若者達が荒れるのは、根拠のない抑圧をするからである。
若者に限らず、「気持ちが荒れる」というのは精神的に余裕が失われて逃げ道がないからであって。荒れる以外の選択肢が失われてしまっているからである。
嘘つきや無責任な奴というのは、社会の中で生活していると結構いるもので、そういう奴らにいちいちムカついていても生活が成り立たないので。熱中出来ることに熱中して忘れてしまうという精神的逃げ道を持っておけば、いちいち荒れずに済む。
だから問題なのは熱中出来ることを見つけられない程の抑圧や、多数派からの評価に左右されてしまうという同調圧力に流されてしまうことである。
社会の中で生活していれば、それなりの制限というものは存在するのだが。実質的には誰にも迷惑がかからないようなことまでをも制限をしている場合は少なくない。
学力競争なんていうのも、生徒の学力偏差値が上がったり、進学率が上がることが教師の評価や成績に直結しているわけで。学力が高いことが本当に生徒個人の将来にとって必要な事なのかどうかなど、教師は本気で考えているわけではない。
親も親で、自分の子供の成績が低いことが多数他人から外見上恥ずかしいから「勉強しろ」と言っているだけであって。子供個人にとって必要かどうかを本気で考えているわけでもない。
そもそも親なんていうのは、そこらいらへんにいる男女がチンコ突っ込んで気持ち良かったら出来ちゃったという行きがかり上の結果として親に「なっちゃっている」だけであって。 そうではなくて本気で子供の将来にまで真剣に考えて子育て教育をしている親の子供なら、こんな記事を読む必要性なんて最初からない。
このように親教師の大多数は、本気で生徒子供の将来を考えて行動制限をしているわけではなくて、いきがかり上、何となく多数派に同調しているに過ぎないことを、あたかも合理的根拠に基づいて制限しているような気になっているに過ぎない。
面倒臭いのは、気分的には「本気」だということである。
合理的には何の根拠もないのに、気分的には「本気」で、観念的な強迫観念に基づいて「あれはダメ、これもダメ。」と制限をしているので。口先だけは「自由に何でもやってみれば良い。」なんて言うこともあるのだが、実際には何のアドバイスも協力もせずに、上手く行かなかった時には「そんなことやっても無駄だ。」などと頭ごなしに腐すだけである。
例えば、子供が「宇宙飛行士になりたい」と言った時に、親大人がどこまで真剣にサポート出来るのか。それが重要なのである。 大抵の場合は無難な選択を強制するだけで、生徒子供の主体性など全く認めないのが一般的である。
勿論、子供がその場限りに何となく外見上「カッコイイ」から憧れているだけであるなら、それはマトモに聞くだけ無駄かも知れないのだが。本当に本気で目指したいと思っている事程、子供は一度しか言わないもので、 それを聞き逃してしまうのが親として最悪なのである。
その場のノリと勢いで「あれがカッコイイ、あれやりたい。」といった風に、子供が言うことの多くは聞くに価しない戯言なのかも知れないが。 本気で目指している事の場合は気分や感情を伴わずに、ほんの一言「ボソッ」とつぶやくものである。 これを聞き逃してしまったり、或は頭ごなしに否定してしまうと、子供は主体性とか自主性といったものを失ってしまうのである。
子供が本当に何を目指しているのか、それを見極めるのは、子供が何をしているのかを日頃見ていれば判るはずなのだが。大抵の親は子供の行動を真剣には観察しておらず、「あれはダメ、これもダメ」と頭ごなしに否定するだけである。
にも関わらず、親は気分的には「本気」で「子供の為を思って。」否定しているのでタチが悪い。
気分感情的にどんなに「思って」も、それは観念的なものに過ぎず。合理的根拠を伴うとは限らない。
そもそも親自身が、子供の頃に自主性や主体的意向といったものを認めてもらうという育て方をされていない場合には。無意識条件反射的に子供の自主性や主体的意向を否定するような行動を採りがちでもある。
これは一種の軽い「虐待の連鎖」である。
以上のように、親教師の直接的要因以外にも、間接的な要因というのもある。
■先天的本能としての社会形成習性
ヒトという種の生物というのは、先天的に多数他人と同調することで気分的に安心し。権威などの特定他人に服従することで統率的協調性を発揮する行動習性がある。
しかし、この行動習性というものは、自然界においては生存のために必要なものであったとしても。自然界から隔絶された現代社会においては、こうした先天的な行動習性というものは、しばしば目的もない暴走の原因ともなることが少なくない。
川崎での学生殺人事件を起こした学生も、「空気に流された。」とか、「気が大きくなってしまった。」などと供述していることからも。当人の意図目的とは無関係に、先天的な行動バイアスが暴走した結果として殺人にまで至ってしまっているのである。
「その場の空気に流された。」とか、「気が大きくなってしまった。」などというのは、要するに無意識条件反射的行動を意味するものであって。その動機としても「仕返しや警察にばれることが怖かった。」といった気分感情と行動が直結していることこそが、無意識条件反射的短絡行動の原因なのである。
その場限りに「怖い」かどうかというのは、その場限りの気分であって。その行動によってどのような結果が生じるのかといった合理的予測に基づいた行動選択が出来ていれば、何も殺人にまで至らなくても済んだはずなのである。
暴力的威圧によって服従させようとする者というのは、暴力的威圧によって服従させられるような育て方しかされていないからであり。これもまた一種の「虐待の連鎖」の顕れである。
「ナメられたら、負け。」という強迫観念が意識を支配していれば、ナメられないためには必死になって暴力的威圧を増大させなくてはならず、インフレーション的に暴力性を加速暴走させなくてはならなくなるのである。
自分の人生棒に振ってまでナメられないようにする必要性がどこにあるのか、そんな合理的判断は先天的本能習性が促す行動バイアスからは出てくることはない。 なぜなら先天的本能習性というのは気分感情の強度程度という無意識な「結果」であって、意識的、論理検証的目的行動選択とは無関係だからである。
ヒトが上下関係、主従関係といったものに異常執着するのは。イヌのそれと同じで先天的行動習性の「結果」であって、目的があるわけではない。
人間としての社会的目標としては、平等や公平といったものがあるが。それに対してヒトの先天的な社会形成習性というものは、平等や公平とは相容れない行動バイアスとして働いてしまうのである。
ことほど左様に、先天的な社会形成習性というものからは、人間性を伴った倫理や社会性といったものが機能するようなメカニズムは存在しておらず。むしろ人間性を喪失されるような行動バイアスを促してしまう危険な無意識なのである。
それを京都大学霊長類研究所は、「先天的な社会性から、人間としての社会性を立証可能かも知れない。」などという、「かもしれない」形式の反証され得ない非科学的話で大衆人気取りをしたのであり。こんなオカルト進化生物学を鵜呑みにしているからこそ、ISILのような暴力集団の暴走をも許してしまったとも言えるのである。
宗教というのはそもそもが先天的な服従欲を満たすという気分的安心満足のためのものであり、預言者や教祖の意図した平和や調和といった意識的目的とは正反対な暴走をも招くものでもある。
宗教というものの正しい側面と、悪い側面を区別するためには。宗教というものを論理的に理解し、その扱い方を知る必要性がある。 その場限りの気分的満足を目的とした安易な神と、本当に平和を求める敬謙な信者とを区別出来ないからこそ。その場限りの気分的満足を目的としたナショナリズムを用いた安易なポピュリズムの暴走をも招いてしまうのである。
区別が正確に出来ていれば、トランプ共和党大統領候補とISILは同じものであることが明確になるのである。
そこに宗教宗派は関係がないのだが、そうした論理的区別が出来ないからこそポピュリズム(大衆迎合)なのである。
Ende;
若者に限らず、「気持ちが荒れる」というのは精神的に余裕が失われて逃げ道がないからであって。荒れる以外の選択肢が失われてしまっているからである。
嘘つきや無責任な奴というのは、社会の中で生活していると結構いるもので、そういう奴らにいちいちムカついていても生活が成り立たないので。熱中出来ることに熱中して忘れてしまうという精神的逃げ道を持っておけば、いちいち荒れずに済む。
だから問題なのは熱中出来ることを見つけられない程の抑圧や、多数派からの評価に左右されてしまうという同調圧力に流されてしまうことである。
社会の中で生活していれば、それなりの制限というものは存在するのだが。実質的には誰にも迷惑がかからないようなことまでをも制限をしている場合は少なくない。
学力競争なんていうのも、生徒の学力偏差値が上がったり、進学率が上がることが教師の評価や成績に直結しているわけで。学力が高いことが本当に生徒個人の将来にとって必要な事なのかどうかなど、教師は本気で考えているわけではない。
親も親で、自分の子供の成績が低いことが多数他人から外見上恥ずかしいから「勉強しろ」と言っているだけであって。子供個人にとって必要かどうかを本気で考えているわけでもない。
そもそも親なんていうのは、そこらいらへんにいる男女がチンコ突っ込んで気持ち良かったら出来ちゃったという行きがかり上の結果として親に「なっちゃっている」だけであって。 そうではなくて本気で子供の将来にまで真剣に考えて子育て教育をしている親の子供なら、こんな記事を読む必要性なんて最初からない。
このように親教師の大多数は、本気で生徒子供の将来を考えて行動制限をしているわけではなくて、いきがかり上、何となく多数派に同調しているに過ぎないことを、あたかも合理的根拠に基づいて制限しているような気になっているに過ぎない。
面倒臭いのは、気分的には「本気」だということである。
合理的には何の根拠もないのに、気分的には「本気」で、観念的な強迫観念に基づいて「あれはダメ、これもダメ。」と制限をしているので。口先だけは「自由に何でもやってみれば良い。」なんて言うこともあるのだが、実際には何のアドバイスも協力もせずに、上手く行かなかった時には「そんなことやっても無駄だ。」などと頭ごなしに腐すだけである。
例えば、子供が「宇宙飛行士になりたい」と言った時に、親大人がどこまで真剣にサポート出来るのか。それが重要なのである。 大抵の場合は無難な選択を強制するだけで、生徒子供の主体性など全く認めないのが一般的である。
勿論、子供がその場限りに何となく外見上「カッコイイ」から憧れているだけであるなら、それはマトモに聞くだけ無駄かも知れないのだが。本当に本気で目指したいと思っている事程、子供は一度しか言わないもので、 それを聞き逃してしまうのが親として最悪なのである。
その場のノリと勢いで「あれがカッコイイ、あれやりたい。」といった風に、子供が言うことの多くは聞くに価しない戯言なのかも知れないが。 本気で目指している事の場合は気分や感情を伴わずに、ほんの一言「ボソッ」とつぶやくものである。 これを聞き逃してしまったり、或は頭ごなしに否定してしまうと、子供は主体性とか自主性といったものを失ってしまうのである。
子供が本当に何を目指しているのか、それを見極めるのは、子供が何をしているのかを日頃見ていれば判るはずなのだが。大抵の親は子供の行動を真剣には観察しておらず、「あれはダメ、これもダメ」と頭ごなしに否定するだけである。
にも関わらず、親は気分的には「本気」で「子供の為を思って。」否定しているのでタチが悪い。
気分感情的にどんなに「思って」も、それは観念的なものに過ぎず。合理的根拠を伴うとは限らない。
そもそも親自身が、子供の頃に自主性や主体的意向といったものを認めてもらうという育て方をされていない場合には。無意識条件反射的に子供の自主性や主体的意向を否定するような行動を採りがちでもある。
これは一種の軽い「虐待の連鎖」である。
以上のように、親教師の直接的要因以外にも、間接的な要因というのもある。
■先天的本能としての社会形成習性
ヒトという種の生物というのは、先天的に多数他人と同調することで気分的に安心し。権威などの特定他人に服従することで統率的協調性を発揮する行動習性がある。
しかし、この行動習性というものは、自然界においては生存のために必要なものであったとしても。自然界から隔絶された現代社会においては、こうした先天的な行動習性というものは、しばしば目的もない暴走の原因ともなることが少なくない。
川崎での学生殺人事件を起こした学生も、「空気に流された。」とか、「気が大きくなってしまった。」などと供述していることからも。当人の意図目的とは無関係に、先天的な行動バイアスが暴走した結果として殺人にまで至ってしまっているのである。
「その場の空気に流された。」とか、「気が大きくなってしまった。」などというのは、要するに無意識条件反射的行動を意味するものであって。その動機としても「仕返しや警察にばれることが怖かった。」といった気分感情と行動が直結していることこそが、無意識条件反射的短絡行動の原因なのである。
その場限りに「怖い」かどうかというのは、その場限りの気分であって。その行動によってどのような結果が生じるのかといった合理的予測に基づいた行動選択が出来ていれば、何も殺人にまで至らなくても済んだはずなのである。
暴力的威圧によって服従させようとする者というのは、暴力的威圧によって服従させられるような育て方しかされていないからであり。これもまた一種の「虐待の連鎖」の顕れである。
「ナメられたら、負け。」という強迫観念が意識を支配していれば、ナメられないためには必死になって暴力的威圧を増大させなくてはならず、インフレーション的に暴力性を加速暴走させなくてはならなくなるのである。
自分の人生棒に振ってまでナメられないようにする必要性がどこにあるのか、そんな合理的判断は先天的本能習性が促す行動バイアスからは出てくることはない。 なぜなら先天的本能習性というのは気分感情の強度程度という無意識な「結果」であって、意識的、論理検証的目的行動選択とは無関係だからである。
ヒトが上下関係、主従関係といったものに異常執着するのは。イヌのそれと同じで先天的行動習性の「結果」であって、目的があるわけではない。
人間としての社会的目標としては、平等や公平といったものがあるが。それに対してヒトの先天的な社会形成習性というものは、平等や公平とは相容れない行動バイアスとして働いてしまうのである。
ことほど左様に、先天的な社会形成習性というものからは、人間性を伴った倫理や社会性といったものが機能するようなメカニズムは存在しておらず。むしろ人間性を喪失されるような行動バイアスを促してしまう危険な無意識なのである。
それを京都大学霊長類研究所は、「先天的な社会性から、人間としての社会性を立証可能かも知れない。」などという、「かもしれない」形式の反証され得ない非科学的話で大衆人気取りをしたのであり。こんなオカルト進化生物学を鵜呑みにしているからこそ、ISILのような暴力集団の暴走をも許してしまったとも言えるのである。
宗教というのはそもそもが先天的な服従欲を満たすという気分的安心満足のためのものであり、預言者や教祖の意図した平和や調和といった意識的目的とは正反対な暴走をも招くものでもある。
宗教というものの正しい側面と、悪い側面を区別するためには。宗教というものを論理的に理解し、その扱い方を知る必要性がある。 その場限りの気分的満足を目的とした安易な神と、本当に平和を求める敬謙な信者とを区別出来ないからこそ。その場限りの気分的満足を目的としたナショナリズムを用いた安易なポピュリズムの暴走をも招いてしまうのである。
区別が正確に出来ていれば、トランプ共和党大統領候補とISILは同じものであることが明確になるのである。
そこに宗教宗派は関係がないのだが、そうした論理的区別が出来ないからこそポピュリズム(大衆迎合)なのである。
Ende;