議論にしかならない。



 ヒトの多くは多数派同調が促す気分的安心を論理的安全性と取り違え、錯覚することで不毛な議論に陥り真理を見失うことに陥るのである。

 ヒトの多くは体育会系集団のように気分感情を用いた強制的意識誘導による規律意識を刷り込み学習させておけば気分的に安心であるため、刑務所のような規律意識を強制的に刷り込み学習させておきさえすれば再犯をしなくなるものであると勝手に錯覚しているため、漫然と刑法の厳罰化さえしておけば気分的に安心なのである。


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