○耐性。
イジメ話が問題にされると、必ずイジメられる方の耐性だとか弱さを問題にするバカがいる。
そもそもイジメというものはイジメを行う方の多数集団に迎合してしまう精神的弱さが原因であって、カルト宗教的な暴走であるから歯止めは効かず、イジメられる方は圧倒的少数であるから強いだの弱いだのを論ずるのはあまりにバカげている。
生物学的な「強さ。」を論じるなら、自殺に追い込まれる方が生物学的に劣っているだけであって、自殺による淘汰も正当化されるのである。
おいらもイジメられてたけど、最後にはぶちギレて首謀者を後ろから首を絞めてやって引きずり回して全員黙らせたことがある。ぶちギレたことを「強い。」などと言うのであれば、通り魔は英雄である。
そんな感情的/生物学的「強さ。」が、社会的に何の意味があろう。
だから「生存自体に意味はない。」と言っているのである。
自殺自体を違法とすることに意味はない、何ら抑止にもならないからである。
ヒトの多くがバカで、誰にも自分達の習性本能的行動を抑制出来ない社会であるならば、尊厳に基づいた自殺は論理的正当性がある。
生物学的な「強さ。」に基づいて、生存自体に意味を求めるなら、シエラレオネの少年ゲリラは「正しい。」ということである。
何の考えもなしに「イジメられる方の耐性。」などと訳のわからぬ実証不能の精神論を振り回すのは、「ナチズムによって虐殺されたユダヤ人が生物学的に弱かったからである。」と言っているのと同じであり、故に生物学は優生学を否定しないのである。
それはキチガイの論理という以外になく、生物学界はカルト化腐敗していると言っているのである。
学生の自殺を抑止するなら、「学校に行かなければならない。」という観念を捨てることである。イジメがあるようなバカの集団に馴染んでも、何ら人間性は養われることはなく。むしろ統率的協調性による非人間性ばかりを無意識「学習。」するだけである。
統率的協調性というものは、ヒトの本能的社会形成習性によって自然と無意識に行われるものである。しかし、こうした本能習性も本質的自発性による行動選択が伴わなければ、本能習性だけが暴走することになる。シエラレオネの少年ゲリラの残虐性というものはガキの集団だけで放置しておけば勝手に陥るカルト状態である。
教育委員会や学校による組織的事実隠蔽というものも、いわば統率的な協調性の賜物である。彼らは自分達の組織体制を維持することにおいて世間的に「成功。」しているからだ。公になった問題なら「失敗。」とも言えるであろうが、ハインリッヒの法則に従えば、表沙汰になっていない「成功。」が大量に存在すると考えるべきである。だからこそイジメの問題は全く改善進展が見られないのである。
大人が子供のイジメを止めようともしないのであれば、子供達は「イジメはなくならないものである。」などと刷り込み「学習。」するであろう。そんな子供が大人になって教師の立場になってしまうから誰もイジメを止めようとはしなくなるのである。
こうした一種の「虐待の連鎖。」というものは、無意識的に刷り込み学習によって漫然と繰り返されるのである。
東電による原発暴走も、「津波の影響を考慮に入れれば、日本の何処にも原発は造れない。」などと言う実証不能の観念に迎合した協調性「社会性。」によるものであり、多数に迎合することを学校で刷り込み学習された子供達が、大人になって企業に入っても無為無策に上司に服従迎合するしか出来なくなってしまったからである。
アインシュタインが権威や力によって学生を強制力によって服従させることの危険性を「従順な臣民。」と形容したのは、従順なだけで自発的に何も考えなくなったヒトというものは、自律的に社会的責任も負わなくなる危険性を「後に重大な障害をもたらす。」と論じたのである。
イジメをやめさせるということは、すなはち人間としての極めて基本的な行動選択をさせることであり。こうした本質的な人間としての社会性を形成しなければ、子供達の誰も自律的には社会的責任を負わなくなる。
「どうせイジメはなくならない。」という話には、合理的根拠はなく。ただ単に「今までずっとそうだった。」ことを無意識的行動学習することによる、気分的な「諦め。」に由来する実証不能の観念に過ぎない。
諦めてしまうことは本能的に楽で、自然な行為である。故に思考が停止し無為無策に陥る「習性。」なのである。
自然のままに任せておけば、ヒトから残虐行為は無くなることはない。ヒトとは初期的には残虐性も持ち合わせているのが現実であるからだ。
ヒトという種の生物のオスは、生殖能力の高い若い女性を強姦したがる習性がある。しかし、こうした本能的行動というものは遺伝的に組み込まれたシーケンシャルな無意識行動の「結果。」でしかなく、強姦した後に女性を殺害することによって社会的事実隠蔽を行う場合も少なくない。そこには当人の目的意識は存在せず、ただ機械手続き的条件反射行動としての本能習性行動の結果しか存在しないのである。
本能的行動習性というものに生物学的こじつけ/事後正当化をするのは簡単であろうが。実際には本能習性行動の結果というものには結果以上の何ら目的意識が存在せず、全くもって無意味である。
「自分に娘ができて、初めて社会安全性の大切さを知った。」などという話は、要するに予測能力の低さによる合理性が全く追究できていなかったバカさを論じているだけであって、最初から社会がどうあるべきかという自発的「意思。」の欠落による意識狭窄によって、予測自体を全くしていなかったからである。
現状世間に迎合服従するだけであるなら、何が起きても文句を言う権利はない。子供であるなら大人の作り出した世間に迎合するしかなかろうが、子供が大人になる過程において自発的に個人自身が合理的に「考え。」るような環境を整えなければ、世間は従順なだけの無為無策な文系観念に染まった凡人の暴走を誰も止めることは出来なくなる。
っていうか、既にあちこちで暴走してるけどな。
だから教育っていうのは「教えたことをただ正確に行える。」だけではダメで、自発的に疑問を持つことを自分自身でも否定せず、また他人からも否定されないような環境によって持続できるようにし。諦めずに疑問や謎を探求する強い自発的意思を育てることが重要なのである。
自己の保身や生存を優先すれば、原発が暴走してでも腐敗組織や世間に迎合服従している方が「正しい。」ことになる。それならイジメで自殺が起きても自殺した奴がバカで弱いだけであって、イジメを行っている多数には何の問題もなく医学的には「正常。」だと言えるであろう。
医学的には多数は「正常。」なのであり。それなら少数である「異常。」個体は生物学的には淘汰の対象でしかない。
イジメのある学校の中で多数に迎合し、イジメられないように加害者になることは生物学的には「正常。」なのである。
何の疑問も持たずに、無為無策に陥っている多数の観念を鵜呑みにすることは「正常。」なのである。
多数がバカである場合、バカこそが「正常。」なのである。それが「現状。」というものである。
そんな「正常。」性を漫然と放置しておいて、社会的問題が解決しないのは必然と言う他ない。
現状というものは現実の断片であって、「これからどうすべきかを選択可能である。」という事実を無視するから現実逃避によって無為無策に陥ることになるのである。
現実逃避をしておいて客観的事実もすったくれもあったものではない。
生物医学的な「正常。」性というものは、生物種としての「ヒト。」の正常性しか規定してはいない。人間としての本質的正常性を論ずるのであれば、自律的に社会的責任判断を行い、諦めることなく問題や謎を自発的に探求する意思が必要である。
遺伝子や素粒子の研究も結構だが、いかなる科学技術を開発しても、それを何に用いるかを選択する「人間。」が存在しなければ、あらゆる技術は暴走しか生み出さない。
多数のヒト達が「それでも良い。」というのであれば、もはやおいらには何も言うことはない。
Ende;