書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

服従。

2012年07月10日 17時31分00秒 | 意識論関連

2012.7.6
○服従。

 東電の幹部達が管直人元総理の顔色を窺って適切な対処が出来なかったというのは、東電幹部達に自律的社会的責任判断能力がなかったことの著れである。

 首相が感情的にどのような命令を下そうとも、安全性を優先した適切な判断を優先すべき自律こそが東電幹部達に課せられた社会的責任というものである。

 東京電力という大きな会社の幹部になれたくらいであるから、世間的には成功していると言えるであろうし、年収もそれなりに多いのであろう。どんなに世間的に成功していようとも自律的に社会的責任判断が下せないのであれば、人間としては出来損ないに過ぎないのである。

 首相の命令に従わないことによって責任問題を観念的に恐れ、責任逃れとして命令に服従した結果として東電の幹部達は自分の責任を放棄したのである。

 管元首相の事故対応も感情的でヒステリックであったことも適切ではなかったと言えるであろうが、権威の命令に無為無作為に服従して良いことの理由には全くならない。


 人間としての本質的な価値というものは、当然学力だの年収で測れるようなものではないことは言うまでもないはずである。ところがヒトの多くは学力だの年収といった基準で他人の人間としての価値を測りがちである。

 ヒトの多くは世間的に成功している者の言うことを優先しがちである。その理由は世間的に成功することにあやかりたいからであり、単なる利己的根拠に基づいて本能的に優先しているだけの場合がほとんどである。

 現状世間において成功しているということは社会的責任判断能力=論理検証性に基づく自律の論証ではない。ところが多くの大衆凡民達は、現状世間において金儲けが上手いことと本質的人間性の区別も満足に出来ず、漫然と世間的成功=人間の価値という実証不能の観念に基づいた基準で判断してしまうのである。

 ヒトという種の生物は、その本能的な社会形成習性によって、観念的な基準による服従対象としての権威の命令を優先することで自律的な社会的責任判断にすりかえ安心満足するのである。論理的には無責任なこうした行動であっても、論理的検証ができない文系観念に囚われた者にとっては、気分的安心と論理的安全性の区別を全く行わない。

 マスコミは安心と安全をやたらとパック扱いしたがるが、気分的安心と合理的安全性の論証を混同することはマスコミとしての社会的責任を放棄しているのと同様なのである。


Ende;
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