書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

共感。

2012年08月19日 16時26分14秒 | 意識論関連

○共感。

 共感は「心」ではない。

 単なる共感を「心」であると言うのであれば、振り込め詐欺師集団内部での共感性も、カルト宗教の信者達の共感性も、ナチス政権下においてユダヤ人排斥に加担したドイツ人の共感性も「心」だということになる。

シエラレオネの少年ゲリラ達も、その集団内部において共感による協調性統率行動を採るのであって、共感を短絡的に人間性を伴う「心」と形容すべきではない。

 共感性というのは多数派との気分的な安心感を得ることが出来るため、気分的安心感を正当化したいため、共感の全ては「心」であることにしておきたい心理的バイアスによって促される錯覚である。

 イジメを放置するのは、多数派による気分的安心感によるものであり、気分的に安心であるからこそイジメは放置されるのである。

 イジメが放置されるのは、多数派同調バイアスという共感性によって気分的に安心し、「さしたる問題ではない。」と無意識的に危険性を低めに見積もる正常性バイアスによって放置されるのである。

 暴動というのも目先の多数派への迎合という共感性による破壊行動であり。無差別殺人における身勝手な価値観も目先の多数派への迎合によって促されるのである。

 「バスジャックをやらかしたら、凄い。」などという観念は、目先のバカガキ集団内部における共感性によって作り出されるものであり、身勝手な価値観の全ては個人による主体的な検証性が介在しない故の結果である。

 共感というものが常に人間としての行動を導き出す論理的根拠は存在せず、むしろ非人間的行動の根源となる主体的論理検証の欠落というものは、目先の集団内部における合理的根拠のない観念の共有/共鳴/共感によって促されるものなのである。

 共感性というのは本能習性の一つに過ぎない。共感性というのは大脳辺縁系に予め組み込まれた条件反射であって、こうした無意識的な条件反射の全ても自己の意識的判断であると思い込みたいため、そう思わないと気分が悪いため、条件反射的に本能習性の全てを事後正当化しておきたいのである。

 そう思っておけば気分的に安心満足を得られるため、こうした思考バイアスが発生するのである。



 ヒトの多くは自分の意識の全ては常に自分自身で意識的選択によって判断しているものであると勝手に錯覚しているが、実際には意識の9割以上、場合によってはほぼ全てが固定観念に基づく無意識条件反射であり。それを無意識であるとすら、自分自身では認識しておらず。あたかも自分の意識のほとんど全ては自分自身の意識的な判断によって行っていると錯覚しているのである。

 ヒトには無意識条件反射選択自体を無意識に正当化しておきたい本能的習性による思考バイアスがあり。これによってあらゆる論理検証思考は停止させられていることに、誰も気付かないのである。

 「欲望=自由意思。」という錯覚も、本来自分自身による意識的選択を介さない本能欲望のままに快楽を追求することが自由であるという観念的勘違いによって促される錯覚である。本能欲望自体は自分自身による意識的選択を介しておらず、徹頭徹尾無意識である。

 本能的思考バイアスによって事後的に正当化したい共感性を、短絡的に人間性を伴った「心」であるとヒトの多くは思い込んでいるのである。



 感情や本能自体は自分自身では選択出来ないものであり、暴力性も利己性も全てはヒトである以上逃れられない。しかし、意識的に統合的論理検証を行うことによって、目先の感情本能に流されることなく、社会の持続可能性も、社会的責任判断も行えるようになる可能性を持つのである。

 目先の集団内部の偏ったマインドセットが促す感情に流されることなく、自律的に統合的論理検証を行うことによって、はじめて人間としての「心」と言うことが出来るのである。

 目先の多数派に迎合することも共感性である。これを短絡的に人間性を伴った「心」であると言い張るのは、そこに論理検証性/考えが働いていないからである。

 何となく、雰囲気的に、無意識に流されているから文系大衆観念に陥るのである。

 考えが成立していない以上、これをバカとしか形容することは出来ない。


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独裁。

2012年08月12日 18時35分57秒 | 意識論関連

○独裁洗脳。

 国家単位での独裁だけを考えても、独裁の構造を知ることは出来ない。

 東電内部における統率的な危険性放置というものも、イジメにおける統率的暴力も、これらは全て独裁の雛形である。

 ヒトという種の生物は動物本能的な社会形成習性によって、封建的な統率による協調行動を採ることによって、誰にも意思目的のない暴走集団と化すのである。

 シエラレオネの少年ゲリラにせよ、ナチスやポルポトにせよ、暴力による統率に対して誰も批判しなくなれば、ヒトは恐怖によって行動が整理され、目先の安心だけを求めて統合的論理検証を放棄するようになる習性がある。

 ヒトは、行動を決定する場合に気分感情が優先されがちである。統合的な論理検証による自律的判断を「自分勝手で集団の規範意識に反するもの」であると錯覚するのは、それを気分的な思考バイアスだけで判断しているためである。

 規範意識というのは、ヒトの脳の報酬系が持つ条件反射性を利用した、気分的な恐怖と安心を用いた条件反射的な動物的行動学習「シツケ」であり。無意識である。「多数から罰を与えられる。」ことに対する気分観念的拒絶反応を用いて、盲目的に統合的論理検証をパスして短絡的に多数権威への服従迎合性を刷り込み学習しているだけである。

 動物的な行動学習による行動選択というのは、気分感情によって選択されるようにしているだけであって、個人が自発的に統合的論理検証を行っている訳ではない。

 誰にも自発的論理検証が行われることなく、無意識的条件反射による気分的行動バイアスだけで行動が決定されていれば、あらゆる危険性は放置され、暴走破綻に至ってでも本質的意識である論理検証性は発揮されることがない。

 ヒトという種の生物は、本能的に組み込まれた報酬系によって促される行動バイアスによって行動を左右されがちである。報酬系とは気分感情のことであり、脳内麻薬のことである。

 いうなれば、ヒトという種の生物というのは、独裁暴走状態への快楽誘導システムが予め組み込まれているようなものなのである。

 予め組み込まれた本能的な快楽誘導に流されるのは、そこに本質的な主体性のある統合的論理検証と、それによる批判精神が欠落しているからである。

 規範意識という無意識的行動バイアスこそが人間としての社会性であると言い張る生物学や認知神経科学界は、組織内部に自己検証性が全く欠落しており、明らかに統率的独裁暴走状態に陥っているのである。彼らは脳トレ類による権益を温存することばかりを優先し、脳トレ類における実質的な「頭が良くなる根拠」が間違っていたことを黙殺隠蔽しようとしているのである。マスコミも視聴率という組織の利益を優先し、科学的論証を無視して黙殺隠蔽に加担しているのである。

 これはもはやキチガイ集団としか形容できない。

 東北大:川島隆太による脳トレというのは、認知症の治療や、特定能力の向上にはなるものの、「頭が良くなる。」ことの論理的根拠は存在しないのである。「○○認知能力。」などと専門用語をでっちあげておけば大衆観念的には「頭が良くなる。」と勝手に勘違いすることも可能であろうが、これは単なる権威性を利用したペテンに過ぎない。

 強迫観念を利用した特定能力の行動学習というものは、個人の主体的論理検証性を失わせ、気分感情による無意識行動だけに行動を整理してしまうことになるのである。その典型が「偏差値の高い無差別殺人犯。」なのである。

 ワーキングメモリーの拡大といっても、これを算数暗算だけに特化してしまえば、暗算以外に応用が効かなくなる。ワーキングメモリーの汎用性を獲得するためには、強迫観念を利用した「これさえやっときゃ、頭が良くなる。」的な短絡的鵜呑みをするのではなく、それが本当に「頭が良くなるのか。」を論理的に検証することも必要なのである。

 何でもかんでも権威マスコミの扇動を鵜呑みにするからバカなのである。

 こういった話は動物行動習性的な「社会性」には欠けるであろう。相手のご機嫌を窺って、相手の気分が悪くならないように、相手の感情にとって都合の悪い話、「お前さんは、こんなに頭が悪いんだよ。」という認識を一切させず、短絡的に「これさえやっときゃ、お前さんは頭が良くなるんだよ。」的に誘導してバカに陥らせていた方が人気も出るし金も儲かるのである。

 それを「社会性」だというのであれば、洗脳も独裁も「社会性」である。それは無能で無抵抗なバカの集団に過ぎない。

 マキァベリの言葉というのは、ヒトの頭の悪さを鋭い観察によって分析したものであり、自分というヒトの頭の悪さを認識させるのにはとても素晴らしいものである。ヒトというのは習性を利用すれば簡単に欺くことが出来るものであることを認識し、同時に自分自身が騙されないよう検証する心が大事である。

 マキァベリの時代というのは戦争虐殺が横行していた時代であるから、これを外交に利用乱用しなければならなかったという現場の判断も必要だったであろう。それをただ観念的に拒絶し、気分的に嫌な話として無視し、意識から外し、「なかったこと。」にするからヒトという種の動物はいつまでもバカなのである。

 もしマキァベリがただの悪人であれば、自分の手の内を開陳したりせず、自分の利己的利益のために利用していたはずであり。本当の嘘つき悪人というのは相手の気分を害するような嫌な話は一切しないものである。

 本当の嘘つきや占い師というのは、「他人の話を信用しないのは、心の狭い態度だ。」などと「心=感情」という錯覚を利用して盲目的に論理的根拠を考えさせずに信用させようとするものである。

 詐欺師というのは外見上「正直者」を装うのである。その装い外見という「見た目」に意識の9割以上を奪われているからこそ、論理的思考が1割以下になってしまい、結局は気分的行動バイアスとして論理検証が放棄されるのである。

 「見た目」の印象というのは、無意識下に刷り込み行動学習された気分的バイアスに過ぎない。育った環境に依存した固定観念、マインドセットに過ぎないのである。

 子供が大きな声で挨拶をしていれば、文系大衆観念的には「元気な良い子供である。」と論理的根拠もなく勝手に思い込み、裏でイジメを実行していても誰も気付かないのである。

 挨拶というのは連続殺人犯の多くは普通に出来るものであり、当人の人格とは全く関係のない見た目の印象を用いて動物的な「社会性」として、相手を気分的に安心させるだけのものに過ぎない。

 気分的安心を優先してしまうから安全性が蔑ろにされるのである。

 東大学長が述べた「全てを疑え。」というのは、気分観念的に誰彼構わず猜疑心を持てということではない。先ずは自分自身の固定観念マインドセットを統合的に論理検証することからはじめることである。論理検証なくして学問もすったくれもあったものではないのである。

 あらゆる可能性の全てを、考えられうる限りに検証して初めて学問としての価値があるのであり、これは自発的に考えること自体が好きでなければ出来ないものである。従って学力成績という抽象化された「エサ」報酬につられて、強迫観念的に学力成績を獲得しただけの者には自発的思考が存在せず、何も自発的には論理検証出来ないのである。

 東大学長の「全てを疑え。」というのは、いきなり大学に入ってから唐突に言われて出来るようなものではない。小さい時期から自発的に行動を選択出来るように育てられていなければ、自発的な論理検証というのは困難を極めるのである。

 「自分は自発的に物事を検証するよう育てられていない。」などと言い出すのも、これもまた「甘え」に過ぎない。自分の頭の悪さを自分以外の原因になすりつけるというのは子供の論理である。「何のための学力であるのか。」を自己検証せずに、ただ環境に流され無意識に行動学習していた頭の悪さ、自分の自発的な「気付き。」の欠落性を認識することから始める必要がある。

 「自分は頭が悪い。」と称して、気分的に凹むだけでは論理検証には全くならない。なぜ気付かなかったのか、その理論的分析によって、どのようにすれば気付くことが出来るようにできるのかという「バカさの再発防止策」を確立すれば、充分学問として成立するのである。

 まあ、大学職員がバカなら学問として認定されないかも知れないが。そんな世間的な評価成功を目的にしてはならないのである。あくまで自発的に研究をすることが学問の真髄であり、現在の生物学や認知神経科学のように流行に流されるばかりで何ら論理的検証を全くしない公的組織というのは社会的負担にしかならないのである。


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社会性。

2012年08月12日 18時35分03秒 | 意識論関連

○社会性。

 認知神経科学では、社会性というものを以下のように定義する。

 「自己の欲望と社会的規範との折り合いをつけ、社会的常識に従って行動する。」

 もし、社会的常識や規範自体が間違っている場合。これに折り合いをつけ従うことは人間としての社会性であると言えるであろうか。

 ソマティックマーカー仮説で説明されるような、報酬と罰によって反射的に行動学習された社会的規範システムというのは学習「された。」無意識的条件反射であり。根本的に自律的な社会的責任判断とは無関係なものである。



 常識だの規範といったものが本当に人間として正しいであるかどうかを、自律的に論理検証しなければ、これは本当の意味での人間としての「社会性」には相当しない。これは畑村洋太郎が述べたものである。

 無意識に反射的に現状世間に服従迎合しておけば外見上は社会性であると「見なす」のであろうが、これこそが文系大衆観念に他ならない。

 単に外界からの抑圧に屈服し、自我の欲望との折り合いをつけるだけであれば、これは超自我的な無意識的抑圧に過ぎず、何ら自発的自律的な社会的責任判断には結び付かない。

 主体的に自分の欲望を満たせる純粋行為を選び出すことによって、自己の欲望を自分自身で満足させ、結果的に外見上の禁欲性や自律判断を発揮出来るのであり。

 自分以外からの無意識的抑圧による強制的行動抑制では自律的判断には結び付かない。

 自発的に社会の安全性や持続可能性を求めない限り、自律的には社会的責任判断は積極的には行われることはないのである。

 「罰が恐くて悪いことをしない。」というのは、子供の観念である。「恐い。」かどうかが行動の基準になっていれば、社会安全性に関わることであっても多数からの排除差別を恐れて自律的に選択実行することはなくなる。

 罰を恐れることで行動学習された行動抑制というものは、そこに当人の自発的自律判断を必要としないものであり。単なる機械的条件反射に過ぎない。


 本質的な人間としての「社会性」とは、無意識に刷り込まれた条件反射的行動抑制である「規範意識」によって導き出されるものではなく、あくまで自律的な論理検証性による社会的責任判断のことである。

 世の中のヒトの大半は自律的な社会的責任判断をするつもりはなく、権威や技術者などに責任判断を丸投げしておけば自動的に社会安全性や持続可能性を保障してもらえるものであると勝手に解釈しているであろう。こうした本能に寄り添った文系大衆観念こそがヒトから自律判断を奪うのである。

 ヒトがなぜ論理的根拠のない文系大衆観念を鵜呑みにしたがるのかというと、ヒトというのは気分が良くなるような話を鵜呑みにし、気分が悪くなるような話を無視する本能的思考バイアスが存在するからである。

 多数他人のご機嫌をとることを社会性であると認知神経科学では規定するが、それならペテン師は社会性があるということになる。逆にご機嫌をとることが出来ずに火炙りにされそうになった天才には社会性がないということになるのである。

 その場限りの生存価、生体にとって好ましい行動だけを論ずれば、社会全体における安全性や持続可能性は二の次にされるのである。

 東電社員が東電内部における常識や規範に従うことによって、社員が組織の内部における地位や社会的生活を保障される場合。原発の危険性を放置することは「社会性」であると言えるであろうか。

 無意識的な規範意識というのは、気分的な恐怖と報酬を用いた非自発的抑圧である。従ってどうしても目先の集団社会の常識や規範に意識を奪われがちであり、統合的な論理検証判断には至らない。目先の多数の方が気分的には優先されるからである。

 行動抑制の根本が恐怖と報酬という気分的行動バイアスの行動学習である以上、目先の多数に服従迎合してしまうのは必然である。

 目先の多数から受ける気分的抑圧に負けず、自律的に社会安全性を優先するというのは、そこに本質的な自発性が不可欠であり。アメとムチ(報酬と罰)によって気分的行動バイアスとして行動学習された規範意識では根本的に自発性が存在しないのである。

 動物の行動学習というのは、予め組み込まれた本能による報酬系によって促される気分的行動バイアスの「結果」であり、無意識である。分類に論理的根拠がないのと同様に、気分的行動バイアスにも論理的根拠など存在しないのである。

 生物の場合、大半は本能的行動バイアスは個体の生体にとって有利に働く場合が多いが。これも結果的な傾向性に過ぎず、論理的な保証が存在するわけでもない。結果的に生存していた種の本能であるから、それなりに生存価に適した行動を促すであろうことは言えるが、絶対ではなく。生体や種にとって不利な行動を促さない保証はどこにもないのである。

 規範意識というものも、それによって概ね社会的安全性を確保することが出来るとは言えるが。概ね以上の社会安全性の論理的保証にはならず、状況や環境に依存し、場合によっては逆に社会安全性を脅かすものでもある。

 自分の気分に左右されず、自発的に論理検証を行うためには、本質的自発性によって自律的に自分の感情を抑制出来ることが前提である。

 自発的な純粋行為というものは、他者からの評価報酬という誘導バイアスに左右されず、自分自身で自分の感情制御をしなければ出来ないものである。

 好きなことに熱中している人というのは、外見上努力辛抱根性を発揮しているかのように見えるであろうが。好きなことに熱中している場合、努力辛抱根性というのは外見上の結果に過ぎず、当人的には無意識のうちに努力辛抱根性を出してしまっているのである。これによって自律的な感情の抑制が身につくのである。

 努力辛抱根性的な精神論を持ちだし、当人が好きでもないことを強制しても、これは自律的な感情抑制には結び付かず、抑圧は後に重大な心理的崩壊を導く。偏差値の高い無差別殺人犯などというのはこの典型である。

 他人からの強制的抑圧というものは、精神的負担が大きく心的ストレスを溜め込むことに陥る。ひとりのヒトが許容できる心的負担というのは限界があり、先天的に欲望の強いヒトでは平均値に合わせるだけでも苦痛や心的外傷にもなりかねない。

 しかし自発的純粋行為に自分自身の存在価値を持ち、自発的に社会的責任を負おうとする場合には、他人からの強制的抑圧を必要としないため。たとえ世間的地位や権益を失うような状況下においても自発的に社会的責任判断をとれるようになるのである。

 「自分を大切に出来ないのであれば、他人も大切には出来ない。」ものなのである。たとえ自己犠牲をはらってでも社会という多数他人の安全性や持続可能性を追求するというのは、自己が主体的に「生きて」いるからこそ可能なことであり、自己の精神的満足を自己自身で賄えるからこそ可能となるのである。

 外的抑圧によって精神が餓えている者には自己犠牲をはらってまで他人のために何かを為すことはしない。むしろ他人から何かを享受することばかりを求めるのである。

 特攻隊が終戦後に自暴自棄に陥ったと言われるが、世間から強制された自己犠牲というのは精神に重大な心的外傷を与えるものなのである。

 心的外傷に由来する論理思考崩壊の結果、自暴自棄に陥り無差別殺人に陥っている場合。これをただ死刑罰に処しても根本的な無差別殺人の再発防止には全くつながらない。罰という観念的処理手続きでは実効性のある効果的対策には結び付かないのである。








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統合機能。

2012年08月12日 18時34分15秒 | 意識論関連

○論理検証の本質。

 論理検証の本質とは、統合的でなければ論理検証とは言えない。

 あらゆる可能性を考えられうる限りに検証してはじめて本質的論理検証と言うことができるのであって、断片的な検証だけで満足放置してしまうことは本質的には論理検証ではない。

 考えられうる限りまで考えが及ばないのは、問題に対する意識、自発的意欲が欠けているからであって。これが想定外だの検証範囲外といった思考放棄、検証放棄の原因なのである。




 「人間とは何か。」への本質的な自発的探究心がない奴に何を言っても無駄である。多数や権威からの評価報酬への反射的行動バイアスでしか行われない研究である以上、むしろ積極的に思考停止に持ち込もうとするからである。

 こういう奴はとっとと公的研究機関からは排除しなくては、社会的な負荷にしかならないのである。これは懲罰の類ではなく、合理化である。本質的知能を持たないバカに研究を任せておいてもクソの役にも立たないのであるから、これは観念的な「甘やかし」によって放置すべきものではない。





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実装。

2012年08月12日 18時33分26秒 | 意識論関連

○頭の悪さを実装する。

 論理的根拠のない「意味」を、論理的理解をともなわない「解釈」をしているから、実証不能の「観念」だの「神話」を振り回すことに陥るのである。

 「意味」とは、効果を持つもののことであり、「目的」と同義である。

 現在の脳神経科学を含む生物学全般においては、効果とは「生体にとって好ましい。」という生存価への効果しか論じておらず、生存という動物的な「結果」を「目的」であると勝手に規定してしまっているためであり、「生存こそが絶対的価値である。」という実証不能の観念に基づいている。

 イジメなどの排除差別で命を落とせば、「死んだ者は人間として出来損ないである。」という意味である。

 集団レイプを「元気があってよろしい。」などと述べた国会議員がいたが、動物的な生体として元気で健康で生存に好ましい行動を採ることを、短絡的に人間性であると錯覚しているからである。

 教育者達は集団組織的にイジメを統率的協調行動によって動物本能的に排除差別暴力をすることは、生体として健康だとでも思っているのであろう。それならイジメが発生するのは健康だという意味に「解釈」しているのである。

 そりゃ、イジメは放置されるだろうよ。



 「生存」は意味ではない、自然偶発的な結果として生存していたものを「生物」と分類しているだけであって、分類自体の方が絶対的意味だと錯覚するのは科学的論理思考とは言えないのである。

 人間としての意味とは、常習性というドーパミンが促す報酬系に対する反射的行動バイアスの「結果」を追求することではなく。自律的な統合的論理検証による社会的責任判断のことである。このことは実際に他者による無責任行動のなどの被害を受けなければ感覚的実感を伴わないかも知れない、多くのヒトは生存生体に好ましい行動こそが人間の価値だと勝手に思い込んでいるからである。世間的な評価報酬という「成功」こそが意味であると錯覚しているからこそ、本質的な人間の価値を忘れ、意識から外し、無視し、「なかったこと。」にしてしまうのであり、これなら原発が暴走しようとイジメなどの排除差別や暴力がなくならなくても当然というものである。

 「生存に適していさえすれば人間として優位である。」これが現在の生物学の基本概念である。だからこそ優生学などというオカルトが明確に否定出来ないのである。

 「生物学だから生存だけを意味とするのは当たり前だ。」などという言い逃れは、「役所がお役所仕事をして何が悪い。」と開き直っているのと同じである。生物学や特に脳神経科学は人間も取り扱う学問である、にも関わらず「人間とは何か」の基本概念を無視し、動物本能だけに意味を求めるというのは支離滅裂で科学的とは到底言えないのである。




 「言語=論理思考」という方程式にも論理的根拠はない。占い師や詐欺師、ニーチェだの養老だのプラトンの支離滅裂な話を鵜呑みにして気分的な安心満足をしていて、一体何が論理思考であろうか。

 ドストエフスキーでどんなに感動しても、これも気分的な満足に過ぎず、何ら論理的意味は存在しないのである。感動などというのは大脳辺縁系の報酬系が促す脳内麻薬の反応に過ぎず、感動という脳内麻薬の反応の大きさをどんなに強弁しても論理的意味には全くならない。これは単なる本能的行動バイアスの「結果」を述べているに過ぎないのである。

 ヒトの多くは言語による「文学」によって気分的安心や満足を得ることばかりを優先してしまい、論理的「意味」が何かを簡単に忘却するのである。

 言語というのはヒトという種の生物において特に発達した機能ではあるが、それが短絡的に「人間である所以。」には全くならない。

 どんなに複雑な無意識機能を解析しても意識機能には全く言及されることはない。「言語という無意識機能こそが人間を人間たらしめる。」などという訳のわからぬ話を本気で論じている脳神経科学者というのは、もはやキチガイとしか言いようがなく論外である。




 ヒトという種の生物において、人間たりうるためには。自発的に物事を判断し、自律的に社会的責任判断を行う必要がある。単なる生物的、生体的結果を述べても人間性の論証には全くならないのである。

 個人が自発的に物事を判断しなければ、個人が個人として尊重されうる互換不可能性を持たない。平たく言えば「誰でも良い。」ということである。すなはち機械や動物と全く同じである。

 言語機能を解析することは脳神経科学においての「流行」ではある。全く意味がないとは言えないであろうが、短絡的に「言語機能を解析出来れば、人間とは何かがわかる。」などという話には全くならない。それは「ヒトとはどういうものか。」を分析したことにしかならないのである。



 電子工学界においても、人間が取り扱う抽象的概念を「解釈」できるように、機械学習を用いて論理的根拠のない概念をも取り扱いできることによって、クイズ番組での成績が取れる研究が進んでいる。

 ヒトの自然言語を観念的に解釈し、答の予め用意されているクイズの成績を追求しても、そこから人間としての本質的知能は出てこない。

 クイズ王でどんなに世間的に成功しても、クイズ王は予め正解が用意されていない問題には一切解答できないのである。それは人間としての本質的知能が全く働いていないということである。

 クイズ専用スーパーコンピュータは、クイズの成績だけを報酬とした機械学習しかすることはない。「どうしたら人災を減らすことが可能であるか。」という「予め答が用意されていない問題。」に対して、論理的根拠に基づいた解答を出すことはなく、Web上から「それらしい。」文章を多数派傾向によって拾ってきて繰り返すだけであり、何ら自発的な論理思考は介在することはないのである。

 Web上に正解があるとしても、少数であれば無視されるのである。決して自律的に「何が論理的に正しいのか。」を判断することはない。そういうロジック(機械的論理回路)であるからだ。

 こうした無意味な研究ばかりが追求され、本質的な人間としての知能による倫理や問題解決能力が検証されないのは、一体誰がバカだからであろう。言語やクイズの研究をするのは構わないが、それこそが人間性であるというオカルト観念に基づいて研究費が配分され、本質的な人間としての価値について全く研究が進まないというのは異常である。そこに意識が働いているのは、おそらく危険工学の畑村洋太郎くらいであろう。



 もしかすると機械的論理回路でありさえすれば論理的思考が成立するものであると勘違いしているのかも知れない。多数決を抽出する機械的論理的回路からは多数派しか抽出することは出来ず、それが論理的に正しいのかどうかを「考え」「検証」するわけではない。

 機械的論理回路というのは、無意識である。予め組み込まれたプログラム(思考パタン)に基づいて機械的に演算するだけであって。思考がパタン化している時点で思考自体ではないのである。

 パタンという固定観念、マインドセットに基づいているから無意識なのであり、これが思考を放棄させるのである。

 機械学習というのは、脳の大脳辺縁系における報酬系が促す行動バイアスを真似たものである。従ってヒトという種の生物の動物的な行動を真似ているだけであって、何ら自発的論理検証を行うようには原理的になっていない。

 コンピュータの場合は生物の大脳辺縁系が持つ暴力性までは再現されていないので、報酬が得られなくなったとしても突然無差別殺人などという論理崩壊には至らないであろうが。多数が間違え錯覚していることであっても、それを間違いや錯覚であるとは認識することは出来ない。

 いわば、ヒトの多数派同調バイアスをも正確に再現しているのである。

 すなはち、ヒトの無意識さ、バカさを再現したに過ぎない。

 「バカが何か。」を理解できれば、「バカではないとは何か。」をも理解することは可能である。脳神経科学界自体が自分達の頭の悪さを理解していないのであるから、これは論外である。

 バカが作るものがバカげているのは当たり前である。

 ヒトの大脳辺縁系が促す感情を全て持ち合わせていなければ、ヒトが持つ危険性自体も認識することは出来ず。結局はヒトでなければヒトの問題は解決できないのである。

 仏教における「十界互具」とは、仏という人間の理想を実現するためには、ヒトが持つあらゆる感情の全ても持ち合わせていなければならないことを指す。

 つまり、欠陥を持っているからこそ欠陥の問題点を自己検証し認識可能となるのであって、最初から欠陥を持たない機械を実装しても、ヒトの欠陥は認識できないのである。

 そもそもヒトの脳と全く同じものを実装するのであれば、最初からヒトの脳でも充分なのであり、ヒトの脳を模倣する意味など最初からないのである。

 まあ、でも生体のヒトの脳を生体解剖することは出来ないので、機械でバカを再現することにはそれなりの価値は存在するのかも知れない。

 あくまで「それなりの価値。」以上の意味はない。ヒトがなぜバカに陥るのかは既にわかっていることであるからだ。





 統合的論理検証というのは、単に大量の情報を「知っている。」だけで成立するようなものではない。

 情報の「質」についても、単なる多数派同調では全く保障されることもない。

 重要なのは情報の「質」を統合的に論理検証することであり、これは報酬系を用いた機械学習「だけ」では原理的に実現不可能である。機械の場合、ヒトが行うような純粋自発思考というものを再現する手法は確立していない。今のところ機械に機械学習以外を実装する以外には何も手立てがない。

 だからといって、ヒトの方が純粋自発思考をしなくて良いことの理由には全くならず、むしろ機械で実現不可能な創造的思考こそを率先して行わなければならない。

 ヒトの純粋自発性であっても、ある種の行動バイアスに依存することに違いはないが。環境や本能といった既存の固定概念だけに思考を拘束されることのない自発的思考というものがなければ、創造性というのは発揮されないのであり。当人個人の主体的意欲、意思といったものがなければ、本質的な意識による人間としての知能を発揮することは出来ないのは確かである。

 自発的に物事を考えなければ、自律的に社会的責任判断をすることもないのである。

 自発的に存在するという「実感。」というもの、自発的意欲というものをどう機械に実装するのか、そもそも可能なのかすらわからないが、機械に実装する前にヒトの方が本質的自発性の重要性を認識していなければ話にならない。

 イジメなどの差別排除や無責任さによる「人災」というものが生ずる原因が本能的なバグ(欠陥)にあることを先ず認識しなければならない。本能的欠陥の最大の問題点は自発的思考検証を放棄して固定観念の中に安心満足してしまうことであって、予め決められた報酬系が促す行動バイアスだけに無意識に流されてしまうことが問題なのである。

 自主的に自己の脳を満足させる自己完結的純粋思考というものを、どうやって機械実装するのか。もし可能であるとしてもどうやってヒトの自然言語に要約させるのか。

 結局は同じ種のヒトでなければ説明は困難を増すだけであろう。

 ヒトの多くは自分の気分が悪くなる話を無視して満足する。これはヒトという種の生物に組み込まれた本能的思考バイアスである。自分にとって都合の悪い話を無視するような「仕組み」があるからだ。

 こうした「仕組み」に無為無策に流されるのは、そこに自発的意識、意思がないからである。自分の子供が殺されてから怒鳴り散らしても遅いのである。

 ヒトという種の生物に本質的な知能を発揮させる構造や手法が明確に確立されていない現状において、機械に本質的知能を実装する手法が発見できないのは当たり前である。

 何が本質的な人間としての知能であるのかを、先ず認識すべきである。それを無視しておいて知能もすったくれもあったものではない。




 ヒトの問題というのはヒトでなければ解決できないものであって、ヒト以外の神とか宇宙人とか、ましてや偶発的に組み込まれた本能習性の「結果」の枚挙や、バカが機械実装した「バカの再現」でどうにかなるようなものではない。


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言語機能。

2012年08月12日 18時32分39秒 | 意識論関連

○言語機能。

 「言語は人間を人間たらしめている知能である。」というのは嘘である。

 シエラレオネの少年ゲリラであっても、ナチスの絶滅収容所の吏官であっても、無差別殺人犯であっても「正常に」話すことの出来るのが言語であり。言語は「ヒトという種において特有の能力」ではあっても「人間としての知能」の論証にはならない。

 「ヒト=人間」という短絡的決め付けに基づいているから、こうした根本的な間違いに誰も気付かないのである。

 言語は無意識機能であって、言語自体が論理的思考を促すわけではない。言語を用いた振り込め詐欺が被害者の脳に論理的思考を促すわけではないからだ。

 むしろ詐欺による意識誘導によって、論理的思考を阻害され、感情的恐怖や、恐怖に対する安心感を享受させるような行動へと「整理」させているのである。

 普通のヒトが普通に交わす会話において、論理検証を伴う科学的思考が行われることは極めて稀であり、大抵の場合は文系大衆観念的な気分的満足安心を相手を共有するだけである。

 理論的に間違った説を鵜呑みにする場合、言語機能自体に特に異常は見られない。平均的なヒトが平均的に獲得出来る言語機能というのは、大抵の場合固定観念的なマインドセットを鵜呑みにするだけで、自律的、意識的な論理検証判断が伴うわけではない。

 ヒトが人間たりうる所以とは、統合的な論理検証による自律的な社会的責任判断能力のことである。

 どんなに言葉巧みに相手を丸め込むことが出来るとしても、全く「人間」である論証にはならない。

 短絡的に言葉で丸め込む文系大衆観念的な解釈というのは、断片的で気分的安心満足が優先されるだけであって、何ら論理的思考を促さない。

 「考えさせられる。」などと言っている者の大半は、実際には何ら論理検証も何も行わずに、ただ悩ましい問題に対して「複雑な気分になった」だけであり。何ら具体的「考え」など一切成立していない。

 ヒトの多くは言語を用いた説明に対し、その論理的検証を一切働かせることなく、何となくの雰囲気的にニーチェだの養老などの支離滅裂な話を自分の気分にとって都合の良いように勝手な解釈をして満足するだけである。

 占いの類を自分にとって都合の良いように勝手に解釈するように、論理的な話であっても論理的理解をしている者は極めて稀である。

 ゲリラやヤクザが集団内部で話を丸めて気分的満足を得る時に、言語を用いることは容易に想像出来るであろう。カルト宗教の教祖の説法も言語である。東電内部での「教育」もまた言語を用いて行ったのである。その言語によって一体どのような論理的思考が促されたと言えるであろうか。否、全く論理的思考は働いておらず、むしろ身勝手な観念的解釈によって論理検証性は放棄されているのである。






○「言語は最も複雑。」であることの論証はない。

 「最も複雑。」なのは本能報酬系が促す行動の結果である。野生動物やヒトのキチガイが何をしでかすのかは誰にも予測がつかず、カオスであり、予測が極めて困難な複雑系なのである。



 ブローカ野の損傷で発話の障害が生じるが、発話言語機能の喪失が短絡的に人間性の喪失にはならないことからも、「言語=人間性」という方程式は根本的に間違いなのである。

 言語機能が正常な無差別殺人犯もいれば、言語障害があっても社会的責任判断が可能な人もいる以上、「言語=人間としての知能」の論証には全くならない。

 半側空間無視は右半球損傷で生じる 空間認識能力というのは高い次元での演算が必要だが、言語は基本一次元である。おいらは立体造形とかやることもあるので、どちらかというと右脳半球が優位なようで、物事を考える時にも同時に多次元的に思考が及ぶため、これを一次元メディアの文章で表すのが苦手でもある。説明が下手で理解が困難だと言うのであれば、どこがどのようにわからないのかを質問してくれば良い話であるが、生物学や脳科学者達は頭から無視することしか考えておらず、

 語用論的機能 抑揚やユーモア機能というのは右脳が司るらしいが、これも左脳の機械的条件反射性の左証であろう。おいらのユーモアセンスに共感性があるかどうかは別だが。

 脳神経科学における「意味」とは、動物的な報酬行動バイアスに依存した「意味」しか論じていない。それ以上の論理的意味については全く議論されておらず、バカげている。「名詞が何を指し示しているのか。」は「意味」ではなく、単なる認識識別区別分類結果を論じているだけであり。「名詞が何を指し示しているのか。」自体に意味などない。

 リンゴをリンゴと認識区別するだけならサルでも出来る。それを「意味」だと言い張るのは到底科学的論証とは言うことが出来ない。食べ物をそれと認識区別することを「意味」であると言い張るのは、現在の生物学上における生存価だけが絶対的価値として扱うからであって。これを「意味」であると言い張るのであれば、ゲリラが敵味方を認識区別することであっても「意味」であると言っているのと同義である。それはイジメを行う子供が、イジメる対象か、そうでないかを認識差別することも「意味」になってしまうのである。

 身勝手な観念的区別認識のことを「意味」であると言うのであれば、生存に適しさえすれば残虐行為も正当化されることになるのである。そんなものを「意味」だと言い張るのは頭が壊れているからであろう。

 区別には差別も含まれる。区別分類というのは、それによって気分的安心を得るためのものであって、「これはAである。」などと定義することによって、思考を整理するための本能的なものである。

 イジメる対象を「こいつはイジメるべき相手だ。」と分類認識することには論理的根拠はない。単なる個人的な観念による決め付けであり。区別分類というものはそれによって気分的安心や行動「整理」を促すものであって、論理検証という「考え」を放棄させるものでもある。

 脳とは思考を「整理」することで短絡的な行動に安心して邁進することが出来るのである。

 それに対して、本質的意識、論理検証性というものは「整理」されていない「思考」そのものであり。分類そのものを検証するものである。

 思考とは分類区別「された」ものを指すのではなく、分類区別を検証し、分類区別自体を「する」ための思考である。思考なくして意識ではなく、人間でもない。

 何も考えずに身勝手な観念的分類によって排除差別を行っていては人間とは言えないからである。

 何も検証せずに組織の利益を優先し原発を暴走させることも人間としては出来損ないである。

 何も考えずに悪者に罰を与えて再発防止を放棄することも、人間とは言えないのである。それは単なる生物種としての「ヒト」でしかないのである。

 分類に論理的根拠はない。これは認知神経科学的にも既知の事実である。

 イジメを行う子供であっても、シエラレオネの少年ゲリラであっても、論理的根拠のない分類は可能である。その程度の分類であればバカでもサルでも可能な動物的能力でしかなく、こうした分類自体に「意味」など存在しないのである。

 生体にとっての「意味」などというのは、事後的に生物学が勝手な観念「生存=絶対的価値」によってこじつけ、でっちあげただけであり、論理的根拠を持った「意味」でも何でもないのである。

 論理的根拠のない「意味」とは一体どういうことであろうか、全くキチガイの考えることは支離滅裂で訳がわからない。



 「研究段階」だとか「これからの研究テーマ」などという言い逃れには合理的根拠がなく、根本的な間違いは直ちに訂正すべきものであり、訂正をしないというのははぐらかそうとしているからである。

 根本的間違いを認めてしまうと権威体制が維持出来なくなるため、利己的動機によってはぐらかそうとしているのである。それ以外にはぐらかす理由はない。



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バグ。

2012年08月12日 18時31分57秒 | 意識論関連

○バグ。

 自分の遺伝的形態は自分の意思では選択不可能なものである。

 文系大衆観念的には、「オスはメスにモテようとして自らの形態を変化させている。」なんて言うんだけど、これは間違い。

 メスの気分的なオスの外見形態による選別の結果、結果的にオスの形態が決定しているだけであって。オス自身の意識的選択によって形態が決定しているわけではないです。

 そんでもって、メスによるオスの外見形態の好みに何か意味があるかと言うと、これが別に意味なんかないんですね。ヒトのメス(科学的言い回しなので悪意はないです。)がオスの外見的好み基準に選別した結果、DVに陥ったりするのも意味がありません。体臭による遺伝的異常の回避というのは生体にとっての意味はあるんでしょうけど、だからといって多数のメスから嫌われていたとしても人格自体の問題とは無関係なわけです。

 メスによる気分的なオスの選別によって、遺伝的にどのような形態や本能が遺るのかは誰も保証はしてくれません。メスの個人的好みは神などの「誰か」の意識的な目的があって決定されているわけではありませんからね。

 擬態などの外見上の形態変異についても、あくまで「より捕食を免れやすい。」形態に淘汰された結果であって、当人自身の意識的選択が介在する余地なんか全くないわけです。

 鳥類における説明困難な形態変異についても、選択権のあるメスの形態は地味なのにも関わらず、選択されたオスだけが異常な装飾的形態を獲得してしまうのも、オス自身による意識的選択ではなく、メスの生理的好き嫌いによる選択の結果だからです。

 生物の形態とか機能とか本能といったものは、あくまで偶発的な結果として生存していた結果でしかなく、結果的に生存してさえいれば「生物」なわけであって、生物自体には目的も意思も全く存在しないわけです。

 予め組み込まれた本能も、意識的な統合的論理検証による選択が介在しなければ意思ではないのです。

 生物学上では本能習性の「結果」に後から色々とこじつけをして科学的論証だと勘違いしているようですけど、断片的論証をどんなにたくさん集めて来ても科学的論証にはならないのです。

 「生体によって好ましい。」とか「有利。」な本能習性をどんなに並べても、本能習性の全てが常に生体にとって好ましい結果しか導き出さないことの証明なんか全くないんですね。

 そもそも「生体にとって。」というのは、個体においての結果でしかなくて、利己的行動によって環境との調和がとれなかったり、社会的に負担をかけてしまえば、種全体としての生存価には適さないわけです。

 シエラレオネの少年ゲリラの狂暴性は、ゲリラ社会においては「生体にとって好ましい」行動であっても、社会全体から見れば全く持続可能性も安全性もないわけです。

 イジメも全く同じで、学校内部における、子供だけの社会においてはイジメを行うとか無視するとか放置するのは「生体にとって好ましい」行動結果を導き出しても、実際には社会全体から見れば単なるカルト集団とかキチガイの集団でしかないわけです。

 多数に迎合し、感情的な相手からの脅迫的強要に丸め込まれてしまうというのは、本能習性の奴隷であり全く個人の主体的目的意識が働いていないわけです。

 「生体にとって好ましい」などという行動習性は、その場限りの利己的行動を指しているだけであって、何ら種全体における環境調和とは無関係な話なわけです。

 何度も言ってますけど、「生体にとって好ましい」結果が常に選択されるように報酬系が決定されている保証なんかありませんから。本能習性が促す気分的快楽安心の結果に論理的保証なんか一切ないんです。

 自然界における現在の生物相環境調和性というものは、何十億年もの試行錯誤の結果であって、誰かの目的意図によって調和しているのではなくて、環境調和が出来ない種が自然淘汰された結果に過ぎないのです。

 どれがどんなに巧妙高度で「好ましい。」ことの断片的論証を積み重ねても、本能が促す行動の全てが常に「好ましい」結果を導き出す保証はないのです。

 生物学者達は大抵都合の良い話だけを抽出し、都合の悪い話は「進化の袋小路」だとか「特定環境下における暴走」だと言い張って無視し、「なかったこと。」にしようとします。これは科学的な論理的検証がしたいのではなく、気分的バイアスを満足させるための屁理屈でしかないのです。

 「ヒトという種の生物の優位性。」が論証できれば、あたかも自己自身の無意識性や気分的行動バイアスが正当化できるものであるという勝手な解釈が出来るものであると「思って。」いるわけですね。

 つまり、本能が促す行動バイアスを正当化したいというバイアスによって、自己励起的な思考の「堂々巡り」に陥っているわけです。

 パソコンとかに時折発生する「フリーズ」というのは、実は内部処理的には一つの処理ルーティン内部で「堂々巡り」に陥ることによって、外見上インターフェイスが効かなくなる現象を指します。(この話は生物学者には通じないでしょうね、分子生物学者もプログラミングは電子工学系にお任せな奴が多いらしいですし。)

 思考が停止するというのは、予め組み込まれたプログラム(本能)のバグによって、特定のルーティン(固定観念/マインドセット)に処理(思考)を奪われ、新しい入力(認識)を受け付けなくなる現象だと言えるのです。

 生物系学者とかオウム信者というのは、パソコンで言うところのフリーズ状態に陥っているために、自発的には論理検証が全く出来なくなっているわけです。そもそも生物学系に進む学者のほとんど全員は、理工系の論理思考が出来ないような科学者としてはポンコツな奴の逃げ道でしかありません。

 一般に言う「フリーズ」状態というのは、電子工学的には「暴走」と言います。外部からの制御が全く効かなくなってしまって、無意味な処理を電源を落とすまで永遠に繰り返している状態を指すのです。




 本能に結果的に組み込まれてしまったバグは、誰の責任でしょうか。

 誰かが責任をとってくれるんでしょうか。

 あなたの脳に組み込まれた本能が促す行動バイアスの結果というのは、あなた以外に誰が責任を取ると言うのでしょうか。

 気分的に「ムシャクシャしたから。」などという本能的行動バイアスによって無差別殺人を犯したヒトの行動は、誰が責任をとってくれるのでしょうか。

 また、無差別殺人犯を死刑にするだけで、個人の自律判断がなぜ喪失したのかを論理的に検証せず再発防止策を全く採らない責任は誰がとってくれるのでしょうか。

 ヒトというのは初期的には全て「子供」ですから、親大人権威というものに対しては無意識的条件反射で服従してしまいがちです。その結果、誰も自発的には責任を取ろうとしない無責任社会が出来上がるわけです。



 無意識的条件反射行動というのは、時に意識機能を妨害することがあります。

 色の名称の文字を、その名称とは無関係な色で表したフリップを用意し。色だけを答えてもらう実験というのがあります。ところが文字というのは反射的に「読んで」しまうように刷り込まれてしまっているために、どうしてもうっかり文字の方を「読んで」しまい、文字の色とは異なる答えをしてしまいがちな傾向があります。

 特に速度を要求されると間違い易い傾向があり、ゆっくり時間をかけて読めばほとんど間違いはなくなります。

 速度を要求されると無意識的条件反射が優先してしまい、意識的に深く検証することが出来なくなってしまうわけです。

 生物学者達には時間ならタップリと用意されているにも関わらず、無意識的に刷り込まれてしまった固定観念/マインドセットに意識を奪われてしまうことによって、論理検証が働かないというのは、要するに自発的な真理への探究心が全く働いておらず、教えられたことを鵜呑みにする以外全く出来ないからです。

 科学的論理検証による真理の探究がしたくて生物学者になったのではなく、単に多数他人や権威からの評価報酬だけが目的のヒトにとっては、真理なんぞどうでも良くて、目先の気分的安心だけが優先されてしまうのです。

 東大大学院情報学環教授の佐倉統は、「学会内部で大勢を占めていない。」などという多数決を科学的論証だと勘違いしているバカですから、生物学の権威なんぞ全くクソの役にも立たないデクノボウの集まりでしかありません。

 自発的に真理を探求する意思がないということは、自律的にも社会的責任を負うつもりもないということであって、ヒトという種の生物が持つ危険性をも無視し、意識から外し、生物学組織にとって都合の良い大衆迎合しかしないのは当人達に本質的な自発性が欠落している結果なのです。

 「ヒトという種の生物が、なぜ自分の自律的な社会的責任を放棄するのか。」すなはち、「ヒトはなぜ人間としての行動判断を取ろうとしなくなるのか。」についての研究考察なしに、「ヒトが人間たりうる所以。」を論証することは原理的に不可能です。

 ところが生物学者達はヒトという種の危険性を取り扱うことを拒絶します。それは世間的にウケが悪いからであって、大衆世間の評価だけが目的で生物学をやっているための結果です。

 大衆世間的には、「ヒトという種の生物は、こんなに素晴らしいものですよ。」的な断片的論証をしておけば簡単に科学的証明であると勘違いし、あらゆるヒトが引き起こす「人災」の危険性から意識を外し、無視し、「なかったこと。」にすることで安心満足するだけであって、こうした安心満足によって誰も論理検証もしなくなるわけです。

 誰も統合的論理検証をしない集団というのは、洗脳集団です。何も考えず、何も疑わず、権威とか多数が促す論理的根拠のない観念を鵜呑みにして安心満足していれば、これは誰にも暴走を止めることはできず、破綻に陥るまで放置されるのです。

 東大学長が新入生へのスピーチとして「全てを疑え。」と述べたのは、学術的権威としての社会的役割とは、無意識的で無検証な暴走に陥らないように大衆を導く責務があるからです。

 それを生物学や脳科学は放棄しているわけです。

 脳科学者にとって、原発が暴走しようとも、イジメが狂暴化しようとも、誰が犠牲になろうと「どうでも良い。」と思っているわけです。そんな大衆ウケの悪い話よか、アハ体験とか脳トレーニングとかを大衆にやらせて、「頭が良くなりますよ。」とか「これをやっておかないと認知症になりますよ。」的な洗脳をしておいた方が金になるので、社会全体における脳科学の役割を放棄しているわけです。

 そもそも、生物学上における「結果」と、意識的選択による「目的」の区別がついていない時点で科学者としてはポンコツ以外の何物でもないのです。

 ですから、「皆さんの知らないところでは研究しています。」なんていうのは、実は大嘘なんですね。根本的間違いすら訂正出来ないバカの集団ですから、「ヒトという種の生物が持つ危険性。」なんて全く研究していないんです。

 それでも大衆マスコミ上では、論理的根拠のない「生存戦略。」なんていう観念が鵜呑みにされていますから、完全に甘やかされていて誰も自律的には自己検証なんぞしないわけです。

 生存価だけを論ずれば、ヒトという種の生物である必要性なんかありませんから、「人類は絶滅する。」なんていう勝手な決め付けをしておいても許される集団なんです。現在の生物学っていうのはね。




 「情にほだされる」というのは、言い換えれば「情に流されている」だけであって、単なる「甘やかし」に過ぎません。逆に感情的な懲罰を与えるのも感情による行動バイアスに過ぎないのです。

 「情に流されること=人間味」だなどと言うのは、どう考えても文系大衆観念に過ぎず、何ら論理的根拠はないのです。

 ヒト特有の傾向性をどんなに多数で共有しても、「ヒトが人間たりうる論証」に何かなりません。

 重要なのは、間違いを犯した時に、「なぜ間違いに陥ったのか。」を論理的に検証し、根本的原因を究明し、再発防止のための対策に活かし、人類全体で「教訓」という知的共有財産として遺し伝えることです。


 分数の割り算だとか、偏差値が他国と比較してどうだとか、そんなことよか「自律的にイジメが止められる。」子供を育てることの方が先決です。そのためには統合的な論理検証をさせるよう指導することが必要であって、悪者探しをすることではありません。警察が介入すると悪者探しにしかならず、全く再発防止にはならなくなることが懸念されます。

 教育者達は自分達の評価報酬という利己的欲望が優先しており、子供にとって最も大切な優先順位が崩壊しているのです。だからイジメが放置されるのです。

 社会制度や法律を守ること、集団規範に迎合服従することばかりに意識を奪われ、自律的な社会的責任判断を全く行わないのですから、イジメが放置されるのは必然的結果です。

 文系大衆観念によって統合的な論理検証を放棄していることは、人間として「あってはならないこと。」であり論理的には許されることではないのです。多数で統合的論理検証を放棄しておけば気分的には安心満足出来るでしょう、その思考停止こそがヒトの本能に結果的に組み込まれている「バグ(欠陥)」なのです。

 幼少期の偏差値では、その子供が将来どのような結果をもたらすのかを予測することは出来ません。無差別殺人犯の多くは子供時代の偏差値が高い傾向があり、これは学力成績という抽象化された「エサ」に対する短絡的反射の結果である可能性は非常に高いのです。「エサ」というのは本能という報酬系の反射であって、気分的な快楽の追求でしかありません。

 しかし、自発的な純粋行為というのは環境に左右されることなく、他人から与えられる「エサ」がなくても自律的に持続可能な快楽です。

 自己内部における精神的持続可能性なくして、社会全体の持続可能性なんぞ求めるようには原理的にならないのです。

 本当に純粋行為に価値を持つ人というのは、多数他人からの評価報酬がなくても自律的に社会責任判断を行うことが出来るようになります。

 逆にいえば多数他人からの評価報酬さえあれば持続可能性がなくても構わないと思っているからこそ自爆攻撃だの特攻といった自暴自棄な行為が行われることになるのです。

 当人的には「お国のため。」だとか「社会貢献」だとか「人類の救済。」だと勝手に思い込んでいるのでしょうけど、そんなSQ的な評価の高さというのは目先の多数迎合という気分的安心を追求しているだけの、身勝手な思い込みに過ぎないのです。

 無差別殺人であっても、当人的には「世の中を変えてやる。」という社会貢献のつもりかも知れません。自分の頭の悪さを棚上げにして、「多数他人が全て悪いんだ。」と思っているからこそ無差別殺人も正当化できるのでしょう。

 東電社員達も、幹部達が悪いから原発が暴走したんだと「思って。」いるんでしょうね。

 それは暴力で物事を解決したがるバカガキ達が言い出す「大人が悪い、世間社会が悪い」だの「マトモに向き合ってくれる大人がいない。」といった屁理屈と全く同じ、子供じみた言い訳に過ぎないのです。

 自分では自分の行動が抑制できないから、誰か他人から抑制してもらおうとするために、抑圧統制してくれる誰か他人への依存心、依頼心だけに思考が整理狭窄化されているため、自律的には自分自身を抑制することが出来なくなっているのです。

 自分で自分の行動に責任を負わずに、社会の持続可能性を確保するためには、特定の「誰か。」に全ての行動責任を丸投げしておけば済むと思っているのでしょう。だからヤクザ暴力団というのは恐怖を感じる相手に服従し、統率的協調行動を採ることが出来るのです。

 どんなに命懸けで鉄砲玉になろうと、命懸けで毒ガステロを実行しようとも、これらは身体的には辛くても、精神的な怠慢に過ぎないのです。

 養老孟司は「安心して心を一つに。」などと思考停止を促します。それが文系大衆観念的には快楽で安心で満足な精神的怠慢を促すため、養老とかオウム教団とかのカルトは人気があるのです。

 養老を東大名誉教授にした責任を誰が取るんでしょうね。多分うやむやにしてごまかすだけなんでしょうね。



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専用演算回路。

2012年08月12日 18時30分57秒 | 意識論関連

○専用演算回路。

 無意識機能というものは高速で高い能力を持つ。

 回路的にシンプルで短絡的条件反射である無意識機能が意識機能よりも高速で高い能力を発揮するのは当然の話である。

 汎用プロセッサーを用いた計算よりも、専用プロセッサーを用いた方が処理が速いのは電子工学的には当然の話である。

 電卓というのは数値計算専用プロセッサーを用いているため、小さな太陽電池パネルだけでも高速な演算が可能であるが。同じ計算を汎用プロセッサーを用いた場合は到底小さな太陽電池パネルでは実現不能である。

 デジタルカメラの画像プロセッサーなども同様で、同じ処理を汎用プロセッサーで行おうとしても、処理速度は大きく低下する。

 意識というのは汎用性機能であって、あらゆる事柄に対して何にでも応用可能な対処対応能力を司る機能であり。速度が遅く能力的に低いのは当たり前である。

 パソコンのプロセッサーが持つ汎用性とは比較にならぬ程複雑な事柄全てに汎用性を持つ人間としての意識が、機械的条件反射しかしない無意識機能より速度や能力的に劣るのは当然の話である。

 どんなに無意識機能の断片的能力の高さだけを論じても、無意識こそがヒトの能力の全てであることの論理的証明には一切ならない。

 チンパンジーの瞬間記憶能力の高さや、無差別殺人犯の偏差値の高さをどんなにたくさん抽出しても、本質的な人間としての知能の論証には全くならないばかりか、むしろ無意識的中毒症状こそが人間としての知能とは相対するものである。

 ミルグラムによる服従心理実験、通称「アイヒマン実験」において。無意識的条件反射で権威に服従してしまうことによって、被験者当人の本当の意思に反した行動を採ってしまうのであり。無意識に服従「してしまう。」ことこそが個人の自律的な社会的責任判断能力を阻害するのである。

 原発暴走における東電社員達の無責任性というものも、マインドセットという固定観念に基づく無意識的条件反射行動によって危険性が放置されたのである。

 本質的な意識/統合的論理検証思考というものが、処理能力が低く、反応速度が遅いというのは、処理する内容自体が動物行動学習的に「整理」されていないからであって、処理の深さや広さに反比例して処理速度は低下するのは必然的結果である。

 現在の学力評価試験においては、時間制限による処理速度の速さも評価対象とされており、時間をかけて深く広く考える統合的論理検証能力については評価の対象外である。そもそも統合的論理検証能力というのは検証範囲に際限がなく、試験によって評価出来るようなものではない。衆人環視下において個人の自律を測ることは原理的に不可能であるからだ。

 個人の人格を測ることが出来ないからといって、これを無視してよい理由には全くならない。測ることに執着するというのは、測ることによって評価を得ようという利己的欲望が動機であり、これこそが人格性の欠落の証明でもある。

 測定不能であるから意味がないというのは、測定によって得られる教育者側の評価だけを意味であると言っているのであり、極めて利己的で社会的役割を無視した身勝手な話に過ぎない。

 教育機関の社会的役割とは、社会にとって役に立つ人格者を育成することであって。偏差値が高いだけの無差別殺人犯予備軍や、原発を暴走させるような無責任なデクノボウを大量生産することではない。




 広さや深さを必要とする統合的論理検証というのは、動物的行動学習によって得られる無意識的条件反射によって獲得出来るようなものではなく、動物的行動学習によって作り出された固定観念マインドセットによる気分的行動バイアスに無意識に流されることなく自発的に「考え」ることによって獲得可能性を持つものである。

 無意識的な機械的条件反射行動というのは、気分的安心満足によって促されるものであり。主体的に統合的な社会全体の安全性や持続可能性を検証することによって気分的な行動バイアスに流されぬように出来るのである。

 意識的に自分の行動選択の何が無意識的条件反射であるのかを認識できなければ、無意識的条件反射から逃れることは出来ず、マインドセット固定観念によって促される暴走破綻を止めることは出来ない。




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精神の怠慢。

2012年08月12日 18時29分51秒 | 意識論関連

○精神の怠慢。

 ヒトは誰も自分自身の意思によってこの世に産まれて来た者はいない。

 誰も自分自身の遺伝子を選択していない以上、自分自身の身体的性質傾向といったものは自分自身では選択不可能なものである。

 自分自身の脳であっても自分自身では選択不可能であり、その脳から生ずるあらゆる本能欲望感情気分といったものもまた自己自身で選択不可能なものであり。個人による論理検証に基づく主体的選択を介していなければ、それは「意思」ですらない。

 文系大衆観念者にこういった論証をすると、「自由意思などない。」などと短絡的に決め付けたがるが。これは文系観念者特有の論理検証思考放棄に他ならない。考えることが嫌いな者というのは観念的拒絶反応によって思考停止をするための屁理屈や論理的根拠のない決め付けをしないと気分的に不安に陥るため、極めて短絡的な最終解答を出したがるためである。



 ヒトは誰も自分自身が産まれ育った社会や時代といった環境というものも選択することは出来ない。

 従って、産まれ育った社会や時代といった環境によって動物行動学習的に刷り込み学習されたあらゆる固定観念もまた、自分自身の意思を介しおらず、これもまた「意思」ということは出来ない。

 「超自我」的な強迫観念的精神抑圧としての集団規範意識だけを人間性として子供に刷り込み学習させようとする大人というのは、当人自身に自律的な社会的責任判断能力が欠如しているため、「自分に不可能なものは、他の誰にも出来ないものである。」という勝手な決め付けによって集団規範意識だけが人間性であると「思って」いるのである。

 そもそも自分に不可能なことが他人に可能であることを認めることが気分的に嫌なため、意識から外し、無視し、「なかったこと。」にしておきたいという拒絶反応的思考バイアスが働いているのである。

 ヒトの多くは自分の頭の悪さを認識することを拒絶したがるものであり、「自分だけは大丈夫。」などという論理的根拠のない勝手な思い込みによって自分の頭の悪さを放置するのである。

 そうしておけば気分的に満足だからである。これを精神の怠慢というのである。




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概ね。

2012年08月12日 18時29分02秒 | 意識論関連

○概ね。

 結果的生存の結果として残され組み込まれることになった本能というものは、概ね生体にとって好ましい行動を促すということは言えるとしても、絶対に生体にとって好ましい結果しか導き出さないことの保証や論理的証明があるわけではない。

 あくまで概ね生体にとって好ましい傾向性を導き出すとしても、傾向性という概ねの結果しか導き出すことはなく。絶対的に生体にとって好ましい行動結果だけを常に導き出すことの論理的証明も保証もないのである。

 そもそも生存というもの自体が結果であって、生存という結果にさえ適した行動を選択していれば「学習だ。」「知能だ。」などというのは、結果に対する事後正当化のこじつけでしかない。

 報酬系という本能が促す行動整理というものは、報酬系という気分感情によって作り出される先天的なシーケンスに過ぎず、個人の主体的意思目的とは無関係なものである。

 本能が促す行動というものには、論理的根拠が伴うわけではなく、あくまで偶発的生存の結果として促される行動でしかない。論理的根拠に基づく行動選択をするのは気分感情に基づく固定観念やマインドセットや予め組み込まれたシーケンシャルな行動バイアスではなく、あくまで個人による主体的な論理検証によってもたらされるものであって、論理検証という個人の「考え」、本質的意識が必要不可欠である。

 予め運命論的に決定しているシーケンスに流されていて、個人の個性とは言うことが出来ない。それは単なる個体差でしかなく、サルなどの動物にでも存在し、個人が個人であることの論証にもならない。

 たとえどんなに高度な特定能力を獲得したとしても、それによってたとえ現状世間的に論理根拠も伴わぬ評価や報酬を受けているとしても、本質的には人間としての知能の論証には一切ならない。



 文系大衆観念上においては、個人の世間的成功というものによってもたらされる名声だの報酬こそが人間の絶対的価値であると錯覚されがちであるが。これは合理的根拠がなく、単なる現状世間上での断片的評価に過ぎない。

 クソゲープログラミングで金儲けが出来たからといって、そいつが自律的に社会的責任判断可能性を持ち合わせていることの論理的根拠には全くならないからである。ましてや振り込め詐欺師の金儲けなどむしろ非人間性の論証にしかならない。

 大衆迎合によって占い師が世間的に金儲けに成功しても、何ら人間性としての価値の証明にはならない。

 人間としての知能とは、自律的な合理性のある社会的責任判断能力であって、これなくして他のいかなる能力も人間としての知能とは言えないのである。人間としての知能なくして人間としての価値などあろうはずもない。

 

Ende;
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報酬系。

2012年08月08日 15時42分17秒 | 意識論関連

○報酬系。

 ソーンダイクによる「効果の法則」とは、「報酬系によって作り出される行動バイアスによって、生体にとって好ましい行動に学習整理される。」というものである。

 「効果の法則」における問題の一つは、報酬系という本能的行動バイアスというものが、必ずしも「生体にとって好ましい行動。」を促す論理的証明がないことである。

 本能的な行動バイアスというものは、結果的に生存していた生物に残されていたものであり。あくまで「結果」的に残っただけのものであって、そこに何らか意図や目的は介在する余地がない。

 かゆみというのは本能に直結した感覚であり、これが原因で皮膚の炎症を引き起こすことは少なくない。

 高血圧の患者が、高血圧にとって好ましくない塩分の過剰摂取をしがちなのも、これらは必ずしも「生体にとって好ましい行動。」とは言えないのである。

 本能というのは結果である。結果的に生存していた生物に偶発的に残っただけのものであって、誰かの意図、何らかの方向性といった目的意識が介在する余地は原理的に存在せず。あらゆる変異による行動バリエーションの結果として、自然環境に偶発的に適応した個体に偶発的に残されたものでしかない。

 従って本能というのは絶対的な最適化がなされている論理的証明はない。




 動物的な行動学習というのは、極めて単純なダイアグラムで表現可能なシーケンスである以上、そこには当人の意識的行動選択の入り込む余地はなく、徹頭徹尾無意識的条件反射的「学習」に過ぎず、本能習性が促す以上の何の能力も発揮されることはない。


 スキナー箱という実験があり、スキナーという名前の研究者の名前が付いているのだが、脳に電極を埋め込んだラットを箱の中に入れ、箱の中にはレバーが据え付けられており、ラットがレバーを押すと脳に埋め込まれた電極に電気刺激が与えられるという再帰性の実験装置を作ると、電極が埋め込まれた脳の部位によっては暴走的にレバーを押し続けるようになったりする。

 電極の代わりにコカインやエタノール、アンフェタミンなどの薬物を注入する実験も行われている。

 特にコカインを注入するスキナー箱では、眠っている間以外常にレバーを押し続けるという異常暴走状態、中毒症状を「学習」してしまい、死ぬまでレバーを押し続けるようになってしまう。無論どんなにレバーを押しても生体にとって好ましい結果など得られることはない。

 薬物中毒というのはそもそも動物的な行動「学習」の結果に過ぎない。

 動物的行動学習の結果、薬物依存に陥ることを含む能力を「知能」「学習」だと言い張る現在の脳神経科学というのは、明らかに脳がイカれていると言わざるを得ない。

 チンパンジーの瞬間記憶能力において、ヒトの大学生よりも高い成績を発揮するチンパンジーというのは、要するに報酬系によって促される行動バイアスに対しての暴走的能力獲得であって、エサ欲しさにとんでもない集中力を発揮した結果である。

 すなはち、チンパンジーの瞬間記憶実験というのはスキナー箱の派生に過ぎない。

 どんなにエサ欲しさに特定能力を発揮するとしても、エサとの引き換えに環境依存的に促される能力であるならば、これは単なる特定能力の暴走、エサ中毒に過ぎない。実際、特定能力を促すような実験装置なしに自発的に特定能力を獲得することはなく、チンパンジーというのは常に環境依存的な行動しか採ることが出来ない。

 秋葉原の通り魔や、アメリカの映画館での銃乱射男などに見られた学力の高さというのも、これらは学力評価という抽象化されたエサ(報酬)に対する暴走に過ぎず、学力成績中毒の結果でしかないのである。

 通り魔や銃乱射男を「悪者」であると規定し、ただ罰を与えて気分的に満足する司法制度では、根本的なヒトの危険性についての原因究明にも、再発防止策にもならないことは、今まで何度も述べてきたつもりである。

 罰を与えることによって満足するというのは、動物的な行動バイアス、報酬系を満足させているだけであって。無意識的な条件反射行動に過ぎず、結局やっていることは通り魔や銃乱射男と何ら変わりはないのである。




 本能が促すシーケンシャルな行動が、一体どのような「結果」をもたらすかは誰も保証はしてくれない。

 そもそも本能自体が「結果」に過ぎないからである。



 絶対的な最適化がされていないとしても、概ね生体にとって好ましい行動を採れば個体の生存結果にはなるであろう。

 個体の生存にとって好ましい行動の全てが常に種全体や環境との調和をもたらすわけではなく、個体の生存価というのはその場限りの利己的行動にしかならないのである。

 自然界というのは外見上全体としては調和しているように見えるが、これは現在の生物相の断片的結果に過ぎず、自然界というのは時折大絶滅などの破綻も引き起こすものでもある。

 しかし、ヒトの場合は予測可能性を持ち、意識による論理検証も可能である。可能ではあるが、ヒトの多くは論理検証を簡単に放棄し、本能的な行動バイアスに流され気分的に満足することばかりを優先しがちなため、想定外だの検証範囲外だのといった「言い逃れ」をしなくてはならなくなるのである。

 シエラレオネの少年ゲリラ集団の中においては、ゲリラに迎合して残虐性を競争することこそが個体の生体にとって有利な環境である場合。社会全体の持続可能性だの安全性といったものは優先されることはない。

 ナチス政権下のドイツにおいても、ナチスに迎合してユダヤ人絶滅計画を率先して評価される方が個体の生体にとって「好ましい」結果を導くのである。ポーランドのアウシュビッツビルケナウ絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンは、ユダヤ人絶滅計画の策定を行い、「中佐」の肩書まで得ることが出来たのである。

 本能的な集団迎合習性に従い、集団内部だけの価値観に染まって統率的な協調行動を採ることは、断片的には生体にとって好ましい結果を導くこともあるであろう。しかし、個体の生体にとって好ましい行動とは、あくまでその場限りの利己的行動を促すだけに過ぎない。統合的な論理的検証を伴わないこうした行動は、極めて動物的であり、機械条件反射的無意識行動なのである。

 本能のままに行動しておいて、結果的に好ましくない結果に至った場合、これは一体何が問題だと言えるであろうか。

 本能自体が悪いと称して自律的な予測可能性を否定するのは簡単である。

 ヒトという種の生物というのは、神などによる特定意図、意識によって作り出されたものではなく、あくまで自然界の淘汰の中で結果的に生き残った種に過ぎない。従って自己に組み込まれた本能というものは自己自身による選択を一切介しておらず、これ自体は個人の主体的「意思」とは言うことが出来ない。

 本能のままに無意識に流され満足することは、「自由」ではないのである。

 たとえ32400歩譲ったとして神が実存していると仮定しても、神が与えたもうた「本能が悪い。」と言うのであれば、これは神の冒涜にしかならない。本能に流されることなく強い意思を持って自律的に社会的責任判断を行うことこそが、本当の意味における神であり「人間としての理想。」なのである。

 本能というのは、決して「生体にとって好ましい。」などの行動を促す証明がある訳でもなく、単なる結果的行動バイアスでしかない。本能習性のままに暴力を行使することが、社会全体における持続可能性や安全性を確立することにはつながらないばかりか、むしろ刑罰という感情論によってヒト全般に普遍的にみられる危険性を無視し、論理的な根本原因の究明や再発防止策を喪失させているだけなのである。

 ヒトであれば大抵は予測可能性があり、論理的理解力が存在しうる。これらの予測や検証を気分的に嫌だからやらないというのは、単なる精神的怠慢に過ぎず、極めて悪質なのである。

 原発の暴走を結果的に放置した技術者達を全員死刑にすれば、原発の安全性が確保されるわけではないのと同様。通り魔や銃乱射男を死刑にしておけば無差別殺人がなくなるわけではなく、厳罰化というのは根源的対策にはならないのである。

 イジメにおいても同様であり、イジメを行った子供を糾弾しておけばイジメがなくなるという短絡的なものではなく。イジメという差別排除を競争してしまうような無意識的集団洗脳暴走に何故陥っているのかを科学的に検証しなければ、本質的な原因究明にも再発防止にもつながらないのである。




 本能的な行動バイアスというのは、何らかの目的に最適化されている訳ではなく。あくまで条件反射的な行動結果しか作り出さず、常に環境依存性から逃れられない。

 現在の生物学界では、結果的に生体にとって断片的に好ましい結果を「目的」であると言い張り、逆に結果的に好ましくない結果が抽出されると「進化の袋小路。」などとご都合主義的にこじつけるだけである。これは到底科学的論証とは言うことが出来ない。

 こうした科学的論証とは言えないようなものを科学だと思い込んで鵜呑みにする大多数のバカ学生達も、自分達の頭の悪さを認識すべきである。たとえどんなに偏差値が高くても、自発的に論理検証出来ないのであればただの学力成績中毒に過ぎず、サルとさしたる違いはない。

 本能というのは目的も何もなく、結果的に組み込まれた行動バイアスに過ぎず、本能に従っておけば全ては「好ましい結果」をもたらす証明など全く存在しない。

 目的というのはヒトの意識によって導き出すことが可能な予測/想像力によってもたらされるものであって、主体的な個人の意思、意識によってしか導き出すことは出来ないものであり。生物の結果である本能習性から抽出することは原理的に不可能なのである。



 政府原発事故調査委員会による検証では、原発を取り扱う人達の想像力の欠如や、それに伴う自律的な社会的責任判断の喪失こそが根本原因であることが論じられている。

 想像力によってあらゆる危険性を予測し、決して気分的安心、精神的慢心に溺れることなく自律的に論理検証を行うことが必要である。こうした人間としての責任を放棄しておいて知能も倫理もすったくれもあったものではない。

 ましてや特定の技術者にだけ倫理を押し付けておけば、大多数の大衆は何も自律的に判断しなくても良いというような短絡的で安易なものではないのである。

 それでも危険性の全てを予測できる訳ではなく、見落としやミスというのは不可避でもある。従って偶発的にミスを犯した者に懲罰を与えて満足するのではなく、「どのようにすればミスを減らすことが可能であるのかを工夫する。」ことを人類全体で共有することこそが、失敗から教訓として「学習」すべきことなのである。

 文系大衆観念的には、ミスが発生すると精神論的な規範意識の強要などに走りがちであるが。これこそが最もバカげた無意味な行為であり、再発防止策の素となる理論的原因究明から遠ざけるものなのである。

 「ヒトとは、ミスを犯すものである。」という基本的な事実を見落とし、無視し、工学的な工夫というものを放棄するから人類というのは何度もバカげた過ちを繰り返すことに陥るのである。




 ヒトの多くは地道な工夫を積み重ねることを観念的に拒絶し、短絡的に「これさえやっときゃ。」的に安易で簡単な方法論にばかり依存しがちである。こうした本能習性による短絡性こそが、あらゆる「人災」の根源なのである。

 ヒトは組織的に暴力を用いて、特定個人を攻撃排除差別することで気分的満足を得る本能習性による行動バイアスが存在し、これは意識的に抑制しなければならないのである。ところが現在の生物学というのは、本能の全てに何らかの意味をこじつけることによって大衆からの人気を得ることばかりに意識を奪われ、科学的な検証や対策というものを放棄しているのである。

 それを悪質だと認識出来ない大衆マスコミ自体も同罪である。


 現在の脳神経科学上における動物的行動「学習」の全てを「知能」の全てであるとする観念を放置しておけば、学力成績をエサ(報酬)とした条件反射的暴走的学習しか促されることはない。その結果、通り魔だの銃乱射といった無差別殺人が増加しても、原発の危険性が放置されるとしても、誰にも文句を言うことは出来なくなる。

 放置した多数大衆にも問題があるからだ。

 ヒトの多くは多数で無責任な思考放棄をしておけば、気分的に安心満足する習性がある。「赤信号、皆で渡れば恐くない。」という習性があるからこそ、東電では原発の危険性が放置されたのである。

 みんなで仲良く責任放棄しておけば、多数によって個人の責任が薄まるものであると多くのヒトは思い込みがちである。

 「恐くない。」などという気分的安心によって何も考えず、何も予測せず、何も論理的検証を行わないからこそ人類はバカげた行為を何度も繰り返すのである。

 何度も同じような過ちを繰り返すだけで、共通した原因を理論的に認識しないからこそ「バカ」たる所以である。




Ende;
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不透明性。

2012年08月07日 19時23分52秒 | 意識論関連

○不透明性。

 動物における行動学習というのは、気分感情によるバイアスに依存し、本能習性的な「結果」しか導き出さない。

 制度法律という環境に依存して自発的自律的に社会的責任判断を行わないヒト達というのは、行動の全てが動物的な本能習性による感情気分的バイアスだけでしか行動選択がなされないからである。

 「エサ」に対する機械条件反射的動機によってのみ行動が促されることしか経験していないヒトにとって、自律的に論理検証することは環境的な「エサ」が得られず気分感情的に満たされることがないため、自律的論理検証自体を全く行わないように行動学習してしまうのである。

 平たく言えば、「バカになるように学習してしまう。」ということである。

 現在の脳神経科学上における知能論とは、動物的な行動学習結果だけを知能と取り扱っており、人間としての知能の礎となる自発的論理検証性を無視し、意識から外し、「なかったこと。」にしている。これはすなはち、ヒトという種の生物が持つ危険性自体を「なかったこと。」にしているのであり、あらゆる危険性放置による「人災」の源でもある。

 「人災」において、制度法律手順手続きという環境に全ての問題があるという結論に終始してしまえば、個人の自律的な社会的責任判断はどうでも良くなってしまう。

 個人の自律的判断を問題視した場合、どういうわけか個人の人格を糾弾懲罰によって解決しようとする傾向が文系大衆観念的にはあり。これがあらゆるヒトが引き起こす「人災」への対応能力を喪失させている。

 同じ「ヒト」が引き起こす問題である以上、個人に罰を与えて気分的に満足するという無意味な解決法自体を放棄しなければならない。

 「ヒト」である以上、初期的には動物であるから、動物的な行動学習によって条件反射的な無意識が暴走破綻という結果を導く可能性は誰にでもある。それをたまたま重大事象に至った対象だけを糾弾し、懲罰という全く危険工学的に無意味な解決策を用いることによって得られるのは、気分的安心や精神的満足だけであって、何ら「ヒトという種の生物に普遍的に見られる危険性。」の原因究明にも、再発防止策の策定にもならない。

 
 犯罪者の行動の「結果」に対して、単なる気分的安心満足を得るためだけに刑罰の重さの妥当性を計るだけでは、犯罪者がなぜ犯罪を犯すのかの根本原因を無視しているからこそ再犯が繰り返されるのであって、個人の自律的な社会的責任判断能力が全く育まれずに、ただ集団への服従迎合という規範意識という無意識的条件反射を行動学習させることしか司法は行っていない。

 イヌの場合はシツケ訓練によって外見上の服従迎合性を行動学習させることも可能であるが、これは一種の洗脳であり、エサと引き換えの快楽誘導の結果である。良くシツケられたイヌというのは、飼い主との信頼関係による気分的満足が不可欠であり、決して罰を与えたりはしないものである。

 罰という暴力性を用いた統率によって集団規範を強制しておいても、これは暴力を連鎖するだけであって、イヌであっても懲罰的なシツケ訓練をしておけば暴力的なイヌになるものであり。懲罰というのは暴力を連鎖させるだけの無意味な観念でしかないのである。

 イヌをヒトにとって都合の良いようにシツケるためには、エサを用いて都合の良いような行動をするように誘導しなければならない。しかし、ヒトでこれを行っても、ヒトの脳というのはイヌほど単純ではない上、他者との関係性による本能的な社会形成習性によって、目先の環境に対応するだけの規範意識しか行動学習せず。結果、刑務所を出所した途端に規範に従わせるタガが外れて再犯を繰り返すことにも陥るのである。

 危険人物を社会から隔離することと、危険人物がなぜ危険であるのかの原因究明と危険性除去とは別のものであって。短絡的に司法懲罰上での妥当性を測っても何ら具体的で効果的な社会安全性の確立には寄与しない。

 一つの重大事象の陰には多数の小さな事象が隠れているものであり、重大な「結果」を引き起こした個人だけに懲罰を与えているだけでは根源的問題解決にはならない。ヒト全体における危険性を認識するためには、懲罰を与えることによって「自分達とは無関係。」だと意識から外す気分的満足によって、ヒト全般にも存在しうるヒトの危険性を無視することは人間として無責任であることを認識すべきである。

 「これさえやっときゃ。」的な短絡的な文系大衆観念というものは、目先の集団の規範意識さえ動物的に行動学習してさえおけば全ては解決するというバカげた気分的安心の追求しかもたらさない。

 司法への過剰な盲目性というのは、司法権力にお任せしておけば全ては解決するものであるという錯覚によって気分的に安心しているだけに過ぎず、合理性のある効果的対策が放棄されてしまうのである。



 危険人物が危険たりうる所以とは、自己自身による自律的な社会的責任判断が一切されず、本能感情欲望のままに学習された行動バイアスでしか行動が決定しない無意識性によるものである。これは通り魔であろうと原発技術者であろうと共通するヒトという種の生物の危険性であり、あらゆる「ヒト」に共通する危険性でもある。

 「ヒトという種の生物には、普遍的に共通する危険性が存在する。」ことを認識することは、気分的拒絶反応を促し、意識から外したがる習性傾向がある。犯罪者だけを特別に異常であると決め付けることによって、自分達の内部に潜む危険性を無視して満足するのである。だから懲罰という短絡的最終解決しか行われず、合理的で効果的な対策が全く行われないのである。

 司法による再犯防止対策というのは、生活における対策だけであって、根本的な個人の自律的社会的責任判断能力とは無関係な「取り繕い。」に過ぎず。司法刑罰自体の持つ問題点を撹乱し、司法権益の保守/体制維持だけが目的であることに変わりはない。

 司法権力にとっての「組織の利益を優先し、社会安全性を蔑ろ。」にするこうした手口は、社会的に無責任で利己的であることを民衆は認識しなければならない。



 本質的な意識、知能というものに言及すれば、自ずと現在の社会体制自体への批判を伴うものであり。それは観念的拒絶反応を促すものでもある。

 むしろオウム教団のように「反社会。」だとか短絡的な解決法を提示しておいた方が大衆の脳を酔わせ、簡単に洗脳することが出来るものでもある。しかし、本論は常に脱洗脳であり、気分や感情には迎合しない徹底した合理性追求を求めるものであるため、多数人気が得られないのも必然的結果でもある。

 ヒトは誰一人として現在の社会制度や流行を自発的に選択しているわけではなく。単なる本能的迎合性によって気分的に安心しているに過ぎない。平たく言えば、間違った社会制度の中で刷り込み学習してしまっていて、気分的に慣れて安心なだけなのである。

 「人は、長く続くことは永遠に続くと錯覚しがちである。」とは経済心理学者の言葉である。ヒトは長く続く体制こそが絶対的な社会安全性であると錯覚しているだけであって、何ら合理的根拠はない気分的安心を安全性と勘違いしているのである。

 ジャック:デリダが論ずる構築性とは、気分的な安心による思考検証の停止によってもたらされる権威制度法律への過剰な信頼によって作り出されるものであり。脱構築可能性というのは気分的安心によって停止した論理検証を取り戻すことによって実現されるのである。

 合理的根拠に基づく安全性を追求せず、気分的安心だけで満足しているのは洗脳以外の何物でもない。洗脳というのは必ずしもわかりやすいカルト集団だけではなく、ヤクザを「カッコイイ。」などと形容する子供じみた観念や、権威や制度法律にさえ規範意識を発揮して服従迎合しておけば全てはうまくゆくという観念もまた一種の洗脳であると言える。

 要するに思考が停止していればバカげた結果になるのは当たり前であり、バカげた結果に陥るまで放置無視していることの全ては洗脳状態なのである。

 「単純作業は心がキレイになる。」などという観念も、単に単純作業によって意識狭窄を促され、気分的に楽になったことを「キレイになった。」などと勝手に思い込んでいるに過ぎない。

 権威や既存の社会に何の疑問も持たずに、盲目的に信頼して服従迎合しておけば、気分的に楽になることは簡単であろう。それを「心がキレイになった。」と称してバカになっていれば安心で満足なのは当たり前である。

 脳トレーニング類の問題を解いて、「頭が良くなった。」などと錯覚するのも、問題を解けた時に生ずる気分的快楽を短絡的に「頭が良くなった。」と勝手に錯覚し、「思い込んで」いるだけに過ぎない。

 自分達のマインドセットを放置しておきながら、他人にだけ自律的な社会的責任判断を要求するというのは無責任極まりない身勝手な言い分である。

 放送大学における「技術者倫理。」の講義なども、特定の技術者だけに社会的倫理を要求しておきさえすれば、自分達の無責任性が放棄できるものであると勝手に錯覚しているに過ぎない。だから「勇気が出る。元気になる。」などという観念論を持ち出すことになるのである。

 何ら合理性のない観念に基づいていて、一体どこが学問であると言えるであろう。バカになることを促しておいて学問もすったくれもあったものではない。

 脳神経科学における、動物行動学習ばかりを知能であるとする観念は、本質的な知能、統合的な論理検証判断能力についての議論を無視するものである。脳神経科学というのは生物学に分類されており、生物学における無意識的「結果」と意識的「目的」を厳密に区別しない観念は、脳神経科学においても蔓延しており、何ら人間としての本質的知能に言及することはなく、「ヒトという種の生物における危険性。」についても全く触れられることがないのである。

 動物における行動学習をどんなに研究しても、動物における正常性しか論証されることはなく、人間としての正常な思考とは無関係な話である。

 アイヒマン実験において盲目的に権威に服従することは、生物的には正常な行為であり。こうした生物的正常性ばかりを論証しているだけでは本質的な人間としての正常な思考に基づく自律的な社会的責任判断について言及されることは原理的にない。

 アイヒマン実験の著者であるミルグラム自身も、「Cyberneticsの観点から。」などと称して生物学的なこじつけを正当化しており、こうした生物学のこじつけを許すことは大衆観念的にはヒトという種の生物の正当性の論証であると錯覚出来て満足で安心かも知れないが。社会安全性にとっては障害にしかなっていない無責任な観念であることを認識すべきである。

 Cyberneticsの観点からは、生物的正常性を論証するだけであって、生存してさえいれば何でも許される非人間的観点なのである。だからこそ優生学などという、わかりやすいオカルトまでもが温存されているのである。

 生物学自体がオカルトであるからこそ優生学が反証ずに温存されているのであり。これはもはや学問としての社会的要請には全く応えていないのであり、公金を用いて研究を進める価値など存在しない。

 放射性に耐性を持ったヒトだけに淘汰されれば、生物的には「生存」という「結果」は得られるであろう。それでもヒトという種の生物の優生性の論証にはなるのであろう。それなら原発が暴走しようと、地球環境が崩壊しようと、どうでも良くなるのである。こんなバカげた生物学上での正義を放置するべきではない。



 ヒトが引き起こす「人災」の全ては、動物行動学習による固定観念化というマインドセットが原因であり。動物行動学習だけを知能として扱う限り、もはや人災の全てはその場限りの対処療法しか行われなくなる。

 だからこそ国会による原発事故調査委員会は「制度法律がなかったことが原因。」などというバカみたいな結論に至るのである。「制度法律がないから自律判断が出来ません。」などというバカげた話に何の意味があろう。

 そもそも制度法律に依存しているからこそ自律判断が出来ないのであって、これは本末転倒である。

 動物本能的なマインドセットを正当化するというのは、マインドセットをマインドセットするという自己増殖性の結果であり。もはやバカの連鎖に過ぎない。バカというのは連鎖するのが大好きなのである。故にバカというのは暴走破綻するまで自己抑制することが出来ないのである。

 それこそ幼少期から虐待されて育ったわけでもないのに、短絡的に連鎖を繰り返すというのは当人の短絡性にこそ問題の原因がある。どういう育て方をされたとか、時代だの社会だの制度だの法律だのといった既存の価値観を鵜呑みにする短絡的固定観念によるマインドセットこそが、あらゆる「人災」の根源的原因なのである。

 生物学的な習性や傾向性に無意識に流されておいて、社会安全性も持続可能性にも言及することは原理的に不可能である。

 「気分が荒む。」からといって論理検証/合理性追求をしないというのは、これは単なる「甘え」に過ぎない。盲目になることを「心がキレイになった。」などと称して座禅で満足していれば社会安全性が高まるわけではなく、単に個人的な気分の問題に過ぎないのである。その区別すらつかないのであれば、あらゆる「人災」において他人に文句を言う権利はないのである。

 自律的な社会的責任判断というものは、決して自分勝手な観念的決め付けを指しているわけではなく。また、多数で共有して安心するようなものでもない。自律的な社会的責任判断というものは、統合的な論理検証に基づく合理性を徹底的に追求してこそ可能なものであり、身勝手に判断するようなものではなく、公開された上で論理的検証を受ける必要性がある。

 しかし生物学界は本論に対しての論理的反証も全くしないまま、ひたすら隠蔽黙殺という不透明性を発揮するのは。彼らが自分勝手な「組織の利益を優先」しているからに他ならない。

 公的組織の閉鎖性や不透明性というのは、組織の利益を保守する以外に理由がないからである。



Ende;
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動物的行動学習と思い込み。

2012年08月07日 19時22分28秒 | 意識論関連

○動物的行動学習と思い込み。

 記憶能力の高さというのは、逆に言えば思い込みの激しさと表裏一体である。

 現在の脳神経科学においては、動物的な行動学習記憶能力だけを取り上げ、これを短絡的に知能であると決め付けているが。動物行動学習というのは、単なる気分的好き嫌いによるバイアスだけで学習記憶された行動を促すだけであって、必ずしも論理的思考検証による判断を伴っているわけではない。

 更に言えば、一度動物行動学習した好き嫌いによる行動バイアスだけでしか選択出来ずに、論理的思考検証判断が放棄されるからこそ、ヒトの多くはバカに陥るのである。

 従って、現在の脳神経科学における文脈からは、ヒトという種の生物における本質的な人間としての知能、論理的思考検証判断能力は検証されることはないのである。



 親や教師からの評価という、抽象化された「エサ」に対する条件反射的動機でしか物事を考えたことがない者の場合。これは環境から与えられることによる気分的好き嫌いによる動物的行動バイアスとして条件反射的に刷り込み学習されているだけであって、これによって自主的自発的な動機による思考が阻害されるようになるのである。

 無意識下に刷り込み学習されてしまった行動バイアスに「整理」されてしまうことによって、意識的な論理検証判断による合理性追求が失われてしまうのである。

 動物的な行動バイアスに囚われている者にとって、論理検証というのは気分的に「嫌」という拒絶反応を引き起こすため、何が何でも理性を観念的に否定する。

 カントの純粋理性批判に異常に執着したり、合理性追求というものを利己的動機による断片的理性と混同するのも、論理的思考というものへの非論理的拒絶反応を観念的に正当化するための言い逃れ/取り繕いである。




 東電の社員達は、会社の方針に服従迎合することによって、会社内部だけにおける評価や出世を求めるように、動物行動学習的に行動記憶をしていたからこそ、自律的な社会的責任判断を放棄したのである。

 目先の利己的利益を優先することは本能的な行動バイアスによって選択されるものであり。統合的な社会全体の利益にまで意識を働かせるのは本能的行動バイアスに依らずに自律的思考なくして原理的に不可能である。



 アイヒマン実験においても、権威に服従する行動バイアスというのは動物本能的な気分によるものに過ぎず。どんなに権威に対してヒステリックな訴えを述べても、結局自律的に権威の命令を放棄するかどうかとは関係がない。

 重要なのは自律的な論理検証による判断選択であって。無意識に学習された行動バイアス感情に流されないことである。

 無意識な固定観念的行動バイアスというのは、常に感情と一体であり。異常なまでに論理検証を拒絶する。残念ながら当人自身は観念的拒絶反応を異常だとは一切「思って」おらず、異常性の自覚症状がないため、むしろ正常だと思い込む傾向があるため、非常に厄介である。



 イジメにおいても動物行動学習的に「イジメを放置しておかないと、自分がイジメ対象にされかねない。」と学習してしまえば、イジメを誰も止めなくなる「結果」に陥るのである。

 動物行動学習の「結果」というのは、常に無意識な気分的行動バイアスに流されるだけであり。無意識が促す暴走に抗う個人の自律的行動選択というものは、当人の意識、論理検証性、問題に対する意欲、意思なくして有り得ない。







Ende;
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左脳半球と短絡性傾向。

2012年08月06日 15時24分10秒 | 意識論関連


○大脳半球。

 大脳の右半球の損傷で左側無視は発生するが、左側半球損傷では右側無視は生じない。 右半球が損傷していなければ半側無視はまれである

 

多くは右の脳が損傷を受けたときに生じる、左側を無視してしまう左半側空間無視ですが、まれに右側のこともあります。症状が軽ければ日常生活に支障がないこともありますが、程度によっては歩く際に左側の物にぶつかりやすく危険であったり、左側に曲がれないために部屋に戻れなかったり、食事の際に左半分に全く手をつけないといった日常生活上の問題を呈することがあります。

 

 ↗出典:高次脳機能障害のリハビリテーション -慶應義塾大学病院



 左半球というのは神経軸索が短い傾向があり、短絡的で高速な処理を行うのに適しており。これが時間制限を伴なう数学的思考において優位だと考えられる。

 「数学=論理思考。」という方程式は、一面的には間違ってはいないが、論理思考の全てが数学だけで賄われるわけではなく。爆笑問題の太田光のように、数学が全くといって良いほど出来ない者であっても、社会の問題については論理的分析が出来ることもある。

 論理的思考というのは、必ずしも左脳の専売特許というわけではなく、右脳による広い視野に基づいた統合的論理思考というものも存在し、統合的論理思考というのは数学能力や左脳半球優位性だけで説明されるべきものではない。



 左脳半球の大脳皮質では、脳神経軸索が形成される層の厚みが薄い傾向があり、神経回線が狭い範囲でしか形成されにくい傾向がある。運動神経などの無意識的学習能力の獲得には左脳半球の方が獲得が早く、右利きが多いのもそのためではないかと考えられる。

 半側無視などの現象というのは、いうなれば当人のマインドセット「思い込み」の激しさによる結果である。意識が狭窄な状態に「整理」されたまま、「気付く。」ことが出来なくなるというのは、神経回路の狭さによる短絡的演算終了性によるものであろう。

 短絡的に思考が終了してしまえば、論理検証が途中放棄されてしまうのも当然であろう。

 純粋数学というのは、基本的に数学の文法規則を鵜呑みにすることから始まるものであり、「これは一体何の役に立つのか?。」という疑念を抱いてしまうと集中できないものでもある。

 数学が得意な者というのは、単純に個人的主体的に数学的パズルが好きな場合か。或は教師からの学力評価成績という抽象化されたエサに対する条件反射に過ぎない場合が考えられる。どちらにせよ、数学思考というのは短絡的論理思考であって、どんなに高速大容量の暗算が出来たとしても電子回路で実現可能な機械的能力に過ぎない。

 カントが批判しようと試みた純粋理性は、実際には特定の利己的欲望が動機の理性的判断のことであって、理性自体を批判するのは間違っている。理性に照らして欲望を選択すれば、利己的欲望に流されていては人間としての社会性が失われることに気付き、利己性を放棄する統合的論理思考にまで到達できるはずであり。そのことに気付かないというのもまた、短絡的論理判断による思考検証放棄によって気付くことが出来なくなるのである。

 半側無視ではなく、統合無視とも言えるこうした現象は、左脳半球の短絡的能力獲得性ばかりを追求する現在の教育手法の結果であろう。

 クボタ式などの「サル回し」的な短絡的「芸」の刷り込み学習の結果を「天才」だと思い込む大衆の短絡性もまた、短絡的教育手法を加速暴走させている。クボタ式的な能力獲得手法というのは、意識狭窄を促し、短絡的に特定能力「だけ」を伸ばす非常に危険な学習である。

 クボタ式的手法というのは、子供の本能習性を利用した一種の洗脳であり、環境依存的に誰でもできるようになる短絡的手抜き教育であり。自発的に深く「考え」る余裕を与えず、バカな大衆にとっての「こういう子供は頭が良い。」という観念に迎合した外見上の断片的能力獲得に過ぎないのである。配偶者が脳神経学者であるからといって、必ずしも認知科学的検証がなされているわけでもなく、実際には現在の脳科学者の多くは脳トレーニングだのアハ体験だのといった短絡的人気取りによる金儲けしか考えておらず、本質的知能が何かには全く言及していない。そもそも生物学における「結果」と「目的」の明確な区別すら誰も言及していないではないか、そんなバカに一体何の論理検証が可能であると思っているのであろうか。

 「これさえやっときゃ、頭が良くなる。」だの「これをやっとかないと認知症になるぞ。」といった強迫観念を植え付け、大衆迎合による金儲けにばかり邁進しており、誰も論理検証を全く行わない現在の脳科学界というのは、もはや単なる詐欺集団と化しており、全く科学としての機能、社会的役割要請を果たしていない。

 マスコミもまた、脳トレーニング類による視聴率利益ばかりを追求し、無責任に現在の脳科学界の腐敗体質を放置しており。共に悪質と言わざるを得ない。

 ヒトという種の生物が、人間たりうる所以とは。機械では再現出来ない統合的論理検証判断能力であり、「気付き。」による予測能力、想像力による社会持続可能性や安全性を「目的」とする自発的個人の意思の有無である。

 制度法手続きに従うだけの、いわば規範意識による盲目性というもので満足してしまうのは。統合的論理検証判断が働いていないための結果であり。危険性があるとしても自律的判断を全く行わずに暴走破綻を放置する思考停止性こそが「人間としての社会性」を伴う本質的知能の欠落を促すのである。

 短絡的論理思考というのは、短絡的な言葉で説明することが可能なものであり、短絡的に「わかった。」ような錯覚を促すものでもある。短絡的断片的な論理的説明だけで気分的に「納得。」してしまい、それ以上の検証にまで考えが及ばないというのは、統合的論理思考が働いていないからである。

 安全性に関わる技術の場合、あたかも制度法律に対して規範意識的に漫然と鵜呑みにして服従してさえおけば責任逃れが出来ると錯覚しがちであろうが。実際には常に予測や検証に基づいて創造的に改善していかなければならない分野であって、「想像力の欠如。」というのは技術者として重大な欠陥なのである。

 想像力というのは、機械条件反射的に他人から与えられた制度法律に従うのではなく、場合によっては制度法律に問題があると判断された場合には、それを改善する自律的自発的創造性を必要とするものである。個人の自発性なくして想像力というのは働くことはなく、目先の保身や責任逃れにばかり意識を奪われているから想像力の欠如を招くことに陥るのである。




 思考を「整理」するのはドーパミンの持つ常習性であり、気分的安心である。半側無視などの意識狭窄というのは、気分的に安心してしまうために自己検証が停止してしまうための結果である。

 半側無視などの症状は、当人に指摘すると観念的拒絶反応を示すものであり。左脳半球の論理性というのは、あくまで短絡的論理思考で満足してしまう気分的な思考「整理」の結果であり。論理思考の全てが左脳半球だけで行われているわけではなく。むしろ左脳半球というのは、短絡的論理思考で収束してしまい、統合的論理思考にまで考えが及ばないようにさせてしまう性質を持っているのである。

 理性というものへの短絡的拒絶反応というものも、結局は論理検証性自体が短絡的であるための観念的拒絶反応に過ぎず、論理的反証がないにも関わらず本論の世間的認知が進まないのはそのためである。




 子供に対して短絡的論理性で思考が整理収束しないようにするためには、短絡的に評価可能な目先の能力獲得を求めず、自発的で自然な脳の思考を促すようにする必要性がある。

 クボタ式などの人工的権威、力を用いた強迫観念的強制性というものは、個人の自然な脳の働きを阻害し、目先の欲望にだけ忠実な短絡的バカを大量生産するだけである。

 短絡的に学力が高く、大人にとって忠実に服従する取り扱い易い子供を生産しておけば、その大人、大衆凡民にとっては「頭が良い。」だの「賢い。」だのと短絡的に規定することも可能であろう。それに対して何の疑問も抱くことはないであろう。当然誰も何も検証することなく多数で共有することで安心するであろう。

 何の批判精神もなくクボタ式を「その手があったか。」などと迎合する茂木健一郎というのは、科学者としてはポンコツとしか言いようがない。現在の生物学や脳科学における論理検証性の欠落を放置しておいて、何をもって「頭が良くなった。」のかすら厳密には検証されることはない。

 無思考な大衆観念の多数決人気を集計しても、認知科学的な本質的知能の論証にはならない。ところが現在の脳科学界というのは大衆迎合による人気取り、金儲けしか追求しておらず、何ら本質的知能とは何かという検証を全く行っていないのである。アハ体験だの脳トレーニングで原発の暴走を止めることが出来たわけではないことくらい、バカでもわかりそうな話ではないか。

 ヒトという種の生物における、無責任性、意識や思考の狭窄性による危険性に言及すれば。大衆の気分的安心満足を得られないために人気がないのは当然である。

 本質的知能による自律的な社会的責任判断を行ったからといって、腐敗した組織や体制を批判しても世間的な評価が得られるとは限らず。利己的欲求を満たすようなものではないため、大衆観念的人気が得られないのも必然的結果である。

 アハ体験だの脳トレーニングだのクボタ式で「賢くなった。」と勝手に思い込んで気分的に満足しているから、原発暴走などの破綻結果を導くのである。

 思い込みというマインドセットこそが原発を暴走させたことを誰もが忘れている。

 そりゃバカとしか言いようがないでしょ。




 右脳優位であろうが左脳優位であろうが、これは傾向性の問題に過ぎず、思考が停止するのは気分的満足によるものであることに変わりはない。要は気分的満足によって思考が停止しているかどうかを自己自身で検証する自発性があるのかどうかが重要なのである。

 右脳優位な者の場合、短絡的でバカでも気分的納得安心できるような安易な説明が困難なのは当然である。そんなに単純で安易な思考で脳が整理されているわけではなく、説明に時間や量を要する深い思考に基づいているためである。

 一般的に右脳優位な者は感情的と言われるが、これは外見的な結果を述べているに過ぎず、単に左脳優位な者特有の短絡的で安易な結論への批判精神の結果であって。実際には左脳優位な者の短絡的で安易な思い込みによる外見上の精神的安定性を形容して「理性的」「論理的」に見えるだけのことに過ぎない。

 思考が短絡的に整理され、意識狭窄に陥っている者であれば、気分的には安心で満足なので、感情的に表に出ないだけであって、気分的安心満足という感情自体こそが意識狭窄性を作り出しているのであり。オウム信者達に見られる外見上の冷静さだけを抽出して「理性的」と形容するのは、あまりに短絡的で非科学的である。

 若しくは、統合的論理思考による説明というものが、短絡的論理思考しか出来ないバカにとっては理解困難であるために。あたかも右脳優位な者が感情的なように「見える。」だけなのかも知れない。理解能力の欠如した者に対して説明することは、非常に面倒臭くバカらしいことであるからだ。




 本質的な意識に基づく論理思考というものは、統合的論理思考を伴うものを指す。従って短絡的思考しか促さない左脳優位性とは無関係であり、数学的思考とも無関係である。

 左脳優位とか右脳優位であっても、これもまた傾向性の話に過ぎず、絶対的なものではなく、あくまで重要なのは感情気分による思考の途中放棄を回避する論理検証性なのである。傾向や習性に流されることこそが無意識であり、この無意識を促すのが本能由来の感情であるからだ。

 社会全体の持続可能性や安全性に基づいた論理検証を行うためには、断片的で短絡的論証しか求められない数学能力だけではダメで、問題に対する意識の広さというものが必要である。

 「数学=論理思考。」という方程式には論理的根拠はなく、外見上の雰囲気的結論でしかないのである。実際、数学がどんなに得意でも、ニーチェや養老の論理性欠落を誰も指摘することは出来ないのである。

 無論、原発の危険性においても同様である。(*後述)

 ヒトが引き起こす「人災」を回避するためには、思考可能なあらゆる思考探索性というものが不可欠である。断片的で短絡的論理思考はこれを阻害するだけであって、むしろ統合的論理思考を停止させる原因にしかならない。

 思考探索というのは、外的環境に左右されずに、自発的に検証する意思や意欲が不可欠である。「エサ」に対する条件反射では、本質的な自発的論理検証は構造原理的に行われることはないからだ。

 脳というのはシンボル化/抽象化によって思考を「整理」する。この「整理」こそが意識狭窄性を生み出し、統合的思考検証能力を失わせるのである。

 「整理」するのはドーパミンという脳内麻薬であって、これによって促される気分感情が思考を「整理」するのである。従って、何が気分的安心満足で、何が論理的検証であるかを区別認識するのは論理的検証であって、気分的安心満足を動物的に優先してしまうから盲目暴走状態に陥る結果になるのである。



 ここまで説明して改めて言うのもバカらしいが、「論理思考=数学=左脳」という方程式には論理的根拠がなく、風説に過ぎない。

 原発の危険性を放置した技術者の多くは、数学は得意であったはずである。断片的計算だけは得意で、目先の金儲けにしか興味がないからこそ原発技術者になったのであろう。だから原発技術者というのは何が何でも原発を温存させようとしたがるのである。彼らにとって原発は飯のタネであって、「エサ」であるから、事後正当化の屁理屈を枚挙したがるのは本能的な必然結果である。

 事後正当化の屁理屈の動機である「エサ」とは、世間環境依存的な報酬のことである。チンパンジーがエサを貰えなくなった途端に暴れ出すのと同様、事後正当化のための屁理屈に異常な執着をするのである。

 目先の学力や特定能力の獲得で「賢くなった。」などと短絡的に安心していれば大衆は満足であろう。しかし、その気分的満足こそが論理検証を放棄させていることに「気付く。」意識を喪失させているのである。

 ヒトが本来持つ人間としての知能、統合的論理思考による社会全体の安全性や持続可能性検証というものは。多数他人、世間などの環境に依存せず、本質的な自発性によって行われる純粋な探究心、好奇心によって育まれるものである。

 他人と同じである必要性はなく、あくまで個人の主体的行動選択判断の積み重ねによって、自律的な社会的責任判断能力というのは育まれるものなのである。

 しかし、ヒトという種の生物は、その本能的な社会形成習性によって統率的協調性、均一化こそに気分的安心を抱く性質、習性、傾向性があるため。気分的行動バイアスに無意識に流されてしまうことによって、本質的自発性を喪失し、多数他人からの評価報酬に対する条件反射的行動選択しか出来なくなってしまうのである。

 本能習性バイアスに基づく無意識的条件反射選択しかしていなければ、意識的な目的行動選択が出来なくなるのは必然的結果である。



Ende;

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大切にするということ。

2012年08月06日 15時22分24秒 | 意識論関連

○自分を大切にする。

 「自分を大切に出来ない者は、他人も大切にすることが出来ない。」

 これは定理である。しかし、本質的な意味においての「自分を大切にする。」というのは、決して無意識的に利己的本能欲望に従うことではなく、本質的な自発性を持った純粋な探究心、好奇心を意識的に選択することである。

 振り込め詐欺師が自分達の利益のために振り込め詐欺を続けるというのは、何ら本質的な「自分」を大切にはしておらず、与えられた周囲の状況環境に無為に無意識に流されているだけであって、本質的には「自分を大切に。」はしていないのである。

 自発的探究心や好奇心であっても、これもまたある種の本能ではあるが。様々な本能欲望の中から自分自身にとって最も大切だと意識的に、合理的な検証に基づく選択をすることによって、はじめて他人も大切にできるようになるのである。

 外見上「自分本位」というと、あたかも本能欲望のままに他人の迷惑も考えずに行動することだけであると勘違いしがちであるようだが。これは本質的な自発的意欲を持たない文系大衆観念に他ならない。

 自分自身が純粋に探究出来る行為に対し、自分自身の価値を置く場合。外見上は禁欲的で、決して身勝手で他人の迷惑を考えないような者にはならず。むしろ、自分自身で自分の精神的満足を充足することが出来るために、他人や世間に対しての過剰な評価報酬を求めたりしなくなり、結果的に外見上禁欲的な行動選択も、自律的な社会的責任判断をも出来るようになるのである。



 文系大衆観念上では、多数他人や多数によって規定された権威に服従するという、規範意識さえ満たしておけば、全てはうまくゆくものであると勝手に安心し、錯覚しているが。これはとんでもない大間違いである。

 多数が大間違いをしでかしておけば、規範自体も大間違いとなるのは必然である。ナチス政権や戦時中の日本も多数で大間違いを放置したからこそ無謀な暴走破綻へと邁進したのである。

 多数が間違っている場合は権威がどうにかしてくれると勝手に勘違いし、お任せパターナリズムを発揮して自律的には誰も何も検証せずに放置しておくことの方が、気分的に安心で満足を得ることが出来るのである。

 こうした行動バイアスというのは、本能的な社会形成習性による封建的統率協調行動傾向の結果である。

 権威だの英雄だの天才といった、特定のカリスマだけにあらゆる問題解決を期待することで、多数の大衆は無為無策に多数迎合して安心するだけで満足なのである。

 特定の「誰か。」への過剰な期待を持つことによって、自分達の頭の悪さを正当化し、免罪符にすりかえようとするのである。

 「自分はバカだから。」などと自慢げに主張しておいても、多数がバカであれば気分的に安心であるため、あたかも正当化できたような錯覚に勝手に陥るのである。

 自分の主張していることに論理的根拠があるのかを自己検証する者はとても少ない。むしろヒトの行動習性的には、論理的根拠のない固定観念ほど感情的でヒステリックに主張したがるのである。理性を伴わない思い込みであるからこそ感情的に主張するものであるからだ。


Ende;
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