書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○自律判断選択。

2016年02月18日 14時21分56秒 | 意識論関連
自己の遺伝子は自己自身では選択不可能であり、故に自己の脳の構造もまた自己選択不可能である。

自己が成育環境において刷り込み学習されたあらゆる価値観の全てもまた、自己選択は不可能であり。既に存在している自己の中に存在する価値観のほとんどは自己自身による選択が介在していない。

以上のことを述べると、文科系大衆観念者のほとんど全員は「自律的選択など存在しない。」とか「自由意思など存在しない。」などという短絡的結論に至るという、全く合理性を欠いた身勝手な「解釈」に陥り。それ以上の論理的「理解」を自律的には全く考えようとしなくなる。

自律的に物事を考えることが嫌いである以上、バカなのは当たり前であろう。たとえ学力偏差値がどんなに高くてもである。

自己の選択というものは、二つに分類することが出来る。

一つは既に自己内部に刷り込み学習された価値観に基づいた無意識なバイアスによる条件反射的選択であり、これを「既存在」と呼ぶことにする。

もう一つは、以上のような無意識な思考バイアスに依らない自律的な論理検証性に基づいた、現在時点における選択可能な本質的意識であり。これは「現選択可能性」と呼ぶことにする。

文科系大衆観念者には、現選択可能性というものの存在が見えないのであろう。 自己の行動の全ては先天的本能習性や成育環境によって刷り込まれた行動バイアスだけでしか決定されることはないと勝手に決め付けることで、気分的に安心満足感に溺れ思考を停止させるためである。

文科系大衆観念者というのは、気分感情と行動が直結している者であり。自分の気分感情的に安心満足な選択以外は自律的には選択することに観念的恐怖心が植え付けられてしまっているために、自分の気分が悪くなるような自律的選択などというものはなかったことにしておきたいバイアスが働くことによって、「自律的な選択など存在しない。」などという非論理的な帰結を主張し、それ以上のあらゆる可能性を否定しようとするのである。

◇脳神経科学的見地

半側無視という症状がある。

脳の視覚野において梗塞などの原因によって網膜の半分が認識出来なくなった患者では。時折見えていない領域そのものが存在していること自体を認識出来ずに、目の前の視野の全てを把握していると勘違いする症状のことである。

実は、こうした見えていない領域自体が認識出来ない現象というのは。脳に特別異常のない人においても生じているものであり。いわゆる「盲点」というのがそれである。

眼球の網膜上には、視神経が密集している領域には視細胞がないため。例えば右目においては視野の右側に見えていない領域というのが存在しているのだが、それを大抵の人は認識することなく、全てが見えているかのように錯覚している。

これは、見えていない領域が認識されてしまっていると、日常生活における視覚認識をする上において無駄な認識処理が必要となるために、左右の眼球で補完可能な盲点が存在することを認識しないよう、脳が勝手に自動的に無視しているのである。

しかし、こうした自動的な無視のメカニズムというのは、時に補完不可能な視覚領域の欠損までにまで働いてしまい。その結果として半側無視といった症状として現れるのである。

こうした錯覚というのは視覚的な現象だけに限らず、視覚以外の思考においても生ずるものであり。これが様々な意識狭窄性をも生じさせる脳の構造的欠陥の原因でもある。

文科系大衆観念者においては、自律的論理検証判断というものは存在しては困るもの(恐怖の穴)である。

逆に言えば、自律的論理検証判断力がない者のことこそが、文科系大衆観念者であり。自律的には何が正しいのかを全く判断することをせず、ただ漫然と多数派や多数派によって認証された権威者の意見を鵜呑みにするばかりの凡庸な人であろうと欲するのである。

何せ自律判断よりも他人からの見た目を優先するために、その場の気分感情が行動と直結しているために自律的判断などというものは存在しては困るのであるため。必然的に自律的な社会的責任判断もせず、権威や多数派に迎合することで安心満足することしかしないのである。

承認欲求中毒の者が権威の査読に依存したがるのも、自律的な論理検証よりも、観念的安心を優先してしまうことによって、「恥ずかしい」などといった観念論が優先してしまい、科学論理的議論が全く出来ないことになってしまうのである。

そもそも承認欲求というのは、他者からの承認に依存していることを意味し、自律的な論理検証よりも多数他人や権威者からの承認ばかりを求める症状であるから、目先の気分が行動や言動と直結しており、無責任発言をしても何ら反省すら自律的にはしないという傲慢さをも発揮するのである。



そもそもこうした自律的論理検証性の欠如というのは、一種の症状であり、病気であるから、畑村洋太郎がぶん殴っても治るようなものではないのだが。 京都大学の准教授が「自律的判断など存在しない。」などというオカルト観念を信じ込んでいて良い訳がないのは明らかである。

困ったことに大多数の大衆の多くは、こうした先天的な病を病として認識しておらず。病人の多数決が民主主義を支配しているために、自律的判断の重要性など「なかったこと」として無視されるのである。

危険学や失敗学において最も重要とされる帰結が、「自律的な社会的責任」であるのだが。文科系大衆観念的にはこれは原発や航空機などの運転運用上などの「技術者」だけに要求される倫理であると解釈し、「自分達には関係がない」こととして無視するのである。

重大事象の裏には、無数の小さな事象が隠れている。 いわゆる「ハインリッヒの法則」である。

重大事象だけを見ていたのでは、無数の小さな事象に目がゆかず。結果的にこれから起こり得る潜在的可能性のほとんど全てを見逃してしまっているからこそ、似たような事例が何度も続くという結果を招くのであり。こうした文科系大衆観念的な「事象の大きさ」だけで分類するような解釈の仕方そのものが、問題解決を妨げる大きな要因となっているのである。

池上彰が「なぜ、戦争はなくならないのか。」などと称して、戦争だけを採り挙げて何かの解決策につながるのではないかのように言い出すのは。もはや大衆の頭の悪さを利用した詐欺行為とも言える無責任な話なのである。

死んだ人数を短絡的に倫理か何かと結び付けるような短絡性が文科系大衆観念者にはあり、重大事象だけを取り上げておけば倫理を論じたかのような大衆観念上の錯覚を利用しているだけであって。実際には視聴率を稼ぐだけで社会的には何の役にも立たない情報を垂れ流しているに過ぎないのである。

「動物的な目先の利己的利益」と、「これからも自分が生き続けるに価する社会のあり様に基づいた人間としての行動判断」との間にこそ倫理や人間性が存在するのであって。死んだ人数や被害の大きさは倫理とは無関係な話であり。

たとえ何の被害がないとしても、これから起こり得る可能性としての危険性を軽視することは人間として、倫理に欠ける行為なのであり。 これを無視して結果的な事象の大きさ程度だけを根拠に重大事象だけを採り挙げるというのは、問題の本質を無視した大衆迎合にしかならない。

これは福島第一原発における非常用電源喪失の可能性放置と同じことであり。実際に重大事象が発生する前に既に倫理は失われていたのであって、結果的被害の大きさと倫理は無関係なのである。

それこそ酷い場合には、「直接放射能で死んだ人はいない。」などという無責任な言い逃れを言い出すバカもいる程である。

バカな哲学者は死んだ人数だけが倫理か何かと勘違いし、やたらと「トロッコのジレンマ」を挙げようとするが。これは危険学や失敗学的な見地から見た本質的倫理を無視した、大衆の頭の悪さを利用した思考撹乱や言葉遊びにしかなっていないのである。

むしろ「トロッコのジレンマ」を採り挙げている時点で、哲学者としては無能なポンコツであることの証明でもある。



大衆の多くには、本質的意識としての自律的論理検証性はない。 だからこそ不毛な言葉遊びや合理的根拠のないオカルトが学問を撹乱している現状に何の疑問も持たないのである。

ヒトは、ヒトという種の生物は、気分感情が行動と直結「しがち」ではある。

だからといって、気分感情のままに行動することが「人間として正しい」論証にも。気分感情のままに行動する以外の現時点での自律的行動選択の不可能が立証されたわけでもない。 こうした「現実」を無視して、「自分はイヌやカブトムシだから本能には逆らえない。」などと言い出すバカが倫理を説く権利など道義的に存在するわけがなかろう。

「自律的判断が存在しない。」ということは、要するに「自分はバカだから、本能習性や既に学習した既存の価値観以外に自律的に行動選択することは出来ない。」という意味であり。こんなふざけたことを真顔で言い出すオカルト観念者が京大で准教授を勤めていて、一体学生に何を教え込むつもりなのであろう。

京大霊長類研究所の松沢哲郎が、「先天的本能習性から人間としての社会性が立証出来るかも知れない。」などと言い出すのも。人間としての社会性というものが先天的に何も考えずに自動的に成立しているという大衆迎合的妄想を利用した公然の嘘に他ならない。 それをマスコミの誰一人として訂正も意義も唱えないのである。 これこそがヒトの異常性の根源であることを認識すべきであろう。

倫理や人間性というものは、先天的な本能習性が促す行動バイアスからは成立するようなものではなく。むしろ先天的な本能習性が促してしまう無意識で条件反射的な行動バイアスに流されずに、自律的に論理検証し判断選択するという本質的意識や意思が働いて、初めて発揮されるものなのである。

ヒトの多くは誰かを悪者と規定して怒鳴り散らすような懲罰的行動だけで正義だと錯覚するが。こうした正義というのは先天的に組み込まれた習性が促す快楽が作り出した妄想錯覚に過ぎない。

勿論「畑村洋太郎にぶん殴ってもらった方がいいんじゃねぇのか。」などというのは大衆居酒屋的な冗談であるが。畑村洋太郎に京大も含めて文科系大衆観念者の異常性を指摘してもらった方が良いことは確かである。

社会にとって最も重要なのは、持続可能性と安全性である。これらを阻害する要因を放置しておいて、言葉面だけ「安心安全」などと言うのは、単なる大衆迎合でしかなく。無責任極まりない。

議事堂の前で太鼓叩いている暇があるなら、代替エネルギー案や省エネルギー対策案を提案するという建設的な行動がもっとあるはずで。 そもそも個人の自律に基づいた倫理や人間性が何なのかを論理的に理解していれば、あんな悪夢のような重大事象は起こさずに済んだはずなのである。



Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする