書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○キチガイの巣窟。

2016年02月16日 22時17分34秒 | 意識論関連
京都大学の大山泰宏は、個人の行動の全ては社会によって作られたものであって、自律的に判断して行動しているわけではないと断言している。

こいつ頭おかしいぞ。

多くの価値観において社会から作られたものであるとは言っても構わないかも知れないが、だからと言って個人の行動の全てが自律的選択が介在する余地が一切存在しないことの論証には全くならず。また、当然ながら自律的な社会的責任判断をしなくて良い論拠にも全くならない。

これもまた結果と目的を混同した文科系妄想観念による身勝手な錯覚であろう。

自律的な社会的責任判断選択というものが存在しないというのであれば、倫理もすったくれもあったもんじゃねぇ。

こいつ畑村洋太郎にぶん殴ってもらった方が良いんじゃねぇのか。

京都大学ってキチガイ教授の巣窟だな。


Ende;
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○不気味とは。

2016年02月16日 13時42分50秒 | 意識論関連
ヒトが他者の顔を見ている時、その顔の大部分は脳で作られている。

例えば脳梗塞で一時的に脳機能の一部が失われたりすると、顔面の半分が垂れ下がって来たりするのだが。それは逆に言えば脳が働いてるからこそ「普通の顔」が維持されているということでもあり。顔の大部分は脳機能によって維持された顔を私達は「正常な顔面」として認識しているのである。

一般的に美術学校では造形の基礎としてモデルを座らせてデッサンや彫刻彫塑を行わせたりするのだが、これは実は弊害がある。

モデルを一定時間座らせたり、立たせたりしておくということは、表情はいわゆる「素」の状態にならざるを得ず。無表情な顔の造形しか出来なくなってしまうからである。

美術学校を出た学生の多くは、こうした傾向があり。表情の乏しい顔の造形しか出来なくなってしまうことがしばしばある。

広告などのメディアで露出している、いわゆる「かわいい女子」の写真というのは。一定時間座らせておいたり立たせておいた顔ではなく、あくまで一瞬の表情を捕らえたものであって、広告写真では何千枚ものショットの中から最も良い表情の写真をセレクトするといったことが普通である。

逆に言えば、一般に美人と認められているモデルであっても、気分によってはブサイクな顔をする瞬間というのもあり。芸能人を蔑むことで読者が自己満足に陥ることを目的とした写真週刊誌などでは、意図的にブサイクな写真をセレクトして掲載したりする場合も多い。




ブサイクな小野真弓の例 (表示されなかった。)




きゃりーぱみゅぱみゅが意図的にブサイクな顔をした例

この顔を高い精度のスキャナーでスキャン造形すれば間違いなく「不気味」な顔であるが。こうした不気味な顔というのは、一人のモデルにおいてもスペクトル的に存在するのであって、意図的にブサイクで不気味な表情でなくても、普段の無表情な顔の大半は広告写真としては使われることはなく。

大多数のヒトが「美形」とか「かわいい」と認識する顔というのは、対象となるモデルにおいても特定の表情や角度アングルに依存するものであって。それ以外の顔というのは広告メディアなどには露出しておらず、私達が普段見ている美形というのは、極めて特殊なものであると考えるべきである。

一般にかわいい顔、或は美形な顔として認識している顔というのは、あるモデルにおいての一瞬の表情であり。また、かわいいとか美形な顔というのは「反不気味」顔でもあり、見ていて気分的に安心出来る顔でもある。

「不気味」として認識している顔というのは、見ている個人が主観的に安心満足出来るかどうかであって。不気味でないことが「人間として認識している。」ことの論証には全くならない。

ハンセン病では脳梗塞と異なり抹消神経の麻痺が原因で表情筋の機能が失われることで、顔面が垂れ下がることで大多数のヒトからは「不気味な顔」として認識されてしまい、大多数からの気分的な安心満足が得られないことから非合理的な隔離差別の対象として扱われる大きな要因ともなった。

不気味かどうかというのは、個人の主観的な問題であって。こうした「感覚」の問題をどんなに追求しても人間性の論証には構造原理的に辿りつくことはなく、むしろ非人間的差別排除の原因にすらなる。従って、アンドロイド研究で有名な石黒浩による「感覚」的な研究からは、本質的な人間性が何かを分析/論証することは出来ないのである。

石黒のアンドロイドというのは、むしろ気分的安心満足感を得ることが目的であって、人間性そのものの研究ではないことは、本来言うまでもないことのはずである。

ヒトの多くは、主観的な感覚的「安心感」を短絡的に「正しい」と認識する傾向があるが。これこそが錯覚であり、自分の感覚を絶対的なものであるという身勝手な妄想がその根底にある故の傲慢さを発揮するのである。

「ヒトは見た目が9割」という話があったが。その9割の残りの1割を無視して外見上の安心感や満足感を絶対的なものであると見なしてしまうからこそ、見た目のわからない電話での振り込め詐欺に簡単に騙されるようにもなるのである。

振り込め詐欺の被害者の大半は、実際に詐欺に遭うまでは「自分だけは絶対に大丈夫」だと盲目的に信じ込んでいたからこそ、その傲慢さこそが騙される大きな要因なのである。

ハンセン病患者の差別に限らず、差別排除というのは、それを主導する者の主観的感覚としての安心感が得られないことから生ずる身勝手な「不気味さ」の観念が行動に直結することで生ずるものであり。 また、多数で同一の「敵」とみなした対象を協調的に攻撃することによって得られるその場限りの安心感もまた、差別排除行動を促進してしまうのである。

これはつまり、ヒトという種の生物というのは先天的に差別排除によって集団組織的協調行動をする本能習性が存在していることを意味し。これは学校学級内などの衆人環視環境以外における様々な場面において普遍的に生ずるものであって。わざわざ監獄実験のような環境を作る必要もなく、ヒトという種の生物は先天的に差別排除をしたがることに疑う余地などないのである。

科学において、業績として見なされるかどうかに「再現性」というのがあるが。ヒトという種の生物における先天的社会形成習性というのは、むしろ特定環境を作り出す必要もなく、様々な状況において普遍的に見られる現象であり。こうした現象を「実証」として見なさないというのは、むしろ手続き上の問題に過ぎず。お役所的な頭の固さや意識の低さに起因する傲慢さでもある。

再現実験などする必要もなく、日々差別排除や暴力というのは繰り返されているものであって。こうした実質的現象を無視して実験室での再現性ばかりに執着するというのは科学者としての社会的役割を放棄しており、無能と言う他ない。



あたかも話が逸れているかのように見えるかも知れないが、不気味とは何かを認識しなければ不気味ではない状態の意味をも認識することは出来ないので、一概に話が逸れているというわけでもない。

結局は不気味かどうかや個人的にかわいいと思うかどうかは主観的な問題、趣味趣向の問題であって、これを社会的行動に直結させて良いものではないことは、言うまでもなかろう。

逆に言えば、個人の主観的な好き嫌いや安心感を基準に、目先の多数派に迎合する形で差別排除というのは発生するのである。

こうした先天的本能習性による行動の話をすると、少なからず「先天的な本能習性には逆らうことが出来ない。」などと言い出すバカが必ず出てくるので厄介である。

先天的な本能習性に流されることしか出来ずに、一体何が自由意思だと言うのであろうか。こうした短絡的な意識の低さというのは、短絡的でいた方が、その場限りに気分的に楽で安心だからである。

つまり、バカがバカ足る所以とは、自らの内部にあるバカさを認識せず、バカのままであろうと欲する先天的本能から逃れる意志の欠如のことである。

「自己中小的な者には自己はない。」という言葉があり、これは一見自己矛盾のように思えるのだが、「自己中心的な者」における「自己」とは、先天的な既存の自己を意味するものであって。こうした自己選択を介していないデフォルトの自己に抗う意志としての自己選択可能性を喪失しているが故に身勝手で「自己中心的」な行動しか出来なくなるのである。

本質的な自己とは何か、意志とは何か。

それは先天的な本能習性が促す行動や思考のバイアスに左右されることのない、自律的な論理検証性に基づく選択可能性であり。これは単なる条件反射的な「主義」とは全く異なるものである。

単なる「主義」とは、主観的な好き嫌いに基づいた条件反射な行動パタンとして規定しているに過ぎず。これこそが現状現在における自己の選択可能性を阻害する意識狭窄性の源に過ぎない。

他者の顔を見て、不気味か不気味でないかを判断しているという、その感覚自体がそもそも不気味な先天的本能に基づいたバイアスに過ぎない。 そしてそれはどんなに多数派と同じ観念を共有しても、観念であるということからは逃れることは出来ないのである。

ところが文科系大衆観念上においては、観念であろうと何であろうと、多数派で共有してさえおけば、それが促す気分的安心満足感を短絡的に「正しいこと」であるという錯覚に流され、非合理的な観念ばかりが蔓延してしまうのである。

非合理観念が蔓延していれば、これこそが洗脳状態である。

ヒトが洗脳状態に陥ることというのは珍しいことではない。振り込め詐欺の電話だけでもヒトは簡単に論理検証性を喪失するものであり。ましてやマスコミや進化生物学、哲学などの権威性が無責任な嘘を垂れ流していれば、大衆の多くは何の疑問も持たなくなることも珍しいことではない。

疑わなくなること、これこそが洗脳の第一歩である。

科学的な検証というのは、先ず「全てを疑う」ことが必要であり。これは「教えられたことを鵜呑みにする。」ことこそが最悪な頭の悪さを醸成してしまうのである。

こんなことを言うと、「一体何を信じたらいいの。」などと言い出す者も少なくないが。何を信じるべきなのかを自律的に検証する個人がいてはじめて民主主義が成立するのであって。信じる対象を求めている時点で宗教か何かと勘違いしているのであろう。

何度も言うが、「疑う」といってものべつまくなし観念的猜疑心を抱いて不安に陥ろと言っているわけではなく。むしろ何の合理的根拠もないのに信じ込んでしまっている事柄を洗い出すことが必要であるという意味である。

ヒトの多くは、何かを決め付けておけば検証し直す必要性がないと見なすことで気分的に安心満足することが出来るため、その決め付けに合理的根拠があるかどうかを意識から外し、既に決め付けてしまった自己を事後正当化する形で「主義」に陥る。

ことほど左様にヒトという種の生物というのは先天的にバカに陥るようなバイアスが脳に組み込まれているが故に、様々な「人災」が一向に減らないという事態に陥っているのである。







Ende;
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○「恥ずかしい」とは何か。

2016年02月16日 13時26分44秒 | 意識論関連
川崎での学生殺人事件というのは、一つの重大事象である。

ハイリッヒの法則に基づけば、一つの重大事象の裏には無数の小さな事象が隠れているのであって。重大事象における首謀者に懲罰を与えて解決だと見なす現在の司法制度というのは、危険学や失敗学の観点からは全く原因究明にも再発防止策にもつながらない不毛な社会制度である。

実際に手を下した特定個人を悪者であると見なして懲罰を決定しても、ヒトが凶悪な行動を採るようになるメカニズムについての分析には全くならない。

刑法懲罰という制度は、何年刑務所などに監禁しておいても、再犯防止の合理的根拠が全くなく。刑を執行している方の単なる観念的精神論に基づいた妄想によって気分的に安心満足しているだけに過ぎないのである。

学生が集団形成し、暴力的差別行動を採るようになることは、決して珍しいことではなく。いわばヒトが引き起こす無数の集団暴力的行動の中の「氷山の一角」に過ぎない。

実際に重大事象として露出した事件だけに注目し、水面下の膨大な事象を全て無視していたのでは、本当の意味での再発防止策にはつながらない。

実質的に再発防止を求めるというのであれば、刑法懲罰に依らずに。どのような構造が事件にまで至るような暴力性をヒトに生じさせてしまうのかを分析する必要性があり、そのためには危険学や失敗学のような客観的検証のためにはむしろ刑法懲罰を停止し、徹底的に原因究明によって再発防止策を立てるべきなのである。

大衆の多くは実行犯や命令を下した特定個人を「悪者」と見なし、特定個人だけに懲罰を与えて気分的に安心満足するだけで。事象に至る全体構造については全く検証しなくなってしまう習性がある。 こうした不毛な刑法懲罰に依存した実質的効果を持たない制度だけで「解決」と見なす頭の悪さこそが、何度も同じような事件が繰り返される原因であり。これは政府国家だけの責任ではなく、あくまで民主主義国家では市民一人一人の意識(論理検証性)の低さの問題なのである。

重大な事象にまで至った事件の首謀者だけに責任の全てを転嫁し、それ以外の無数の小さな事象を無視しているという多数の無責任さを、多数派であるというだけで「正常」であるという妄想観念に基づいて正当化出来ていると勝手に勘違い錯覚しているからこそ、刑法懲罰などという実質的には再発防止策にはつながらない不毛な制度の維持につながっているのである。

川崎での学生殺人事件というのは、無数のイジメや集団暴力の中での突出した事象であり。「学級内ヒエラルキー」などという子供じみた観念を鵜呑みにしている学生の頭の悪さに起因するものである。

ヒトという種の生物は、先天的な社会形成習性があり。集団統率的行動に至るような行動バイアスが存在しており、その結果として集団統率行動バイアスが暴走する形でイジメ集団暴力などの重大事象にまで至るのである。

なにせ先天的な行動習性であるから、それは脳への報酬系と直結した動物的には「正常」な行動を引き起こす行動バイアスであり。麻薬のような常習性をも発揮するのである。

「死んでもいいから、安心したい。」

これは健康マニアによる「死んでもいいから健康でいたい。」と共通した観念であり。ヒトの大脳辺縁系が促す行動バイアスというのは、とにかく個人的に安心満足感を追求するだけであって。そこに目的や意味があるわけではなく、動物的に組み込まれた本能習性という「結果」でしかないのである。

実質的には意味のない暴走的行動に異常執着してしまうというのは、ある種の精神病であり。犯罪者に限らず刑法懲罰などという実質的には意味のない社会制度に何の疑問も持たない大多数の大衆もまた、この病の患者でもある。

ヒトの多くは多数派を短絡的に「正常」であると錯覚する。それは気分的に安心満足だからである。だが、こうした安心満足を促すバイアス自体もまた、ヒトという種の生物における「結果」でこそあれ、それは意識的(論理検証的)に選択された目的にはならない。

ヒトの多くは自分の気分感情を短絡的に意識や意思だと錯覚しているが。自分の遺伝子を自分では選択していない以上、自分の脳の構造も、その脳に価値観を刷り込み学習した成育環境もまた自分の選択ではなく。何の論理検証もせずに漫然とその場限りの気分感情に流されているだけでは、自由意思や意識にも目的行動選択にも全くならないのである。

日本では未だに安心と安全をセットにしたがる傾向があるが。安全性というのは論理的に構築するべきものであって、気分的に安心するかどうかとは無関係な話である。 そもそも論理的安全性の追求というのは、むしろ不安こそが原動力であって、安心感というのは怠惰を促すだけであり、セットにすべきものではないのである。

だが、大衆の多くは目先の安心感ばかりを追求し、観念的恐怖心による行動や言動をしがちなために、大多数の大衆は気分的安心満足ばかりを要求してくるのだが。こうした多数の観念論に耳を貸す必要性はない。 それこそがポピュリズム(大衆迎合)に過ぎないからである。

民主主義社会において本当に選択すべき行動とは、単なる目先の多数決ではなく。合理的根拠を持った具体性ある対策であって、その場限りの気分的安心ばかりを追求するような観念論の多数決というのは、意識的に除外する必要性がある。本来的には民主主義においては、市民の一人一人が自律的に社会的責任判断に基づき、実効性のある合理的選択を多数決によって選択されるべきものであるのだが。こうした意識は現在の社会には根付いておらず、その場限りに気分的安心満足ばかりを欲求する愚民が圧倒的多数派を占めている以上。何が合理的根拠を持った具体性ある対策なのかを説明する必要性がある。

個人の主観的安心満足の追求ではなく、社会的な持続可能性や安全性の追求であることの説明責任が個人にも必要なのであって。単なる愚民の多数決は意味を為さないのだ。

刑法懲罰の判決を「解決」であると見なすことに、合理的根拠を説明できるだろうか。できるものならやってみろという話である。 代議員の行動だけに説明責任があるわけではなく、民主主義制度国家である以上市民個人の主義主張においても、それに社会的意義があるのかどうかを説明する責任は存在するのである。

その場限りの安心満足の追求の多数決に終始してしまうからこそ、民主主義がバカ主義に陥るのである。

国家権力を用いた刑法懲罰による恐怖心によって犯罪を抑圧するという手法は、所詮恐怖心というバイアスに依存した行動誘導であって。むしろ川崎での学生殺人事件においては、こうした恐怖心のバイアスこそが殺人という重大事象にまで暴走した大きな要因でもあるのだ。

恐怖心を用いた「怖いから、やらない。」という行動バイアスに依存している限り。その場限りに怖いかどうかでしか行動が決定しなくなってしまい、自律的な社会的責任判断というものを合理的に考えるという人間性を無視した、愚民政策の一環にしかならない。



JR福知山線脱線事故においても、懲罰的指導が事故の引き金になったという結論が出ている。運転手が事故によって乗客に危険が及ぶことよりも、その場限りの気分的な恐怖心によって到着時間を優先した結果、無謀な暴走を招いた事故だと言える。

福島第一原発の事故においても、いつ起こるかも知れない津波に対する脆弱性よりも、社内での居心地を優先した結果危険性が放置された「人災」なのである。未だに福島第一原発事故を「天災だから仕方ない。」などという解釈をしているバカがいるようだが。畑村洋太郎が調査を行った国会原発事故調査委員会における結論として、あの事故は「人災」であることが証明されているのである。 津波が来れば非常用電源が喪失することは、事故前から想定されていたものであり、「人災」であることは明らかであり。これを「天災だから仕方ない。」などと言い出すのは無責任極まりない大嘘である。

川崎での学生殺害事件においても、「相手の仲間からの仕返しが怖かった」とか、「警察に捕まることが怖かった」などという、恐怖心のバイアスこそが、むしろ犯罪を助長したのである。

「怖い」かどうかというのは、その場限りの主観的バイアスであって。そこに合理的根拠が存在するわけではなく。あくまで動物的な行動バイアスとして大脳辺縁系に組み込まれた「結果」的な無意識性に他ならない。

無意識、すなはち条件反射的に行動していれば非合理な結果を招くのは必然である。

勿論犯罪者自身の意識、自律的な社会的責任判断も重要ではあるが。そもそも未成年であるならば、むしろなぜこの少年が自律的な社会的責任判断を出来なくなってしまったのかや、その場限りの気分的感情が優先してしまうのかといった精神構造的な分析を行い、同じような過ちに陥らないよう社会全体で共有し教育へもフィードバックする必要性がある。

こんなことを言うと、大衆の多くは短絡的に「親が悪い」だとか「学校が悪い」といった「悪者」を決め付け、懲罰さえ与えておけば解決か何かだと短絡的に解釈するのであろうが。こうした短絡性こそが様々な社会的危険性を分析するための最大の障害となっているのである。

特定個人を差別するという点においては、「悪者」を決め付けることで満足しようとする心理的バイアスというのはイジメや差別の心理構造と共通するものでもある。

個人的に誰かを嫌いなのは勝手であるが。だからといって「悪者」であると決め付け、これを社会的制度や行動に直結させて良い合理的説明は存在しない。 個人的好き嫌いというのは主観的感覚であって、客観的な社会的制度や行動とは切り離すという分別(ふんべつ)には、論理検証性というものが必要不可欠なのであり。 こうした区別や分別(ふんべつ)こそが人間性の論証でもあるのだ。

了見(人間性)とは、合理的に区別がつくことである。その場限りの気分感情に流されることなく、統合的に社会的価値にまで考慮が働いてこそ、本当の人間性だと言えるのであって。 「俺様は天才じゃないから、公共利益にまで配慮が働かなくても良いんだ。」などという屁理屈を述べるのであれば、これは社会的にはただの無責任に他ならず。発言権自体の放棄宣言と捉えるべきものであり、民主主義において最も不要な人格でもある。



ヒトの身体というのはホメオスタシスのように恒常性を維持するようなメカニズムも先天的に組み込まれてはいるが、大脳辺縁系が促す行動バイアスの全てまでもが常に社会的持続可能性や安全性までをも維持するようなメカニズムが組み込まれているわけではなく。社会安全性や持続可能性というものは、意識(自律的な論理検証)的な目的行動選択がなければ働かないものなのである。

先天的なメカニズムである本能や習性といったものは、あくまで特定条件下においては有効な場合もあるのだが。逆に言えば特定条件下以外においてはある種の暴走をも引き起こすものでもあり、高血圧患者が塩分を欲したり、振り込め詐欺師の口車に乗せられて大金を支払い続けたり、カルト宗教にのめり込むといった行動も、先天的行動バイアスの「結果」であって、そこに何らかの意識的目的行動選択が存在する訳ではない。

ヒトの多くは自分の先天的な行動バイアスや習性といったものを、あたかも大自然や神などから与えられた優秀な存在であるかのような錯覚を妄想することで安心満足しようとする傾向があり。こうした身勝手な傲慢さこそが自律的な論理検証性を放棄してしまう大きな要因ともなっているのである。

「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性が立証出来るかも知れない。」などという、理論構造原理的に不可能な京都大学霊長類研究所の大嘘を鵜呑みにする大衆やマスコミも。「自分達は先天的に優秀なので、先天的な行動習性のおもむくままに行動しておけば自動的に社会性が発揮されるかも知れない。」などという身勝手で傲慢な妄想が存在するから松沢哲郎の大嘘を短絡的に鵜呑みにしてしまうのである。

こうした傲慢な妄想に基づいているからこそ、「自分だけは絶対に大丈夫。」などという過信が生ずるのであって。あたかも「先天的な優秀さが立証されておけば何も心配要らない。」という勝手な気分的安心満足のための妄想に過ぎないのである。

ヒトの先天的本能である行動バイアスというのは、祖先が死なずに済んだという「結果」でしかない。死なずに済む行動というものが常に倫理や人間性を伴う必要性もなく、嘘や暴力性を発揮した方が死なずに済むケースが存在しない証明は不可能なのである。

祖先、それこそネズミのような姿の祖先が過酷な自然界においてどのような行動を採る習性があれば死なずに済んだのかなど、もはや今更検証することなど原理的に不可能であり。ヒトが地球上で異常増殖したという結果もまた、目的があるわけではない。 そこに意識的(論理検証的目的行動選択)が介在する余地などない。

文科系大衆観念的には、先天的な本能習性の全てが自動的に何らかの目的に沿うような形で常に働く優秀な生物であるかのような錯覚によって安心満足しようとする習性があるのだが。こうした妄想錯覚に囚われ論理的に検証しなくなる性質こそが、人類がバカに陥る最大の原因なのである。

絶対的健康状態が存在しないのと同様、ヒトという種の生物に限らず生物の先天的行動習性や行動バイアスというものには絶対などというものは存在しないのだが。ヒトの大脳辺縁系というのは、その常習性によって過剰な安心の追求をしてしまうが故に論理的根拠のない妄想に溺れることによって何も考えなくなってしまうのである。

こうした、いわば「安心中毒」とも言えるバイアスに囚われることによって、ヒトは物事を論理的に検証しなくなり、詐欺師の口車に乗せられたり、カルト宗教の観念を信じ込んでしまうといった愚かさを発揮するのである。

洗脳というのは、自律的な論理検証性を心理的に拘束され、考えないことこそが安心になるという先天的な習性バイアスが引き起こす意識狭窄性の結果であり。それは実際に重大事象に至ったカルト宗教の信者に限ったことなどではなく、むしろ「普通のヒト」に普遍的に見られる盲目性と同じものなのである。

「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性が立証できるかも知れない。」などという、原理的にも不可能な大嘘を鵜呑みにする大衆の論理検証性の欠落というのは、まさに洗脳(思考停止)状態であり。それによって気分的に安心満足するという先天的バイアスが促す「バカシーケンス」の結果なのである。

松沢哲郎は、後にチンパンジーの利他的行動は一時的なものであり、自分に利益が得られないことが判れば利他的行動はしなくなることを述べ。今度は「想像力があるから人間かも知れない。」などという、これまた論理的には根拠のない「かもしれない」予測を言い出す始末である。

想像力が短絡的に人間性の論証になどなるはずもなく。詐欺師が相手を騙す時には相手がどのような嘘に騙されるのかを想像して嘘を言うのであり、川崎の学生は「相手の仲間から仕返しをされるかも知れない」とか、「警察に捕まるかも知れない。」という妄想に基づいて殺人に至ったのである。

合理的根拠のない妄想や観念もまた、想像力の一種であり。その意味においては松沢哲郎らの妄想観念も、それを鵜呑みにする大多数の大衆やマスコミもまた妄想によって気分的安心満足に溺れている洗脳状態なのである。

清原和博が見知らぬ酔っ払いの戯言にいちいち腹を立ててストレスになっていたことも、たかが酔っ払いの言っていることを鵜呑みにするという意識の低さが引き起こす妄想錯覚に過ぎない。 居酒屋の酔っ払いが何を言おうとも、「たかが酔っ払いに過ぎない。」という論理的検証判断が伴えば、むしろ「憐れな酔っ払いが他人を悪く言うことでその場限りに満足しようとしているのだな。」と分析できれば、いちいち腹を立てる必要性などないのである。

川崎の学生殺人においても、殺人をおかした少年は「バカにされているような気がした。」などという勝手な妄想によって、勝手に腹を立てて暴力性を暴走させている。

世の中というのは広く、多数のあらゆるヒトがいる以上、自分をバカにする相手がいてもおかしくはないし。そもそも合理的根拠もなく相手をバカにするような奴であれば、のべつまくなし他者をバカにしている方が人間としての程度が低いのであって。そんなことにいちいち腹を立てる必要性自体がないのである。

そもそも他人と自分との間に順位や序列のようなものを決め付けようとすること自体が、「イヌの価値観」でしかなく。そんな価値観で頭がいっぱいになってしまう意識狭窄性こそが精神的病理である。

ヒトは大多数に迎合しておいた方が気分的に安心満足であろう。だが、そうした安心満足という脳内麻薬が促す思考バイアスこそが、思考停止を促し何も考えないバカへと陥る大きな要因なのである。

「恥ずかしい」などというのも、結局は多数派迎合性に過ぎず、多数派の価値観がバカであれば、むしろ正しいことこそが「恥ずかしい」行動として認識されることも珍しいことではない。

ヤクザにとって恥ずかしい行動とは、ヤクザをやめることである。

ISIL構成員にとって恥ずかしいこととは、暴力によって領土拡大が出来なくなることである。

川崎での学生殺人を行った少年達にとって恥ずかしいこととは、自分をバカにする相手をいちいち暴力的に威圧して外見的に服従させられないことである。

これらの「恥ずかしい」行動に、一体何の社会的価値があると言うのであろうか。

司馬遼太郎は「恥ずかしい」かどうかが重要だと説いたらしいが、流石は文系であり、論理的検証性を欠いた観念の世界の住人に過ぎず、もはや語るにも足りない。

「恥ずかしい」というのは、要するに外見的な他人からの見た目の話に過ぎない。見ている相手がバカであれば、バカな価値観で「恥ずかしい」かどうかが決定してしまうのであって。そのバカがどんなに多数であってもバカが正当化出来るわけでもないのである。

合理的説明のない一般大衆の価値観に何の疑いも持たない目先の多数派に嘲(あざけ)笑われようとも、それが人間性の否定の論証には全くならない。

その場限りのご機嫌取りを短絡的に「人間として」などと言い出すバカは珍しくはない。合理的根拠のないその場限りの満足感を得るための身勝手な主張こそが、むしろ社会を破綻に陥れる「実証不能の観念」なのである。









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