配偶者選択(性淘汰)における「ハンディキャップ理論」などと称して「生存に不利な特徴を持っているから、より強い遺伝子を持っているはずだから、メスが選択をする。」といった屁理屈をこじつけるが
メスは先天的に好きな特徴を選択しているだけであって、遺伝子の良し悪しを考えて選択しているわけではない
たまたまメスが好む性質を持った個体への淘汰が起きた結果であるにも関わらず、そこに目的だの戦略といった概念をこじつけるのが生物学者達の悪い癖である
ヒトの女子がDV男を配偶者として選択して生活に困窮することには、進化生物学的な「説明」が可能であろうか。
より暴力的な男の方が、自然界においては有利だったという説明も可能であろうが。それならむしろ女子の配偶者選択には何の考えも介在しておらず、単に結果的に「自然界においては暴力的配偶者を選択することが生存に適していた。」という結果としてDV配偶者選択をする個体への淘汰された先天的行動習性の結果に過ぎないことの証明であり、「より優秀な遺伝子を選択」しているわけでも何でもないのである
もし、現代社会において生活に困窮することのないDV男を選択しない女性にヒトが進化するためには、DV男を配偶者選択する女性への強力な淘汰圧力によって絶滅する必要性がある
進化というものは、あくまで強力な淘汰圧力による膨大な屍の上に成り立つ過酷なものであって、目的や戦略などに基づいた合理的なものではないのである
生物進化というものが、常に何らかの意味があって起きるわけではなく。あくまで「死ななかった」ことによって生存に適した変異の結果が「進化」であって、変異や進化に意味がなくても構わないのである
進化生物学者達は変異や進化の全てに何らかの意味が存在するはずだという観念に囚われており、極めて非合理なこじつけをいつまでも繰り返す原因となっている
淘汰圧力によって、より何らか生存に適した特徴を獲得するわけだが。その獲得途中においては必ずしも生存に適した個体だけではなく、生存に適さない個体も存在することになる
現在の個体種が進化の過程ではないことを証明出来ない以上、現存種の性質の全てが生存にとって最適であることも証明できないし。現実に生存にとって不利な行動習性や特徴を持った生物やヒトは存在するのである
進化というものは、個体の意図的目的とは無関係なものであり。どんなに個体が「死にたくない。」とか「遺伝子を遺したい。」と願ったとしても、先天的に生存に有利な変異を持っていなければ淘汰対象となるのであり。そこに目的だの戦略といった概念が入り込む余地はない
もし変異や進化が努力だの目的だの戦略によって起きるというのであれば、先天性の疾患で繁殖不能な人は当人の努力や頭が悪いことが原因だという話になってしまうのである
こうした生物学における進化に対する異常なこじつけや観念を鵜呑みにしているからこそ、フランシス:ゴルトンの優生学に対する明確な論理的反証をも怠ってきたのであり。科学者として極めて社会的に無責任でもある
個体種として生存に適しているかどうかと、個人の人間性とは何の関係もなく。どんなに健康で繁殖能力が高いとしても、人間性が欠如していたのでは意味がないのである
先天的疾患や障害を一切持たない個体だけに淘汰され、健康で生存に適した個体だけに「進化」することは、別に人類の目的ではない
進化も生存も、これらは「結果」であって「目的」ではない
現代社会にとって負担が多い先天的疾患や障害があろうとも、それが短絡的に人間としての価値が低いことにはならない
相模原障害者施設やまゆり園における虐殺事件の犯人の主張は、あくまで個人の主観的に幸福か不幸かしか論じておらず、それゆえ「自分の子供に障害があれば殺すのか?」と問えば答に窮するのである
「助けたのに家族から感謝されなかった。」などという話も、結局は評価承認欲求中毒患者の妄想に過ぎない
他人を助けるのは人間として当然の行動であって、自分が助けられる場面もあるかも知れないからこそ、「助けて当然」という発想に至らないのは。思考が短絡的で薄っぺらだからである
利他的行動というのは、短絡的に感謝されたり評価してもらうために行うものではなく。人間として当然の行動なのである
行動のいちいちに感謝や評価を求める評価承認欲求中毒患者というのは、要するに思考が浅く、発想が幼稚なのである
環境依存的に行動が決定してしまう先天的行動習性からは、人間性を論じることは構造原理的に不可能なお伽話であり、松沢哲郎の妄想を鵜呑みにしている大衆マスコミもまた社会的に無責任なのである
もう生物学は間違いが多過ぎていちいち反証説明するにも途方に暮れるわ
しょうもない
そもそも「先天的習性や本能でしか行動が決定しない」という大衆の妄想観念が生物学に非科学的妄想錯覚を蔓延させる原因なのである
先天的習性や本能といった「無意識」に左右されず、自律的に社会的責任判断を下せるという本質的意識、人間としての意識があってこその人間性や倫理なのであり。そこに進化的説明は意味が全くない
こんな単純な話がどうして理解できないのかね
もしかして大学の単位とか評価が得られなければ認識できなくて、自律的には何も判断できないバカしかおらんのが原因なのかしら
Ende;
メスは先天的に好きな特徴を選択しているだけであって、遺伝子の良し悪しを考えて選択しているわけではない
たまたまメスが好む性質を持った個体への淘汰が起きた結果であるにも関わらず、そこに目的だの戦略といった概念をこじつけるのが生物学者達の悪い癖である
ヒトの女子がDV男を配偶者として選択して生活に困窮することには、進化生物学的な「説明」が可能であろうか。
より暴力的な男の方が、自然界においては有利だったという説明も可能であろうが。それならむしろ女子の配偶者選択には何の考えも介在しておらず、単に結果的に「自然界においては暴力的配偶者を選択することが生存に適していた。」という結果としてDV配偶者選択をする個体への淘汰された先天的行動習性の結果に過ぎないことの証明であり、「より優秀な遺伝子を選択」しているわけでも何でもないのである
もし、現代社会において生活に困窮することのないDV男を選択しない女性にヒトが進化するためには、DV男を配偶者選択する女性への強力な淘汰圧力によって絶滅する必要性がある
進化というものは、あくまで強力な淘汰圧力による膨大な屍の上に成り立つ過酷なものであって、目的や戦略などに基づいた合理的なものではないのである
生物進化というものが、常に何らかの意味があって起きるわけではなく。あくまで「死ななかった」ことによって生存に適した変異の結果が「進化」であって、変異や進化に意味がなくても構わないのである
進化生物学者達は変異や進化の全てに何らかの意味が存在するはずだという観念に囚われており、極めて非合理なこじつけをいつまでも繰り返す原因となっている
淘汰圧力によって、より何らか生存に適した特徴を獲得するわけだが。その獲得途中においては必ずしも生存に適した個体だけではなく、生存に適さない個体も存在することになる
現在の個体種が進化の過程ではないことを証明出来ない以上、現存種の性質の全てが生存にとって最適であることも証明できないし。現実に生存にとって不利な行動習性や特徴を持った生物やヒトは存在するのである
進化というものは、個体の意図的目的とは無関係なものであり。どんなに個体が「死にたくない。」とか「遺伝子を遺したい。」と願ったとしても、先天的に生存に有利な変異を持っていなければ淘汰対象となるのであり。そこに目的だの戦略といった概念が入り込む余地はない
もし変異や進化が努力だの目的だの戦略によって起きるというのであれば、先天性の疾患で繁殖不能な人は当人の努力や頭が悪いことが原因だという話になってしまうのである
こうした生物学における進化に対する異常なこじつけや観念を鵜呑みにしているからこそ、フランシス:ゴルトンの優生学に対する明確な論理的反証をも怠ってきたのであり。科学者として極めて社会的に無責任でもある
個体種として生存に適しているかどうかと、個人の人間性とは何の関係もなく。どんなに健康で繁殖能力が高いとしても、人間性が欠如していたのでは意味がないのである
先天的疾患や障害を一切持たない個体だけに淘汰され、健康で生存に適した個体だけに「進化」することは、別に人類の目的ではない
進化も生存も、これらは「結果」であって「目的」ではない
現代社会にとって負担が多い先天的疾患や障害があろうとも、それが短絡的に人間としての価値が低いことにはならない
相模原障害者施設やまゆり園における虐殺事件の犯人の主張は、あくまで個人の主観的に幸福か不幸かしか論じておらず、それゆえ「自分の子供に障害があれば殺すのか?」と問えば答に窮するのである
「助けたのに家族から感謝されなかった。」などという話も、結局は評価承認欲求中毒患者の妄想に過ぎない
他人を助けるのは人間として当然の行動であって、自分が助けられる場面もあるかも知れないからこそ、「助けて当然」という発想に至らないのは。思考が短絡的で薄っぺらだからである
利他的行動というのは、短絡的に感謝されたり評価してもらうために行うものではなく。人間として当然の行動なのである
行動のいちいちに感謝や評価を求める評価承認欲求中毒患者というのは、要するに思考が浅く、発想が幼稚なのである
環境依存的に行動が決定してしまう先天的行動習性からは、人間性を論じることは構造原理的に不可能なお伽話であり、松沢哲郎の妄想を鵜呑みにしている大衆マスコミもまた社会的に無責任なのである
もう生物学は間違いが多過ぎていちいち反証説明するにも途方に暮れるわ
しょうもない
そもそも「先天的習性や本能でしか行動が決定しない」という大衆の妄想観念が生物学に非科学的妄想錯覚を蔓延させる原因なのである
先天的習性や本能といった「無意識」に左右されず、自律的に社会的責任判断を下せるという本質的意識、人間としての意識があってこその人間性や倫理なのであり。そこに進化的説明は意味が全くない
こんな単純な話がどうして理解できないのかね
もしかして大学の単位とか評価が得られなければ認識できなくて、自律的には何も判断できないバカしかおらんのが原因なのかしら
Ende;