書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

不透明性。

2012年08月07日 19時23分52秒 | 意識論関連

○不透明性。

 動物における行動学習というのは、気分感情によるバイアスに依存し、本能習性的な「結果」しか導き出さない。

 制度法律という環境に依存して自発的自律的に社会的責任判断を行わないヒト達というのは、行動の全てが動物的な本能習性による感情気分的バイアスだけでしか行動選択がなされないからである。

 「エサ」に対する機械条件反射的動機によってのみ行動が促されることしか経験していないヒトにとって、自律的に論理検証することは環境的な「エサ」が得られず気分感情的に満たされることがないため、自律的論理検証自体を全く行わないように行動学習してしまうのである。

 平たく言えば、「バカになるように学習してしまう。」ということである。

 現在の脳神経科学上における知能論とは、動物的な行動学習結果だけを知能と取り扱っており、人間としての知能の礎となる自発的論理検証性を無視し、意識から外し、「なかったこと。」にしている。これはすなはち、ヒトという種の生物が持つ危険性自体を「なかったこと。」にしているのであり、あらゆる危険性放置による「人災」の源でもある。

 「人災」において、制度法律手順手続きという環境に全ての問題があるという結論に終始してしまえば、個人の自律的な社会的責任判断はどうでも良くなってしまう。

 個人の自律的判断を問題視した場合、どういうわけか個人の人格を糾弾懲罰によって解決しようとする傾向が文系大衆観念的にはあり。これがあらゆるヒトが引き起こす「人災」への対応能力を喪失させている。

 同じ「ヒト」が引き起こす問題である以上、個人に罰を与えて気分的に満足するという無意味な解決法自体を放棄しなければならない。

 「ヒト」である以上、初期的には動物であるから、動物的な行動学習によって条件反射的な無意識が暴走破綻という結果を導く可能性は誰にでもある。それをたまたま重大事象に至った対象だけを糾弾し、懲罰という全く危険工学的に無意味な解決策を用いることによって得られるのは、気分的安心や精神的満足だけであって、何ら「ヒトという種の生物に普遍的に見られる危険性。」の原因究明にも、再発防止策の策定にもならない。

 
 犯罪者の行動の「結果」に対して、単なる気分的安心満足を得るためだけに刑罰の重さの妥当性を計るだけでは、犯罪者がなぜ犯罪を犯すのかの根本原因を無視しているからこそ再犯が繰り返されるのであって、個人の自律的な社会的責任判断能力が全く育まれずに、ただ集団への服従迎合という規範意識という無意識的条件反射を行動学習させることしか司法は行っていない。

 イヌの場合はシツケ訓練によって外見上の服従迎合性を行動学習させることも可能であるが、これは一種の洗脳であり、エサと引き換えの快楽誘導の結果である。良くシツケられたイヌというのは、飼い主との信頼関係による気分的満足が不可欠であり、決して罰を与えたりはしないものである。

 罰という暴力性を用いた統率によって集団規範を強制しておいても、これは暴力を連鎖するだけであって、イヌであっても懲罰的なシツケ訓練をしておけば暴力的なイヌになるものであり。懲罰というのは暴力を連鎖させるだけの無意味な観念でしかないのである。

 イヌをヒトにとって都合の良いようにシツケるためには、エサを用いて都合の良いような行動をするように誘導しなければならない。しかし、ヒトでこれを行っても、ヒトの脳というのはイヌほど単純ではない上、他者との関係性による本能的な社会形成習性によって、目先の環境に対応するだけの規範意識しか行動学習せず。結果、刑務所を出所した途端に規範に従わせるタガが外れて再犯を繰り返すことにも陥るのである。

 危険人物を社会から隔離することと、危険人物がなぜ危険であるのかの原因究明と危険性除去とは別のものであって。短絡的に司法懲罰上での妥当性を測っても何ら具体的で効果的な社会安全性の確立には寄与しない。

 一つの重大事象の陰には多数の小さな事象が隠れているものであり、重大な「結果」を引き起こした個人だけに懲罰を与えているだけでは根源的問題解決にはならない。ヒト全体における危険性を認識するためには、懲罰を与えることによって「自分達とは無関係。」だと意識から外す気分的満足によって、ヒト全般にも存在しうるヒトの危険性を無視することは人間として無責任であることを認識すべきである。

 「これさえやっときゃ。」的な短絡的な文系大衆観念というものは、目先の集団の規範意識さえ動物的に行動学習してさえおけば全ては解決するというバカげた気分的安心の追求しかもたらさない。

 司法への過剰な盲目性というのは、司法権力にお任せしておけば全ては解決するものであるという錯覚によって気分的に安心しているだけに過ぎず、合理性のある効果的対策が放棄されてしまうのである。



 危険人物が危険たりうる所以とは、自己自身による自律的な社会的責任判断が一切されず、本能感情欲望のままに学習された行動バイアスでしか行動が決定しない無意識性によるものである。これは通り魔であろうと原発技術者であろうと共通するヒトという種の生物の危険性であり、あらゆる「ヒト」に共通する危険性でもある。

 「ヒトという種の生物には、普遍的に共通する危険性が存在する。」ことを認識することは、気分的拒絶反応を促し、意識から外したがる習性傾向がある。犯罪者だけを特別に異常であると決め付けることによって、自分達の内部に潜む危険性を無視して満足するのである。だから懲罰という短絡的最終解決しか行われず、合理的で効果的な対策が全く行われないのである。

 司法による再犯防止対策というのは、生活における対策だけであって、根本的な個人の自律的社会的責任判断能力とは無関係な「取り繕い。」に過ぎず。司法刑罰自体の持つ問題点を撹乱し、司法権益の保守/体制維持だけが目的であることに変わりはない。

 司法権力にとっての「組織の利益を優先し、社会安全性を蔑ろ。」にするこうした手口は、社会的に無責任で利己的であることを民衆は認識しなければならない。



 本質的な意識、知能というものに言及すれば、自ずと現在の社会体制自体への批判を伴うものであり。それは観念的拒絶反応を促すものでもある。

 むしろオウム教団のように「反社会。」だとか短絡的な解決法を提示しておいた方が大衆の脳を酔わせ、簡単に洗脳することが出来るものでもある。しかし、本論は常に脱洗脳であり、気分や感情には迎合しない徹底した合理性追求を求めるものであるため、多数人気が得られないのも必然的結果でもある。

 ヒトは誰一人として現在の社会制度や流行を自発的に選択しているわけではなく。単なる本能的迎合性によって気分的に安心しているに過ぎない。平たく言えば、間違った社会制度の中で刷り込み学習してしまっていて、気分的に慣れて安心なだけなのである。

 「人は、長く続くことは永遠に続くと錯覚しがちである。」とは経済心理学者の言葉である。ヒトは長く続く体制こそが絶対的な社会安全性であると錯覚しているだけであって、何ら合理的根拠はない気分的安心を安全性と勘違いしているのである。

 ジャック:デリダが論ずる構築性とは、気分的な安心による思考検証の停止によってもたらされる権威制度法律への過剰な信頼によって作り出されるものであり。脱構築可能性というのは気分的安心によって停止した論理検証を取り戻すことによって実現されるのである。

 合理的根拠に基づく安全性を追求せず、気分的安心だけで満足しているのは洗脳以外の何物でもない。洗脳というのは必ずしもわかりやすいカルト集団だけではなく、ヤクザを「カッコイイ。」などと形容する子供じみた観念や、権威や制度法律にさえ規範意識を発揮して服従迎合しておけば全てはうまくゆくという観念もまた一種の洗脳であると言える。

 要するに思考が停止していればバカげた結果になるのは当たり前であり、バカげた結果に陥るまで放置無視していることの全ては洗脳状態なのである。

 「単純作業は心がキレイになる。」などという観念も、単に単純作業によって意識狭窄を促され、気分的に楽になったことを「キレイになった。」などと勝手に思い込んでいるに過ぎない。

 権威や既存の社会に何の疑問も持たずに、盲目的に信頼して服従迎合しておけば、気分的に楽になることは簡単であろう。それを「心がキレイになった。」と称してバカになっていれば安心で満足なのは当たり前である。

 脳トレーニング類の問題を解いて、「頭が良くなった。」などと錯覚するのも、問題を解けた時に生ずる気分的快楽を短絡的に「頭が良くなった。」と勝手に錯覚し、「思い込んで」いるだけに過ぎない。

 自分達のマインドセットを放置しておきながら、他人にだけ自律的な社会的責任判断を要求するというのは無責任極まりない身勝手な言い分である。

 放送大学における「技術者倫理。」の講義なども、特定の技術者だけに社会的倫理を要求しておきさえすれば、自分達の無責任性が放棄できるものであると勝手に錯覚しているに過ぎない。だから「勇気が出る。元気になる。」などという観念論を持ち出すことになるのである。

 何ら合理性のない観念に基づいていて、一体どこが学問であると言えるであろう。バカになることを促しておいて学問もすったくれもあったものではない。

 脳神経科学における、動物行動学習ばかりを知能であるとする観念は、本質的な知能、統合的な論理検証判断能力についての議論を無視するものである。脳神経科学というのは生物学に分類されており、生物学における無意識的「結果」と意識的「目的」を厳密に区別しない観念は、脳神経科学においても蔓延しており、何ら人間としての本質的知能に言及することはなく、「ヒトという種の生物における危険性。」についても全く触れられることがないのである。

 動物における行動学習をどんなに研究しても、動物における正常性しか論証されることはなく、人間としての正常な思考とは無関係な話である。

 アイヒマン実験において盲目的に権威に服従することは、生物的には正常な行為であり。こうした生物的正常性ばかりを論証しているだけでは本質的な人間としての正常な思考に基づく自律的な社会的責任判断について言及されることは原理的にない。

 アイヒマン実験の著者であるミルグラム自身も、「Cyberneticsの観点から。」などと称して生物学的なこじつけを正当化しており、こうした生物学のこじつけを許すことは大衆観念的にはヒトという種の生物の正当性の論証であると錯覚出来て満足で安心かも知れないが。社会安全性にとっては障害にしかなっていない無責任な観念であることを認識すべきである。

 Cyberneticsの観点からは、生物的正常性を論証するだけであって、生存してさえいれば何でも許される非人間的観点なのである。だからこそ優生学などという、わかりやすいオカルトまでもが温存されているのである。

 生物学自体がオカルトであるからこそ優生学が反証ずに温存されているのであり。これはもはや学問としての社会的要請には全く応えていないのであり、公金を用いて研究を進める価値など存在しない。

 放射性に耐性を持ったヒトだけに淘汰されれば、生物的には「生存」という「結果」は得られるであろう。それでもヒトという種の生物の優生性の論証にはなるのであろう。それなら原発が暴走しようと、地球環境が崩壊しようと、どうでも良くなるのである。こんなバカげた生物学上での正義を放置するべきではない。



 ヒトが引き起こす「人災」の全ては、動物行動学習による固定観念化というマインドセットが原因であり。動物行動学習だけを知能として扱う限り、もはや人災の全てはその場限りの対処療法しか行われなくなる。

 だからこそ国会による原発事故調査委員会は「制度法律がなかったことが原因。」などというバカみたいな結論に至るのである。「制度法律がないから自律判断が出来ません。」などというバカげた話に何の意味があろう。

 そもそも制度法律に依存しているからこそ自律判断が出来ないのであって、これは本末転倒である。

 動物本能的なマインドセットを正当化するというのは、マインドセットをマインドセットするという自己増殖性の結果であり。もはやバカの連鎖に過ぎない。バカというのは連鎖するのが大好きなのである。故にバカというのは暴走破綻するまで自己抑制することが出来ないのである。

 それこそ幼少期から虐待されて育ったわけでもないのに、短絡的に連鎖を繰り返すというのは当人の短絡性にこそ問題の原因がある。どういう育て方をされたとか、時代だの社会だの制度だの法律だのといった既存の価値観を鵜呑みにする短絡的固定観念によるマインドセットこそが、あらゆる「人災」の根源的原因なのである。

 生物学的な習性や傾向性に無意識に流されておいて、社会安全性も持続可能性にも言及することは原理的に不可能である。

 「気分が荒む。」からといって論理検証/合理性追求をしないというのは、これは単なる「甘え」に過ぎない。盲目になることを「心がキレイになった。」などと称して座禅で満足していれば社会安全性が高まるわけではなく、単に個人的な気分の問題に過ぎないのである。その区別すらつかないのであれば、あらゆる「人災」において他人に文句を言う権利はないのである。

 自律的な社会的責任判断というものは、決して自分勝手な観念的決め付けを指しているわけではなく。また、多数で共有して安心するようなものでもない。自律的な社会的責任判断というものは、統合的な論理検証に基づく合理性を徹底的に追求してこそ可能なものであり、身勝手に判断するようなものではなく、公開された上で論理的検証を受ける必要性がある。

 しかし生物学界は本論に対しての論理的反証も全くしないまま、ひたすら隠蔽黙殺という不透明性を発揮するのは。彼らが自分勝手な「組織の利益を優先」しているからに他ならない。

 公的組織の閉鎖性や不透明性というのは、組織の利益を保守する以外に理由がないからである。



Ende;
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動物的行動学習と思い込み。

2012年08月07日 19時22分28秒 | 意識論関連

○動物的行動学習と思い込み。

 記憶能力の高さというのは、逆に言えば思い込みの激しさと表裏一体である。

 現在の脳神経科学においては、動物的な行動学習記憶能力だけを取り上げ、これを短絡的に知能であると決め付けているが。動物行動学習というのは、単なる気分的好き嫌いによるバイアスだけで学習記憶された行動を促すだけであって、必ずしも論理的思考検証による判断を伴っているわけではない。

 更に言えば、一度動物行動学習した好き嫌いによる行動バイアスだけでしか選択出来ずに、論理的思考検証判断が放棄されるからこそ、ヒトの多くはバカに陥るのである。

 従って、現在の脳神経科学における文脈からは、ヒトという種の生物における本質的な人間としての知能、論理的思考検証判断能力は検証されることはないのである。



 親や教師からの評価という、抽象化された「エサ」に対する条件反射的動機でしか物事を考えたことがない者の場合。これは環境から与えられることによる気分的好き嫌いによる動物的行動バイアスとして条件反射的に刷り込み学習されているだけであって、これによって自主的自発的な動機による思考が阻害されるようになるのである。

 無意識下に刷り込み学習されてしまった行動バイアスに「整理」されてしまうことによって、意識的な論理検証判断による合理性追求が失われてしまうのである。

 動物的な行動バイアスに囚われている者にとって、論理検証というのは気分的に「嫌」という拒絶反応を引き起こすため、何が何でも理性を観念的に否定する。

 カントの純粋理性批判に異常に執着したり、合理性追求というものを利己的動機による断片的理性と混同するのも、論理的思考というものへの非論理的拒絶反応を観念的に正当化するための言い逃れ/取り繕いである。




 東電の社員達は、会社の方針に服従迎合することによって、会社内部だけにおける評価や出世を求めるように、動物行動学習的に行動記憶をしていたからこそ、自律的な社会的責任判断を放棄したのである。

 目先の利己的利益を優先することは本能的な行動バイアスによって選択されるものであり。統合的な社会全体の利益にまで意識を働かせるのは本能的行動バイアスに依らずに自律的思考なくして原理的に不可能である。



 アイヒマン実験においても、権威に服従する行動バイアスというのは動物本能的な気分によるものに過ぎず。どんなに権威に対してヒステリックな訴えを述べても、結局自律的に権威の命令を放棄するかどうかとは関係がない。

 重要なのは自律的な論理検証による判断選択であって。無意識に学習された行動バイアス感情に流されないことである。

 無意識な固定観念的行動バイアスというのは、常に感情と一体であり。異常なまでに論理検証を拒絶する。残念ながら当人自身は観念的拒絶反応を異常だとは一切「思って」おらず、異常性の自覚症状がないため、むしろ正常だと思い込む傾向があるため、非常に厄介である。



 イジメにおいても動物行動学習的に「イジメを放置しておかないと、自分がイジメ対象にされかねない。」と学習してしまえば、イジメを誰も止めなくなる「結果」に陥るのである。

 動物行動学習の「結果」というのは、常に無意識な気分的行動バイアスに流されるだけであり。無意識が促す暴走に抗う個人の自律的行動選択というものは、当人の意識、論理検証性、問題に対する意欲、意思なくして有り得ない。







Ende;
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