書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

面従腹背。

2012年08月27日 16時20分41秒 | 意識論関連

○面従腹背。

 海上自衛隊員が飲酒運転で大怪我。これも軍隊的な規律意識というのは個人の自律を育まないことの論証である。

 大学体育会学生寮で集団レイプや大麻栽培が行われることや、少年野球部員による自転車並走といったものも、規範意識を刷り込み学習させ、外見上統率的行動をさせても自律的な社会的責任判断能力は全く育たず、むしろ権威に服従することで満足してしまい、自律的な社会的責任判断を自発的には一切しなくなるのである。

 規範意識を刷り込み学習させるというのは、要するに人工的な権威や力を用いた気分的恐怖によって行動制御させているだけであって、個人の主体的自律が介在せず、動物的な他律強制性に過ぎないのである。

 規範意識的強制性というものは、短絡的に目先の特定環境における従順性による統率は出来るが、環境が変われば個人の自律的な一貫した「考え」が介在しないため、その場限りの環境に「順応」する形で自律的な社会的責任判断が放棄されるのである。

 自律的な社会的責任判断というものは、個人が自律的に一貫性のある「考え」を持たなければ発揮されることはない。その場限りに気分感情だけで行動が決定していれば、その場限りに環境に「順応」するだけであって、個人の一貫性ある主体的「考え」による意識的選択はなされなくなるのである。

 暴走族の集団にそそのかされれば暴走行為に参加し、警察に検挙されれば一転して警官に従順さを発揮するという個人の一貫性の欠落というのは、単にその場限りに「順応」する本能的従順さを発揮しているだけであって、個人の主体的な一貫性のある「考え」が存在していないための結果である。

 イヌの本能的「社会性」というものは、気分的安心や恐怖だけで行動が決定しており、イヌ自身の主体的「考え」というのは一切介在する余地はない。それでもエサに対する報酬系が促す行動学習によって統率的協調行動を採ることは可能であり、むしろ報酬系に対する条件反射による行動学習(脳内麻薬中毒)によって、特定能力だけは異常に高度に無意識に獲得「してしまう」のである。

 特定能力の異常獲得こそが知能や才能であると文系大衆観念的には思われているが、無意識的に暴走するヒトの統率的協調行動というのは知能ではなく、本能が促す報酬系行動バイアスの「結果」に過ぎない。

 ヒトという種の生物というのは、権威に服従し、多数派に迎合し、統率的協調行動を採り、自律的には何も社会的責任判断をしなければ本能的に満足し、気分的に安心していられるので。あたかも本能的な社会形成の「結果」的統率性こそが社会の安全性を保証するものであると錯覚しがちであるようだが、これは安心と安全の履き違えに過ぎない。

 錯覚を錯覚と認識出来ずに、知能もすったくれもあったものではない。ただのバカじゃねぇか。



 アイエンガー(コロンビア大学)による講義というものも、これは報酬との比較基準でしか物事を論じておらず、現状世間における成功方法を論じているに過ぎない。

 世間的成功というものは、生物学における「個体の生体にとって有利」とか、経済学における目先の「効用」に過ぎず、統一的な社会安全性や持続可能性についての配慮が一切介在しておらず、極めて断片的な利己的利益追求の手法を論じているだけである。

 偏差値が高いだけで自律的な統一的論理検証が出来ないバカ学生であれば、利己的利益という目先の評価報酬に意識を奪われ、現状世間における成功こそが人間の絶対的価値であると短絡的に鵜呑み錯覚することも簡単であろう。

 だからアイエンガーの講義なんぞに「人気」が集まるのである。

 本能的快楽を与える報酬系への条件反射として、動物的な行動学習によって特定能力さえ獲得しておけば知能の全てであると錯覚するのは簡単である。

 バカで満足することは極めて簡単なのである。

 バカ学生であれば、こう反論するかも知れない。「世間的成功も必要である。」と。だが、優先されるべきものではないことに論理的反証は不能である。「世間的成功『も』必要。」というのは、最も優先順位が高いことを論証しているのではなく、あくまで二次的な必要性を述べているだけであって、感情的に強弁してさえおけば絶対的価値にすりかえられると思ったら大間違いである。






 個人的に好きなことだけに集中していたら論理検証性が育たないと多くのヒトは思うであろう。だが実際には「論理的思考能力」を測る学力テストの成績がどんなに高くても、自律的な社会的責任判断の論理検証性が働く論証には全くならない。

 どんなに数学の成績が高くても、ニーチェや養老の論理整合性の欠落を認識することは出来ず、「品格」などという論理的根拠の乏しい観念で大衆人気を得て満足するのがオチであろう。

 数学の成績や「論理的思考能力」テストの成績というのは、自律的な社会的責任判断能力とは無関係なのである。原発技術者達や一級建築士であれば数学や「論理的思考能力」テストの成績は高いに違いない、それが一体何の役に立ったと言うのであろうか。

 認知科学的な「論理的思考能力」テストというのは、決して自律的な論理検証性を測っているわけではなく。学力成績評価という抽象化された報酬への条件反射的行動学習でも獲得可能な能力であり、自発的な社会的責任判断可能性を測っているわけではないのである。

 どんなに難解な「論理的思考能力」テストを、短時間で解答できたとしても。成績評価という抽象化された報酬が伴わない事柄に関しては、どんなに単純な論理検証であっても行われる証明にはならない。

 それはチンパンジーがエサを与えられない限り瞬間記憶能力を発揮しないのと同じである。

 無意識的な行動学習というのは、報酬というエサを与えさえすれば、極めて高い能力を獲得することは可能であるが、エサが与えられない事柄に関しては自発的には如何なる論理検証性も発揮されることはないのである。

 この極めて単純な原理すら理解認識できない時点で、既に科学者としてはポンコツと言わざるを得ない。



 科学者の多くがポンコツなのは、学力評価という抽象化された報酬(エサ)に対する無意識的条件反射の結果的な行動学習能力を事後正当化しておかないと気分が悪いからである。

 ヒトというのは、自分が行ってきた選択の全てが自分の意識的選択によるものであると錯覚しているため。既に行った選択の全てには意味があることにしておきたいという思考バイアスが働くのである。養老孟司が「私は30年間安月給で大学勤めをした、そこには意味があったんだ、そう思わなきゃやってられないじゃぁありませんか。」などと論理的根拠の全くない主観を理由にしたがるのも、無意識的な事後正当化思考バイアスによる思考の拘束に他ならない。

 論理整合性の欠落を認知しても頑固に固定観念を堅持したがるのは、それが気分的に「嫌」だからに過ぎない。

 養老は、事後正当化バイアスによるその場限りの順応性を指して「ヒトは変わり続けるものである。」などと言い張るが。それは暴走族がその場限りに相手に話を丸めて迎合することと同じであり。個人の主体的論理検証性による責任一貫性を放棄するためのすりかえに過ぎない。

 その場限りに相手に話を合わせ、丸め込み、面従腹背的に責任一貫性を持たないことを「ヒトは変わり続けるものである。」などと正当化できるようなものではない。

 こんな下らないことであっても多くの偏差値だけが高いバカには自律的認識は一切出来ないのである。



 努力辛抱根性によって学力成績には執着しても、評価報酬が得られそうにないことは誰も自律的に判断しないから「人災」が全く減らないのである。

 だから偏差値が高いだけのバカが大量生産され続けるのである。

 呆れて説明する意欲も失せる。


Ende;
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