主観と客観をちゃんと区別しないから訳のわからぬ話が収拾つかなくなるのよね
植松聖を正当化したがるバカが言ってたんだけど「男気を感じる」ってのは「感じ」であって主観に過ぎない
主観的な「感じ」を人間としての意識の本質か何かだと勘違いしているから主観的な「感じ」を根拠に正当化しようと試みることになる
自分の主観的「感じ」というものが完全で絶対的正義か何かだと勘違いしているバカ特有の妄想なんだけど
自分の脳が「感じ」ていることが何で「正しい」になっちゃうんだろうね
キチンと論理的に検証してみようか
先ず 自分の遺伝子は自分では選択出来ないものであり 既に存在しているハードウェア的な自己そのものは自分では選択不可能なので 主体的自己存在の論証には全くならない
次に そのハードウェア的な自己が育った環境としての時代や社会から受けたあらゆる影響や価値観も自己選択不可能なので これもまた主体的自己存在の論証にはならない
自分の遺伝子を自分で選んでいない以上、自分の脳からわいてくるあらゆる感情気分(主観的「感じ」も含めてね)はそもそも自分が主体的に選択したものでも何でもないので どんなに気分感情的に「感じた」かどうかは本質的な自己としての選択の論拠には全くならないのよ
主観的に「ムカついた」だとか「男気を感じた」なんてのは あくまで個人の主観的価値観であって これは個人の勝手な好き嫌いの範疇の話でしかない
どんなに強くムカついたとしても それは人間としての本質的な意識ではない
人間性や倫理といったものは あくまで客観性や論理性に基づいた判断選択(本質的意識)にあるんであって 主観的な「感じ」の強度程度(無意識)に惑わされることがあってはならない
他人の行動を見て 社会の持続可能性や安全性に適合しているかどうかを判断出来ていれば 自ずから自分が何をして良くて 何をしてはいけないかは自律的に判断できるものである
自律的に物事を判断出来ないのは 「法律で決まっているから」とか「多数派がそう言っているから」とか「権威の命令だから」といった「他律」で判断しているからなんだよね
日本人は特に迎合性とか多数派同調性が文化(これもまた無意識が促す連鎖の一種)が根強いので 自律が育みづらい傾向もある
法律なんてのは所詮「誰か」他人が決めたものであって それが絶対的なものではないからこそ立法機関としての国会があるんだし
多数派が常に正しいとも言えないから戦争だとかポピュリズムが蔓延(はびこ)ったりすることになる
権威への盲目的服従も含めて こうした自律の喪失というのはヒトという種の生物の先天的な社会形成習性が促す無意識な行動バイアスであって 無意識に対抗するためには本質的意識としての「考え」が伴わなければならない
主観的好き嫌いなんてのは 気晴らしエンターテイメントの領域であって 個人的に「○○ちゃんがかわいい」と感じたからといって別に正義にも何にもならないし 社会的にはどうでも良いことなんだよね
だから猟奇殺人に魅力を感じたとしても それは個人のお楽しみの範疇であって 小説とか映画とか妄想だけで楽しんでいる分には実害はない
ところが現実社会の安全性や持続可能性をすっ飛ばして主観的妄想錯覚が優先してしまうから頭がイカレているのである
江戸川乱歩の小説は 出版当時「異常者を助長する」とか言われて非難されてたそうだけど 今は文学賞の冠にまでされるようになっている
それは実害がないから
主観的に「幼い女子をレイプしたい」とか「思った」ところで 「思った」だけとか「夜のオカズにした」とかなら実害はない
その「思い」の強度程度で人間の価値が決まるわけではなくて 主観的な「思い」の制御コントロールができるかどうかの行動選択としての理性が重要
フェミ系クラスタの女子がそれを「気持ち悪い」とどんなに「思った」ところで それもまた主観に過ぎないので「どうぞ勝手に思って下さい」って話でしかないのよ
ただ 皆が嫌がってるのに社会的意味もなしに嫌がらせで「パンツ見せろ」とか言い出すのはただの迷惑行為だけどね でもダイスケ・リチャードさんが「パンツが見たい」と思う分には趣味の範疇
悪趣味だけど
個人的趣味の範疇
それを嫌がる相手に強要したら個人的趣味の範疇を逸脱している
LBGTの問題だって それに慣れていないから「気持ち悪い」と思っているだけであって それは勝手なんだよね
レズビアンとかを気持ち悪いと「思う」からといって いきなり差別迫害の対象にするからおかしなことになる
身体的に女性として産まれてきたからといっても女子の方が好きだと思うのも自由
それなら小学生の女子見て萌へるのも自由 だけど人様の娘さんを勝手に性欲の玩具にして良いことにはならんでしょ
子供は将来大人になって社会を持続するための一人の自律した社会人として育ってもらわないといけないんだから 子供は社会の財産なんだから 主観的好き嫌いの趣味だけでどうこうして良いわけがない
「あんた自分の子供がそんなことされたら嫌でしょ」って話
一人の社会人としての行動判断選択に必要なのは 安全性や持続可能性にとって実害がないかどうかなんであって 多数派から「気持ち悪い」と思われるかどうかは人間性とは何の関係もない
エロゲーとかギャルゲーにハマったって実害はないけど(程度はあるが)
原発の津波に対する脆弱性を放置したら実害があるのよ
人間性の本質とは何かと言うと 自律的な論理検証による社会的責任判断能力なわけだけど
これを否定しようとするバカが後を絶たない
「直感とか潜在意識こそが重要」だと言い張るバカのことである
バカが直感や潜在意識の有用性を述べる時 将棋やスポーツの成績ばかりを取り上げるのだが 将棋やスポーツの成績は金儲けや人気取りには有効だが 人間性や倫理とは全く関係がない
ないのだが 金儲けや人気取りが出来そうな話をすると凡夫衆生というのは利己的欲望に惑わされ簡単に社会的責任判断や倫理が思考から抜け落ち 直感や潜在意識こそが最も重要なものだと勝手に錯覚してしまう
考えが薄っぺら
個人が金儲けや人気取りをすることと 社会的責任判断選択をすることのどっちが人間性にとって優先されるべきか
考えるまでもないでしょ
他人に対して倫理や人間性を求めておきながら 自分だけは特別に利己的利益を優先して良いわけがないでしょ
◇
「死が究極の恐怖」なのが文系の価値観だが 本当に恐いのは自分が死ぬことなどではない
本当に恐ろしいのは「ヒトがヒトを殺すこと」である
自分が死ぬことよりも「パレスチナの赤ん坊が丸焦げにされ続ける」ことである
パレスチナが遠くて実感がわきづらいなら 「近所の親子が将来を悲観して無理心中すること」でも良い
「若者が絶望して通勤快速に飛び込むこと」でも良かろう
生き続けるにおいて絶望的な社会こそが本当に最も「恐ろしい」ことなのである
持続可能性や安全性が蔑ろにされる社会に どうして生き続けなくてはならないのであろうか
個人の生存自体 動物としての個体 医学的な「生存」自体は 人生においてさしたる意味などない
医学的手法でどんなに長寿になろうとも 生き続けるに価しない社会では何の意味もなかろう
苦しむために長生きするような社会であるなら 死んだ方がマシである
バカがバカを死刑にして満足し バカの根源を誰も認識知覚せずにバカげた犯罪が繰り返す社会なんぞに何の未練を持つ必要性があろうか
そこに人間としての尊厳はあるのか
少しは「考え」ろよ
クソの役にも立たない知識の「量」だけひけらかして満足してんじゃねぇよ
思考の「質」が悪すぎるわ
Ende;
植松聖を正当化したがるバカが言ってたんだけど「男気を感じる」ってのは「感じ」であって主観に過ぎない
主観的な「感じ」を人間としての意識の本質か何かだと勘違いしているから主観的な「感じ」を根拠に正当化しようと試みることになる
自分の主観的「感じ」というものが完全で絶対的正義か何かだと勘違いしているバカ特有の妄想なんだけど
自分の脳が「感じ」ていることが何で「正しい」になっちゃうんだろうね
キチンと論理的に検証してみようか
先ず 自分の遺伝子は自分では選択出来ないものであり 既に存在しているハードウェア的な自己そのものは自分では選択不可能なので 主体的自己存在の論証には全くならない
次に そのハードウェア的な自己が育った環境としての時代や社会から受けたあらゆる影響や価値観も自己選択不可能なので これもまた主体的自己存在の論証にはならない
自分の遺伝子を自分で選んでいない以上、自分の脳からわいてくるあらゆる感情気分(主観的「感じ」も含めてね)はそもそも自分が主体的に選択したものでも何でもないので どんなに気分感情的に「感じた」かどうかは本質的な自己としての選択の論拠には全くならないのよ
主観的に「ムカついた」だとか「男気を感じた」なんてのは あくまで個人の主観的価値観であって これは個人の勝手な好き嫌いの範疇の話でしかない
どんなに強くムカついたとしても それは人間としての本質的な意識ではない
人間性や倫理といったものは あくまで客観性や論理性に基づいた判断選択(本質的意識)にあるんであって 主観的な「感じ」の強度程度(無意識)に惑わされることがあってはならない
他人の行動を見て 社会の持続可能性や安全性に適合しているかどうかを判断出来ていれば 自ずから自分が何をして良くて 何をしてはいけないかは自律的に判断できるものである
自律的に物事を判断出来ないのは 「法律で決まっているから」とか「多数派がそう言っているから」とか「権威の命令だから」といった「他律」で判断しているからなんだよね
日本人は特に迎合性とか多数派同調性が文化(これもまた無意識が促す連鎖の一種)が根強いので 自律が育みづらい傾向もある
法律なんてのは所詮「誰か」他人が決めたものであって それが絶対的なものではないからこそ立法機関としての国会があるんだし
多数派が常に正しいとも言えないから戦争だとかポピュリズムが蔓延(はびこ)ったりすることになる
権威への盲目的服従も含めて こうした自律の喪失というのはヒトという種の生物の先天的な社会形成習性が促す無意識な行動バイアスであって 無意識に対抗するためには本質的意識としての「考え」が伴わなければならない
主観的好き嫌いなんてのは 気晴らしエンターテイメントの領域であって 個人的に「○○ちゃんがかわいい」と感じたからといって別に正義にも何にもならないし 社会的にはどうでも良いことなんだよね
だから猟奇殺人に魅力を感じたとしても それは個人のお楽しみの範疇であって 小説とか映画とか妄想だけで楽しんでいる分には実害はない
ところが現実社会の安全性や持続可能性をすっ飛ばして主観的妄想錯覚が優先してしまうから頭がイカレているのである
江戸川乱歩の小説は 出版当時「異常者を助長する」とか言われて非難されてたそうだけど 今は文学賞の冠にまでされるようになっている
それは実害がないから
主観的に「幼い女子をレイプしたい」とか「思った」ところで 「思った」だけとか「夜のオカズにした」とかなら実害はない
その「思い」の強度程度で人間の価値が決まるわけではなくて 主観的な「思い」の制御コントロールができるかどうかの行動選択としての理性が重要
フェミ系クラスタの女子がそれを「気持ち悪い」とどんなに「思った」ところで それもまた主観に過ぎないので「どうぞ勝手に思って下さい」って話でしかないのよ
ただ 皆が嫌がってるのに社会的意味もなしに嫌がらせで「パンツ見せろ」とか言い出すのはただの迷惑行為だけどね でもダイスケ・リチャードさんが「パンツが見たい」と思う分には趣味の範疇
悪趣味だけど
個人的趣味の範疇
それを嫌がる相手に強要したら個人的趣味の範疇を逸脱している
LBGTの問題だって それに慣れていないから「気持ち悪い」と思っているだけであって それは勝手なんだよね
レズビアンとかを気持ち悪いと「思う」からといって いきなり差別迫害の対象にするからおかしなことになる
身体的に女性として産まれてきたからといっても女子の方が好きだと思うのも自由
それなら小学生の女子見て萌へるのも自由 だけど人様の娘さんを勝手に性欲の玩具にして良いことにはならんでしょ
子供は将来大人になって社会を持続するための一人の自律した社会人として育ってもらわないといけないんだから 子供は社会の財産なんだから 主観的好き嫌いの趣味だけでどうこうして良いわけがない
「あんた自分の子供がそんなことされたら嫌でしょ」って話
一人の社会人としての行動判断選択に必要なのは 安全性や持続可能性にとって実害がないかどうかなんであって 多数派から「気持ち悪い」と思われるかどうかは人間性とは何の関係もない
エロゲーとかギャルゲーにハマったって実害はないけど(程度はあるが)
原発の津波に対する脆弱性を放置したら実害があるのよ
人間性の本質とは何かと言うと 自律的な論理検証による社会的責任判断能力なわけだけど
これを否定しようとするバカが後を絶たない
「直感とか潜在意識こそが重要」だと言い張るバカのことである
バカが直感や潜在意識の有用性を述べる時 将棋やスポーツの成績ばかりを取り上げるのだが 将棋やスポーツの成績は金儲けや人気取りには有効だが 人間性や倫理とは全く関係がない
ないのだが 金儲けや人気取りが出来そうな話をすると凡夫衆生というのは利己的欲望に惑わされ簡単に社会的責任判断や倫理が思考から抜け落ち 直感や潜在意識こそが最も重要なものだと勝手に錯覚してしまう
考えが薄っぺら
個人が金儲けや人気取りをすることと 社会的責任判断選択をすることのどっちが人間性にとって優先されるべきか
考えるまでもないでしょ
他人に対して倫理や人間性を求めておきながら 自分だけは特別に利己的利益を優先して良いわけがないでしょ
◇
「死が究極の恐怖」なのが文系の価値観だが 本当に恐いのは自分が死ぬことなどではない
本当に恐ろしいのは「ヒトがヒトを殺すこと」である
自分が死ぬことよりも「パレスチナの赤ん坊が丸焦げにされ続ける」ことである
パレスチナが遠くて実感がわきづらいなら 「近所の親子が将来を悲観して無理心中すること」でも良い
「若者が絶望して通勤快速に飛び込むこと」でも良かろう
生き続けるにおいて絶望的な社会こそが本当に最も「恐ろしい」ことなのである
持続可能性や安全性が蔑ろにされる社会に どうして生き続けなくてはならないのであろうか
個人の生存自体 動物としての個体 医学的な「生存」自体は 人生においてさしたる意味などない
医学的手法でどんなに長寿になろうとも 生き続けるに価しない社会では何の意味もなかろう
苦しむために長生きするような社会であるなら 死んだ方がマシである
バカがバカを死刑にして満足し バカの根源を誰も認識知覚せずにバカげた犯罪が繰り返す社会なんぞに何の未練を持つ必要性があろうか
そこに人間としての尊厳はあるのか
少しは「考え」ろよ
クソの役にも立たない知識の「量」だけひけらかして満足してんじゃねぇよ
思考の「質」が悪すぎるわ
Ende;