書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○幸福。

2018年09月24日 19時19分05秒 | 意識論関連
幸福の基準自体が個人の主観的価値観に依存するものなので「私は幸福になりたいので、どうしたらよろしかろ?」とか聞かれても答えようがないんだよね

昆虫の研究者の中には「昆虫のたくさんいる森の中で心筋梗塞か何かで突然死して、蟻に食べられるのが本望。」なんて人もいるけど

そんなの虫嫌いの人にしてみれば「絶対ヤダ」って思うでしょ

スーパーウルトラエグゼクティブマーベラスボランティアの尾畠春夫さんみたいに毎日泥だらけになって被災者を助けることに幸福を感じる人だっている

そんなの普通は真似だって出来やしない

幸福ってのは個人の主観的好き嫌いに依存しているので「これさえやっときゃ幸福」っていう方程式みたいなもんは存在しないんだよね

自分が何を好きなのかは 結局自分にしかわからないものであって これは自分で探すしかない

そして どうすれば見つかるのかという方法論だって人それぞれ全く異なるものなので 実際試してみるしかない

だからノーベル賞受賞者の小柴昌俊さんが言うように「いろいろとやってみるしかない。」のよ

ただ 試してみるとは言っても他人からの評価をアテにしてたら本当の自分の好みはかえってわからなくなってしまう

どんなに多数他人から評価されても 主観的に好きでもないことだとどんなに金儲けが出来ようが人気が出ようが本当の満足感は得ることは出来ず

むしろ他人からそそのかされる形で強制的にそれを「やらないといけない状況」に陥ってしまうことにもなる

よっすいや清原和博の精神的不満って 多分そういうことなんだと思う

評価が高いうちはまだしも ちょっとでも下がり始めると社会的責任まで放棄するようになっちゃう そもそも「他人からの評価を下げたくないから悪いことをしない」だけなので 評価が思うように得られなくなると自律がないから薬物に手を出したり飲酒運転をしたりするようにもなる

テロリストとか通り魔の多くが学生時代に学力偏差値が高いという統計的事実も 「学力=知能=人間としての価値」みたいな大衆観念に基づいた刷り込みで学力競争に執着していたからであって 他人よりも学力が高ければそれだけで幸福が永遠に続くものだと勝手に錯覚していたから執着していたに過ぎない

そりゃ他人からの評価ばっかり目当てにしている教育者からすれば 生徒の学力が上がれば自分の評価報酬にもつながるから学力の高い子供ばっか評価するようになるんであって 本当に子供にとって大切なものが何かなんて「知ったことではない」わけよ

そういうバカ教育者や親の要求を盲目的に鵜呑みにしているから 実際の世の中に出てから「嘘だったんだ、裏切られた。」って気付いて通り魔とかテロの類で無差別報復して満足感を得ようとする

脳が餓えているのでむさぼるように満足感を得ようとして暴力という短絡的行動しか選択出来なくなる

仏教で言う「餓鬼」だわな



仏教の経典に「雪山童子」っていうお話があってね 「利他の行」に人生の全てを投げ出すことを誓った童子の物語なんだけど スーパーウルトラエグゼクティブマーベラスボランティアの尾畠春夫さんなんてかなり近いもんがある

雪山童子の物語では 最後に鬼が現れて「お前の目玉をよこせ」と言われたら 自らの手で目玉をえぐり出して与えたら 鬼はそれが気に入らずに踏み付け 「もう一方の目玉もよこせ」と言い出すのね

それでも童子は躊躇することなくもう一方の目玉も与えてしまう

鬼が現れた時点で既にファンタジーお伽話なんだけど そういう生き方をどう感じるのかを釈迦は問うたわけよね

宮沢賢治の遺した詩に「アメニモマケズ」も似たようなところがある

宮沢賢治は「世界中の人が幸福にならない限り、個人の幸福も有り得ない」という趣旨の事を言っている

大富豪になって 高価な食材を一流の料理人が調理したものばかりを食えるようになったとしても パレスチナで丸焦げにされた赤ん坊の映像を見せられたら味もへったくれもないでしょ



本当に主観的幸福であることというのが 単に社会的評価とか効率だけで算出できると思ってる奴らにとってはわからないんだろうね

「障害者は金がかかるから殺してしまえ。」なんて言っている奴らにとっては 金だけが幸福の絶対基準なんだろう

そりゃ本当の主観的幸福がわからないのは当たり前の話なんだけどね

主観的幸福が何なのかを知らない奴は他人からの評価とか他人との比較だけしか幸福の基準がない

それこそが 実は最大の「不幸の要因」でもあるんだけどね

不幸とは何か 地獄とは何かを知ることによってのみ幸福のなんたるかを知り得る

ロダンの彫刻作品「考える人」は「地獄について考えている」んであって 地獄を忘れて目先の快楽を追求しても「考え」なんぞにはならんのですよ

どんなに「思って」も そんなものは「考え」でも何でもない その分別がつかないことを「了見がない。」って言うのよ

現在「哲学」として分類されている書籍の大部分は 目先の幸福だの満足感だけを求めるバカの人気多数決で「哲学」扱いされているけど

理論的根拠を伴った本当の「哲学」なんぞほとんどなく 単なる主観的感想だの勝手な決め付け断言をしているのが「カッコイイ」だとか言われているだけなんだよね

「カッコイイ」なんてのは個人的好き嫌いであって論理的根拠にゃ一切ならないのに そんな基準で哲学だと思っていること自体がバカ過ぎて話にならん

「哲学には好き嫌いがあります。」だとか言っているバカも後を絶たないけど 好き嫌いがあるのは何だってそうだろよ

主観的に好きであることが論理的根拠を伴った正しいことの証明になるわけでもないのに何かの論証であるかのように偉そうに言い張ると大抵のバカは「ああそうか」と勝手に納得して思考停止に陥る

「哲学には好き嫌いがあります。」と言ったからといって「だから? 何?」でしかないんだよ

何で何にも考えないんだろうね バカなんだろうな哲学書読んでる奴って だから書いてあることを鵜呑みにして引用するだけで 誰も論理検証をしないんだろうな




Ende;
コメント
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