ネトウヨといったSNS上でのイジメやヘイトスピーチ 店舗などでの店員や 駅員に対する暴言などは 「実証不能の観念の振り回し」に分類される行動です
社会というものは完全ではありません
そもそもヒトという種の生物自体が完全でもなんでもない以上 ヒトが作った社会が完全無欠なものであるはずがないのは当たり前の話です
この前提を理解していないヒトがいるんですね
「遺伝的進化によって先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などといったリチャード:ドーキンスのお伽話に基づいた生物学上のデマ誤謬を鵜呑みにし 主観的に満足安心してしまう
何せ 「自分には先天的に人間性が組み込まれた優秀で完全無欠の存在だ」とでも信じ込んでいるわけですから そりゃ主観的感情が促す行動の全ては「正しい」「正義」になってしまうことになります
ヒトという種の生物は 暴力的に「正義」を振り回すと主観的に満足する習性があるため 主観的に気に入らない相手に暴力を振るうことで何かが解決したかのような感覚を得られる先天的習性があるわけです
ヒーローものの映画やドラマというのは 基本的に正義を振り回して鉄槌を下し 「悪者」を退治することで「解決」となり これに消費者は主観的満足という感覚的快楽を得ることで「人気」を得るわけです
もちろんこれは錯覚(感覚)であり ヒトの先天的欠陥でもあるのですが 自分の主観的感覚を疑う自己客観性が全く働かないために 錯覚を錯覚だと自覚認識「できない」 若しくは「しようともしない」ために 先天的に組み込まれた動物的な行動バイアスのままに非合理な暴言暴力に邁進しようとすることになります
「こいつ 死ねば良いのに」と思うことは誰しもがあります
私なんかしょっちゅう「思って」ますが バカが死んだら何かの解決になるのかと言えば ならないんですね
ヒトというのは世代交代していきますから 今いるバカが全員淘汰されても 次世代にバカが混入する構造をなくさない限り バカは次々と量産されてくることになってしまいます
構造原理という原因を究明し 再発防止策を徹底してはじめてあらゆる諸問題というのは「解決」に近づくことができるわけであって 目先の気に入らない相手を殴ったり誹謗中傷しても何の問題解決にもならないのです
たとえば 通り魔を死刑にしたら通り魔事件がなくなるかと言えば なくなりません
「通り魔が 通り魔などという非合理な行動をなぜするようになったのか」についての論理客観的な原因究明が一切されていませんから 原因が放置されたままになるため 何度でも通り魔事件というのは起きることになるわけです
それでも通り魔犯に対して大半のヒトは「死刑にしちまえ!」と怒鳴り散らし 再発防止対策を全て無視放棄している無責任さについては自覚することなく 何の疑いも持たず ただ「多数と同調できる」ことの安心感に酔いしれ 死刑制度が温存されることになるわけです
刑法罰というのは 自律的に社会的責任判断をしようとしない無責任な犯罪者に対して国家権力による罰(暴力)を用いた「抑止」にはなりますが これはあくまで対処的なものであって 根源的な原因究明や再発防止にはなりません
自律的に社会的責任判断をしようとしないヒトが存在する限り 犯罪というものはなくなることはありません
こういう話をすると 「全てのヒトが自律的な社会的責任判断をする社会など実現不可能な夢物語だ」と言い出すヒトが大半ですが
本当にそうでしょうか?
「絶対に実現不可能であることの論理的証明」ができるヒトがいるでしょうか?
困難であることは確かでしょう
ですが「絶対に不可能」であることの論理的証明や根拠は何もないのです
少なくとも 自律的な社会的責任判断をしないヒトを「減らすこと」ができれば 社会安全性は確実に高まることになります
他人に対して「がんばれ がんばれ」と努力を煽っておきながら そう言っている当人が「人間としての目的」としての社会安全性への努力を放棄していたのでは これは「身勝手な傍観者」としか言いようがありません
傍観は共犯と一緒です
しかし ヒトの多くは多数派である傍観者に甘んじていた方が主観的に安心であるため 大多数のヒトは多数派や権威に同調迎合し 傍観者であろうとするのです
無責任な選択であっても 多数であれば責任が薄まる感覚(錯覚)によって ヒトの大半は自律的には何も判断しないようになるのです
論理客観的真理 すなはち「本当のこと」が何なのかを区別する上においても 所詮は主観的感覚器によって外界環境からの刺激の範囲内においてしか働くことはできませんが 単なる主観的な感覚に過ぎない感情バイアスと 論理客観的検証に基づく判断は「一緒」ではありません
にも関わらず「どうせ全部主観から導き出されたものじゃねぇか」と言われると 大半のヒトは何の検証もせずに「ああそうか」と主観的に「納得」して鵜呑みにしてしまうのです
主観が促す「納得」感に対しては疑わないからです
それは 自分の主観的感覚を絶対的なものだと盲目的に信じ込んでいるのと同じことなのですが その傲慢さについては自覚がない
だから間違った話でも簡単に信じてしまうことに陥る
それは短期的には「幸福」でしょう
目先の安心感が得られますからね
でも その代わりに安全性という長期的利益は損なうことになるのです
あるバカがこう述べたことがありました
「知性を感じられない」と
このバカは自分の主観的感覚が絶対的なものだと信じて疑っていないから こういう言葉が出てくることになる
逆にいえば このバカが「知性を感じられる」話に論理客観的根拠や証拠があるかと言えば ないんですね
「感じ」という主観的感覚でしか論じていませんから 論理客観的説明や根拠はでてこない
これはもう ヘイトスピーチ中毒になっている中年ネトウヨヲヤヂが言う「だって悔しいじゃないですか!」という主張と構造的には一緒です
にも関わらず 「何でヘイトスピーチをやる奴が出てくるんだろう?」などと疑問を持っても 客観的には「一緒だろが」って話にしかなりません
結論としては バカは何も考えないからバカなのであって キチンと筋道を辿って考えればバカから脱することができるという話です
「自己の主観的感覚には錯覚が伴う可能性(先天的欠陥)がある」ことを自覚していれば 感情が行動に直結するようなバカげた行動には陥らない
そんだけの話です
Ende;