○報酬系。
ソーンダイクによる「効果の法則」とは、「報酬系によって作り出される行動バイアスによって、生体にとって好ましい行動に学習整理される。」というものである。
「効果の法則」における問題の一つは、報酬系という本能的行動バイアスというものが、必ずしも「生体にとって好ましい行動。」を促す論理的証明がないことである。
本能的な行動バイアスというものは、結果的に生存していた生物に残されていたものであり。あくまで「結果」的に残っただけのものであって、そこに何らか意図や目的は介在する余地がない。
かゆみというのは本能に直結した感覚であり、これが原因で皮膚の炎症を引き起こすことは少なくない。
高血圧の患者が、高血圧にとって好ましくない塩分の過剰摂取をしがちなのも、これらは必ずしも「生体にとって好ましい行動。」とは言えないのである。
本能というのは結果である。結果的に生存していた生物に偶発的に残っただけのものであって、誰かの意図、何らかの方向性といった目的意識が介在する余地は原理的に存在せず。あらゆる変異による行動バリエーションの結果として、自然環境に偶発的に適応した個体に偶発的に残されたものでしかない。
従って本能というのは絶対的な最適化がなされている論理的証明はない。
動物的な行動学習というのは、極めて単純なダイアグラムで表現可能なシーケンスである以上、そこには当人の意識的行動選択の入り込む余地はなく、徹頭徹尾無意識的条件反射的「学習」に過ぎず、本能習性が促す以上の何の能力も発揮されることはない。
スキナー箱という実験があり、スキナーという名前の研究者の名前が付いているのだが、脳に電極を埋め込んだラットを箱の中に入れ、箱の中にはレバーが据え付けられており、ラットがレバーを押すと脳に埋め込まれた電極に電気刺激が与えられるという再帰性の実験装置を作ると、電極が埋め込まれた脳の部位によっては暴走的にレバーを押し続けるようになったりする。
電極の代わりにコカインやエタノール、アンフェタミンなどの薬物を注入する実験も行われている。
特にコカインを注入するスキナー箱では、眠っている間以外常にレバーを押し続けるという異常暴走状態、中毒症状を「学習」してしまい、死ぬまでレバーを押し続けるようになってしまう。無論どんなにレバーを押しても生体にとって好ましい結果など得られることはない。
薬物中毒というのはそもそも動物的な行動「学習」の結果に過ぎない。
動物的行動学習の結果、薬物依存に陥ることを含む能力を「知能」「学習」だと言い張る現在の脳神経科学というのは、明らかに脳がイカれていると言わざるを得ない。
チンパンジーの瞬間記憶能力において、ヒトの大学生よりも高い成績を発揮するチンパンジーというのは、要するに報酬系によって促される行動バイアスに対しての暴走的能力獲得であって、エサ欲しさにとんでもない集中力を発揮した結果である。
すなはち、チンパンジーの瞬間記憶実験というのはスキナー箱の派生に過ぎない。
どんなにエサ欲しさに特定能力を発揮するとしても、エサとの引き換えに環境依存的に促される能力であるならば、これは単なる特定能力の暴走、エサ中毒に過ぎない。実際、特定能力を促すような実験装置なしに自発的に特定能力を獲得することはなく、チンパンジーというのは常に環境依存的な行動しか採ることが出来ない。
秋葉原の通り魔や、アメリカの映画館での銃乱射男などに見られた学力の高さというのも、これらは学力評価という抽象化されたエサ(報酬)に対する暴走に過ぎず、学力成績中毒の結果でしかないのである。
通り魔や銃乱射男を「悪者」であると規定し、ただ罰を与えて気分的に満足する司法制度では、根本的なヒトの危険性についての原因究明にも、再発防止策にもならないことは、今まで何度も述べてきたつもりである。
罰を与えることによって満足するというのは、動物的な行動バイアス、報酬系を満足させているだけであって。無意識的な条件反射行動に過ぎず、結局やっていることは通り魔や銃乱射男と何ら変わりはないのである。
本能が促すシーケンシャルな行動が、一体どのような「結果」をもたらすかは誰も保証はしてくれない。
そもそも本能自体が「結果」に過ぎないからである。
絶対的な最適化がされていないとしても、概ね生体にとって好ましい行動を採れば個体の生存結果にはなるであろう。
個体の生存にとって好ましい行動の全てが常に種全体や環境との調和をもたらすわけではなく、個体の生存価というのはその場限りの利己的行動にしかならないのである。
自然界というのは外見上全体としては調和しているように見えるが、これは現在の生物相の断片的結果に過ぎず、自然界というのは時折大絶滅などの破綻も引き起こすものでもある。
しかし、ヒトの場合は予測可能性を持ち、意識による論理検証も可能である。可能ではあるが、ヒトの多くは論理検証を簡単に放棄し、本能的な行動バイアスに流され気分的に満足することばかりを優先しがちなため、想定外だの検証範囲外だのといった「言い逃れ」をしなくてはならなくなるのである。
シエラレオネの少年ゲリラ集団の中においては、ゲリラに迎合して残虐性を競争することこそが個体の生体にとって有利な環境である場合。社会全体の持続可能性だの安全性といったものは優先されることはない。
ナチス政権下のドイツにおいても、ナチスに迎合してユダヤ人絶滅計画を率先して評価される方が個体の生体にとって「好ましい」結果を導くのである。ポーランドのアウシュビッツビルケナウ絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンは、ユダヤ人絶滅計画の策定を行い、「中佐」の肩書まで得ることが出来たのである。
本能的な集団迎合習性に従い、集団内部だけの価値観に染まって統率的な協調行動を採ることは、断片的には生体にとって好ましい結果を導くこともあるであろう。しかし、個体の生体にとって好ましい行動とは、あくまでその場限りの利己的行動を促すだけに過ぎない。統合的な論理的検証を伴わないこうした行動は、極めて動物的であり、機械条件反射的無意識行動なのである。
本能のままに行動しておいて、結果的に好ましくない結果に至った場合、これは一体何が問題だと言えるであろうか。
本能自体が悪いと称して自律的な予測可能性を否定するのは簡単である。
ヒトという種の生物というのは、神などによる特定意図、意識によって作り出されたものではなく、あくまで自然界の淘汰の中で結果的に生き残った種に過ぎない。従って自己に組み込まれた本能というものは自己自身による選択を一切介しておらず、これ自体は個人の主体的「意思」とは言うことが出来ない。
本能のままに無意識に流され満足することは、「自由」ではないのである。
たとえ32400歩譲ったとして神が実存していると仮定しても、神が与えたもうた「本能が悪い。」と言うのであれば、これは神の冒涜にしかならない。本能に流されることなく強い意思を持って自律的に社会的責任判断を行うことこそが、本当の意味における神であり「人間としての理想。」なのである。
本能というのは、決して「生体にとって好ましい。」などの行動を促す証明がある訳でもなく、単なる結果的行動バイアスでしかない。本能習性のままに暴力を行使することが、社会全体における持続可能性や安全性を確立することにはつながらないばかりか、むしろ刑罰という感情論によってヒト全般に普遍的にみられる危険性を無視し、論理的な根本原因の究明や再発防止策を喪失させているだけなのである。
ヒトであれば大抵は予測可能性があり、論理的理解力が存在しうる。これらの予測や検証を気分的に嫌だからやらないというのは、単なる精神的怠慢に過ぎず、極めて悪質なのである。
原発の暴走を結果的に放置した技術者達を全員死刑にすれば、原発の安全性が確保されるわけではないのと同様。通り魔や銃乱射男を死刑にしておけば無差別殺人がなくなるわけではなく、厳罰化というのは根源的対策にはならないのである。
イジメにおいても同様であり、イジメを行った子供を糾弾しておけばイジメがなくなるという短絡的なものではなく。イジメという差別排除を競争してしまうような無意識的集団洗脳暴走に何故陥っているのかを科学的に検証しなければ、本質的な原因究明にも再発防止にもつながらないのである。
本能的な行動バイアスというのは、何らかの目的に最適化されている訳ではなく。あくまで条件反射的な行動結果しか作り出さず、常に環境依存性から逃れられない。
現在の生物学界では、結果的に生体にとって断片的に好ましい結果を「目的」であると言い張り、逆に結果的に好ましくない結果が抽出されると「進化の袋小路。」などとご都合主義的にこじつけるだけである。これは到底科学的論証とは言うことが出来ない。
こうした科学的論証とは言えないようなものを科学だと思い込んで鵜呑みにする大多数のバカ学生達も、自分達の頭の悪さを認識すべきである。たとえどんなに偏差値が高くても、自発的に論理検証出来ないのであればただの学力成績中毒に過ぎず、サルとさしたる違いはない。
本能というのは目的も何もなく、結果的に組み込まれた行動バイアスに過ぎず、本能に従っておけば全ては「好ましい結果」をもたらす証明など全く存在しない。
目的というのはヒトの意識によって導き出すことが可能な予測/想像力によってもたらされるものであって、主体的な個人の意思、意識によってしか導き出すことは出来ないものであり。生物の結果である本能習性から抽出することは原理的に不可能なのである。
政府原発事故調査委員会による検証では、原発を取り扱う人達の想像力の欠如や、それに伴う自律的な社会的責任判断の喪失こそが根本原因であることが論じられている。
想像力によってあらゆる危険性を予測し、決して気分的安心、精神的慢心に溺れることなく自律的に論理検証を行うことが必要である。こうした人間としての責任を放棄しておいて知能も倫理もすったくれもあったものではない。
ましてや特定の技術者にだけ倫理を押し付けておけば、大多数の大衆は何も自律的に判断しなくても良いというような短絡的で安易なものではないのである。
それでも危険性の全てを予測できる訳ではなく、見落としやミスというのは不可避でもある。従って偶発的にミスを犯した者に懲罰を与えて満足するのではなく、「どのようにすればミスを減らすことが可能であるのかを工夫する。」ことを人類全体で共有することこそが、失敗から教訓として「学習」すべきことなのである。
文系大衆観念的には、ミスが発生すると精神論的な規範意識の強要などに走りがちであるが。これこそが最もバカげた無意味な行為であり、再発防止策の素となる理論的原因究明から遠ざけるものなのである。
「ヒトとは、ミスを犯すものである。」という基本的な事実を見落とし、無視し、工学的な工夫というものを放棄するから人類というのは何度もバカげた過ちを繰り返すことに陥るのである。
ヒトの多くは地道な工夫を積み重ねることを観念的に拒絶し、短絡的に「これさえやっときゃ。」的に安易で簡単な方法論にばかり依存しがちである。こうした本能習性による短絡性こそが、あらゆる「人災」の根源なのである。
ヒトは組織的に暴力を用いて、特定個人を攻撃排除差別することで気分的満足を得る本能習性による行動バイアスが存在し、これは意識的に抑制しなければならないのである。ところが現在の生物学というのは、本能の全てに何らかの意味をこじつけることによって大衆からの人気を得ることばかりに意識を奪われ、科学的な検証や対策というものを放棄しているのである。
それを悪質だと認識出来ない大衆マスコミ自体も同罪である。
現在の脳神経科学上における動物的行動「学習」の全てを「知能」の全てであるとする観念を放置しておけば、学力成績をエサ(報酬)とした条件反射的暴走的学習しか促されることはない。その結果、通り魔だの銃乱射といった無差別殺人が増加しても、原発の危険性が放置されるとしても、誰にも文句を言うことは出来なくなる。
放置した多数大衆にも問題があるからだ。
ヒトの多くは多数で無責任な思考放棄をしておけば、気分的に安心満足する習性がある。「赤信号、皆で渡れば恐くない。」という習性があるからこそ、東電では原発の危険性が放置されたのである。
みんなで仲良く責任放棄しておけば、多数によって個人の責任が薄まるものであると多くのヒトは思い込みがちである。
「恐くない。」などという気分的安心によって何も考えず、何も予測せず、何も論理的検証を行わないからこそ人類はバカげた行為を何度も繰り返すのである。
何度も同じような過ちを繰り返すだけで、共通した原因を理論的に認識しないからこそ「バカ」たる所以である。
Ende;