サンスクリットを勉強し始めて、5年くらい経つんだったか。
最初の半年は全くの独習だった。
テキストを買ってきて、デーヴァナーガリー文字をおぼえることから始めた。
サンスクリットはインド=ヨーロッパ語族の古典語である。
名詞に男性中性女性が有ったり、格変化したり、動詞も人称や数で語尾変化したりする。
18,19歳の頃にドイツ語をちょっと学んだことで、
ちょっと慣れていて良かったと今さら思う。
仏教のおかげで、日本語にはサンスクリット研究の成果が移入されている。
現在の五十音図はサンスクリットの影響が大きい。
おかげで、逆にサンスクリットの音が憶えやすい。というか、
憶える必要が無い。
「あかさたなはまやらわ」と言えれば、サンスクリットの辞書がすんなり引ける。
あーらラッキー
※
山口謠司著『日本語の奇跡 <アイウエオ>と<いろは>の発明』を読んだ。
日本語の名詞は格変化をしない。
その代わりに、助詞がくっついて意味を補う。
くっつくので、「膠着語」と分類される。
「膠着語」にはトルコ語、モンゴル語、朝鮮語、日本語などがある。
先に述べた印欧語のように語尾変化するものは「屈折語」と呼ばれ、
語順で関係を表すものは「孤立語」といって中国語がある。
外国の言葉を持ち込む「借用語」は、膠着語に多いそうだ。
格変化させないから持ち込みやすいのだろうか。
言葉が取り込みやすいことと、
他国の文化、食物や生活習慣や宗教などもじゃんじゃん取り込むことと、
無関係ではないだろう、と著者は考察している。
こうやって書いているひらがなもカタカナも、漢字から開発したものだし、
漢字は中国から入ってきたものだ。
カタカナのおかげで現代の日本人は外来語を外来語として区別しつつも
多用することができている。
新しい概念ができたり入ったりしてきた時、
日本語に訳したり新しい言葉を作るのではなく、
日本人が発音できるカタカナに落とし込んで、そのまま取り入れる。
「カタカナ英語」という言葉が有るように、
カタカナを読んで発音しても、その語の母国語の話者の人に伝わるかと言ったら
まず無理だ。
でも日本では便利に使っていて、そこに疑問は無い。
「コンプライアンス」を[kəmpláiəns]と発音しないと通じない、
なんて言い出す人は誰もいない。
※
古代インドの哲学は、サンスクリットの詩で現代まで語り継がれている。
何種類もの韻律パターンに乗せて詩を暗誦する。
詩の勉強をするならぜひ唱ったほうが良かろう、ついてはお手本はと言うと
これがまた現代は動画サイトというお便利なものが有り、
IT大国インド発の動画はたんと有る。
色々聞いてみると、おかしなものが多い。と思って、このブログにも書いたことが有る。
日本語の「シャ」に当たる「ś」のところの発音がただの「サ」「s」になっているのだ。
なんなら綴りもそうなっている。
なんとな。
音が違ったら、言葉が違ってしまい、意味も違ってしまう。
それでは古典が正しく伝わらないじゃないか。
※
ところがどうやらこれは、地域によって「ś」という音が無いので
「s」になってしまっている、ということのようだ。
それでいいのだ。
インドは広い。
地域によって言語も違う。
言語によって持っている音は違う。
無い音は聞き取れないし出せない。
日本人は英語の「L」と「R」を聞き分けたり発音したりできない。
けれど、日本の中ではカタカナのラ行で問題にならない。
「レフト」も「ライト」も同じラ行である。
インドは広くて多言語である分、
発音が違うことには寛容である、ということのようだ。
正しいとはどういうことか。
英語を話す時に「reft」「light」と言ったら、「奪われた灯り」みたいなことになってしまう。
でも、日本で「レフト」「ライト」と書き「レフト」「ライト」と発音することは
間違いではない。
自分とこの基準でよその物を見ると間違っているように見えるけれど、
本人らにとっては何の問題も無い。
じゃあ、ほっとけ。
日本人はとかく、多様性に慣れていないのだと思う。
正しさに対するこだわりに表れていると思う。
それが、マスク警察とか進め一億火の玉な全体主義に繋がると危険だ。
インドの動画を見て「シャ」が「サ」になっているとか、
なーにを日本の初学者が言っているのか。
まず、「へえーえ。こういうふうに発音するのも有るのか。」と
そのまま受け止めるのだ。
最初の半年は全くの独習だった。
テキストを買ってきて、デーヴァナーガリー文字をおぼえることから始めた。
サンスクリットはインド=ヨーロッパ語族の古典語である。
名詞に男性中性女性が有ったり、格変化したり、動詞も人称や数で語尾変化したりする。
18,19歳の頃にドイツ語をちょっと学んだことで、
ちょっと慣れていて良かったと今さら思う。
仏教のおかげで、日本語にはサンスクリット研究の成果が移入されている。
現在の五十音図はサンスクリットの影響が大きい。
おかげで、逆にサンスクリットの音が憶えやすい。というか、
憶える必要が無い。
「あかさたなはまやらわ」と言えれば、サンスクリットの辞書がすんなり引ける。
あーらラッキー
※
山口謠司著『日本語の奇跡 <アイウエオ>と<いろは>の発明』を読んだ。
日本語の名詞は格変化をしない。
その代わりに、助詞がくっついて意味を補う。
くっつくので、「膠着語」と分類される。
「膠着語」にはトルコ語、モンゴル語、朝鮮語、日本語などがある。
先に述べた印欧語のように語尾変化するものは「屈折語」と呼ばれ、
語順で関係を表すものは「孤立語」といって中国語がある。
外国の言葉を持ち込む「借用語」は、膠着語に多いそうだ。
格変化させないから持ち込みやすいのだろうか。
言葉が取り込みやすいことと、
他国の文化、食物や生活習慣や宗教などもじゃんじゃん取り込むことと、
無関係ではないだろう、と著者は考察している。
こうやって書いているひらがなもカタカナも、漢字から開発したものだし、
漢字は中国から入ってきたものだ。
カタカナのおかげで現代の日本人は外来語を外来語として区別しつつも
多用することができている。
新しい概念ができたり入ったりしてきた時、
日本語に訳したり新しい言葉を作るのではなく、
日本人が発音できるカタカナに落とし込んで、そのまま取り入れる。
「カタカナ英語」という言葉が有るように、
カタカナを読んで発音しても、その語の母国語の話者の人に伝わるかと言ったら
まず無理だ。
でも日本では便利に使っていて、そこに疑問は無い。
「コンプライアンス」を[kəmpláiəns]と発音しないと通じない、
なんて言い出す人は誰もいない。
※
古代インドの哲学は、サンスクリットの詩で現代まで語り継がれている。
何種類もの韻律パターンに乗せて詩を暗誦する。
詩の勉強をするならぜひ唱ったほうが良かろう、ついてはお手本はと言うと
これがまた現代は動画サイトというお便利なものが有り、
IT大国インド発の動画はたんと有る。
色々聞いてみると、おかしなものが多い。と思って、このブログにも書いたことが有る。
日本語の「シャ」に当たる「ś」のところの発音がただの「サ」「s」になっているのだ。
なんなら綴りもそうなっている。
なんとな。
音が違ったら、言葉が違ってしまい、意味も違ってしまう。
それでは古典が正しく伝わらないじゃないか。
※
ところがどうやらこれは、地域によって「ś」という音が無いので
「s」になってしまっている、ということのようだ。
それでいいのだ。
インドは広い。
地域によって言語も違う。
言語によって持っている音は違う。
無い音は聞き取れないし出せない。
日本人は英語の「L」と「R」を聞き分けたり発音したりできない。
けれど、日本の中ではカタカナのラ行で問題にならない。
「レフト」も「ライト」も同じラ行である。
インドは広くて多言語である分、
発音が違うことには寛容である、ということのようだ。
正しいとはどういうことか。
英語を話す時に「reft」「light」と言ったら、「奪われた灯り」みたいなことになってしまう。
でも、日本で「レフト」「ライト」と書き「レフト」「ライト」と発音することは
間違いではない。
自分とこの基準でよその物を見ると間違っているように見えるけれど、
本人らにとっては何の問題も無い。
じゃあ、ほっとけ。
日本人はとかく、多様性に慣れていないのだと思う。
正しさに対するこだわりに表れていると思う。
それが、マスク警察とか進め一億火の玉な全体主義に繋がると危険だ。
インドの動画を見て「シャ」が「サ」になっているとか、
なーにを日本の初学者が言っているのか。
まず、「へえーえ。こういうふうに発音するのも有るのか。」と
そのまま受け止めるのだ。
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