自己肯定感の欠如しているヒトは その精神的欠損を補おうとして他人との比較競争に明け暮れ 他人を貶めてまで自分方が優位に立っているという錯覚に陥ろうとする習性がある
秋葉原通り魔事件の加藤智大(かとうともひろ)元死刑囚も 「俺のような人間は 死んだら良いんじゃ!」などと主張していた
他人に危害や攻撃を加えることで 被害者の方が自分よりも「下」だとみなせることで自分が優位に立ったという感覚(錯覚)欲しさに中毒になっているヒトというのがいて
要するに精神疾患なんだが 現状の心理臨床ではこれを疾患としては扱っていない
理由は簡単で あまりに多数なので「正常」と扱われているからである
自分を自分で肯定できないヒトは 他人を貶めることによって代替することしかできなくなる
すると 論理客観的根拠もなしに「死ね」だの「消えろ」だの「バカ」だのしか言わなくなり 何の論理的説明も一切することはない
個人の主観的な「嫌い」という感情が 短絡的に「正義の鉄槌」になってしまうので 「世のため他人のため」とか「人類の救済」だとか称して最終的に暴力で解決しようとする
実は刑法罰も構造は一緒である
犯罪者の病理を無視して多数派や国家権力による抑圧で感情的に満足しているだけであって 論理客観的な社会安全性の論証は全くないのである
どんなに軽微な犯罪であっても 更生治療をしないことには被害はなくならない
たとえ強盗殺人で25年の懲役刑を終えても すぐに殺人事件を起こす事例というのも時折繰り返されているのである
刑務所は罰を与えるのが業務であって 更生治療は努力義務でしかなく 治っていようがいまいが裁判での判決で決定された刑期を終えれば釈放するのが刑務所であるからだ
「多数派が正常」だと言うのであれば SNS上の誹謗中傷は「正常」ということになる
実際にMicrosoft社のTwitterAIは Twitter上の圧倒的膨大なヘイトスピーチを「学習」する形でヘイトスピーチに便乗同調したのである
ヒトは 元々野生生物から進化しているため 暴力性が生得的に組み込まれている
暴力で獲物を獲ることが脳への報酬として働く仕組みが先天的に組み込まれているのであり 種の保存に適した行動として民族浄化バイアスが働き 「変わり者」を排除攻撃する習性があるのだ
だから イジメや誹謗中傷をしている加害者というのは その快楽に溺れて中毒に陥ってしまうのである
だから 「やめることができなくなる」
他に個人的な楽しみがあれば イジメだの誹謗中傷だのに時間を割く暇はないはずなのだが それが一切ないため 自分が世間的に評価されないという「惨めさ」を補う形で他人に攻撃を加えることで脳への報酬を得て満足しようとする
「世間的に評価されたい」という価値観は 元々は「親大人達に評価されて安心したい」という幼稚な価値観が世間という集団に転移したものであり 他人を蹴落としてでも自分の方が優れていると見られたがるのである
脳がキチンと育って 大人としての社会的責任判断ができれば 他人を蹴落とすことよりも むしろ弱者を救うことの方に意識が働くのだが 大半の大衆はそうなっていないのである
「奪い合いをすれば足りなくなるが 分け合えば余る」と言われている
ところが順位序列で優位に立った者が独占する構造だと 必死になって優位に立たないと死んでしまうのではないかという恐怖心から 必死になって他人を貶めることに邁進暴走するようになる
構造自体を変えることには意識が働かず 既存の構造に流される形で他人を蹴落とすことしか意識の俎上になくなる
これは客観性がないのが原因である
「他人を攻撃すれば得をする」という錯覚に無意識に流されるだけで 本当は「弱い立場の人を救う方が社会全体が潤う」という客観的事実は見えなくなる
「情けは他人のためならず」とは 本当はそういう意味である
自分だけがどんなに物質的 数値比較的に「豊か」になっても 他人が苦しんでいたのでは本当の幸福は味わえないのだが そのことには意識が働かず「見えていない」からこそ他人を攻撃して主観的に満足することばかりにしか意識が働かなくなる
すると最終的には多数の他人を殺すことこそが「目的」になってしまうのである
当然ながら そんな行為に論理客観的合理性はない
あるのは先天的な脳の無意識な行動バイアスだけである
冷静になって考えれば テロだの通り魔だのをやらかしたところで 不公平が解消して世の中が良くなるわけでもないのに 主観的満足だけが肥大化して目先の「脳への報酬」欲しさに理不尽な暴力を振るうようになる
私自身も いくら説明しても誰も理解しないバカしかいないのであれば 「全員死ね」としか「思わ」ないこともあるが それでも向かいのマンションに住んでいる小学生の子供が将来理不尽な暴力を受けて苦しむことがないようにするためには 自分の主観的感情なんぞ棄てることの方が重要だと客観的に「理解」しているから こうやって面倒臭い説明を地道に続けているである
自分の主観的感情なんぞ そんなもん個人の主観であって 社会的にはどうでもよろしい
社会的には価値がないのである
そんなことより 自分が主観的に楽しいと思えること 美しいと思えることに熱中していたほうがマシというものである
目先の主観的感情に囚われ 異常執着しても 社会安全性や持続可能性は高まらない
本当に自分が望んでいる人生とは何かを深く「考え」れば 利己的感情論なんぞ大した意味はないのである
社会は「自分のための便所」ではない
自分の主観的感情は自分でなんとかするべきである
糞をするのに他人に頼るのは社会性を伴った「大人」ではない
自分のケツくらい自分で拭けと そう言っているだけの話なのだが
バカには響かないんだな
響かないからバカなんだけど
互いのケツを拭きあって満足しているバカの方が圧倒的に多いもんだから そっちの方が「正常」だと勘違い錯覚している奴は多い
Ende;