○自己犠牲。
持続可能性のない社会には、一分一秒たりとも人間として存在し「続ける。」論理的価値などないのである。自己が存在し「続ける。」ためには、自己を含む社会全体の持続可能性と等価であり。どちらか一方だけを求めるのは論理的に間違いである。
占い師の類の人生相談などでは、「社会のため。」的に自己犠牲を美徳とするような観念に基づいた行動選択を奨めるが。自己を犠牲にする者が社会を優先することは原理的にない。通り魔だの特攻自爆テロといったものは全て自己犠牲を美徳とした文系大衆観念による短絡的快楽の追求に過ぎず。単なる洗脳による気分的満足の追求でしかない。
美徳というのは合理的判断ではなく、単なる主観的観念に過ぎない。ところが美徳というのは本能感情と直結しているため、簡単にヒトの意識の表層を覆いつくし、その気分的安心満足によって論理検証性を奪うのである。
「自分一人が犠牲になれば世界が変えられる。」という英雄的な気分的満足によって自暴自棄に暴走破壊活動をすることは簡単である。社会的自己犠牲というものは積極的に行うようなものではなく、むしろ積極的危険に対して発揮する消極的なものでなければならない。積極性自体は意思ではなく、単なる感情に過ぎない。
消極的選択というものは英雄性を伴わず、誰にも認知評価されることが少ない。他者からの認知評価がないにも関わらず選択してこそ本当の自律判断と言うことができるのである。内部告発をしても英雄にはなれず、単なる裏切り者としか世間的には評価されないものなのである。
利己的欲望を追求するのも、自己犠牲によって英雄的評価を求めることも。結局は本能的快楽の追求にしかなっていない。これらに共通するのは短絡的思考放棄であり、「これさえやっときゃ。」的な頭の悪さである。
そもそも他者世間から煽られて行う自己犠牲というものには本質的自発性がない。
この種の者が言い出す条件反射的主張が、「じゃあ、どうすればいいんだよ。」である。どうすれば良いのかを他人に尋ねている時点で、自発的には何も選択したくないことの証明であり。問題が自分自身の内部に存在することを認識したがらない盲目性こそが根源的問題であることは、誰も認識したがらないのである。
個々の場面、個々個人の行動判断というものは、自律的で主体性を持たなければならない。他人からの評価だの世間的報酬といった、本質的主体性を持たない動機による行動選択からは原理的に自律判断というものは出て来ない。
私は神ではないから、あなたが自律的に社会的責任判断をしても評価もしなければ報酬も与えない。世間的に排除差別の対象になったとしても排除差別しているのは私ではなく、無意識な多数大衆であり。私の知ったことではない。
多数大衆が無意識ではなく、正当な責任行動選択に対しての評価を与えるような社会であれば、不当な差別や排除には遭わないであろう。そうした社会を築くためには、先ず自己自身が自律的意識を持つことである。
一人の力は微力である。しかし無力ではなく、むしろ多数によって強い力とすることも可能である。
本論は意識論である。従って無意識である気分的勇気だの元気を促すことを目的とはしておらず、あくまで自律的な社会的責任行動判断を求めるだけである。それこそが本質的な合理的判断であるからだ。
Ende;
持続可能性のない社会には、一分一秒たりとも人間として存在し「続ける。」論理的価値などないのである。自己が存在し「続ける。」ためには、自己を含む社会全体の持続可能性と等価であり。どちらか一方だけを求めるのは論理的に間違いである。
占い師の類の人生相談などでは、「社会のため。」的に自己犠牲を美徳とするような観念に基づいた行動選択を奨めるが。自己を犠牲にする者が社会を優先することは原理的にない。通り魔だの特攻自爆テロといったものは全て自己犠牲を美徳とした文系大衆観念による短絡的快楽の追求に過ぎず。単なる洗脳による気分的満足の追求でしかない。
美徳というのは合理的判断ではなく、単なる主観的観念に過ぎない。ところが美徳というのは本能感情と直結しているため、簡単にヒトの意識の表層を覆いつくし、その気分的安心満足によって論理検証性を奪うのである。
「自分一人が犠牲になれば世界が変えられる。」という英雄的な気分的満足によって自暴自棄に暴走破壊活動をすることは簡単である。社会的自己犠牲というものは積極的に行うようなものではなく、むしろ積極的危険に対して発揮する消極的なものでなければならない。積極性自体は意思ではなく、単なる感情に過ぎない。
消極的選択というものは英雄性を伴わず、誰にも認知評価されることが少ない。他者からの認知評価がないにも関わらず選択してこそ本当の自律判断と言うことができるのである。内部告発をしても英雄にはなれず、単なる裏切り者としか世間的には評価されないものなのである。
利己的欲望を追求するのも、自己犠牲によって英雄的評価を求めることも。結局は本能的快楽の追求にしかなっていない。これらに共通するのは短絡的思考放棄であり、「これさえやっときゃ。」的な頭の悪さである。
そもそも他者世間から煽られて行う自己犠牲というものには本質的自発性がない。
この種の者が言い出す条件反射的主張が、「じゃあ、どうすればいいんだよ。」である。どうすれば良いのかを他人に尋ねている時点で、自発的には何も選択したくないことの証明であり。問題が自分自身の内部に存在することを認識したがらない盲目性こそが根源的問題であることは、誰も認識したがらないのである。
個々の場面、個々個人の行動判断というものは、自律的で主体性を持たなければならない。他人からの評価だの世間的報酬といった、本質的主体性を持たない動機による行動選択からは原理的に自律判断というものは出て来ない。
私は神ではないから、あなたが自律的に社会的責任判断をしても評価もしなければ報酬も与えない。世間的に排除差別の対象になったとしても排除差別しているのは私ではなく、無意識な多数大衆であり。私の知ったことではない。
多数大衆が無意識ではなく、正当な責任行動選択に対しての評価を与えるような社会であれば、不当な差別や排除には遭わないであろう。そうした社会を築くためには、先ず自己自身が自律的意識を持つことである。
一人の力は微力である。しかし無力ではなく、むしろ多数によって強い力とすることも可能である。
本論は意識論である。従って無意識である気分的勇気だの元気を促すことを目的とはしておらず、あくまで自律的な社会的責任行動判断を求めるだけである。それこそが本質的な合理的判断であるからだ。
Ende;